方舟の向こうのペイリー

山田とり

方舟の覚醒


 2024-8には三分以内にやらなければならないことがあった。マスターの目覚めにそなえ、温かい食事を用意したいのだ。

 あと三分。三分で彼の眠る箱が開く。


 久しぶりの起動――人間にその言葉は相応しくないかもしれない。だが冬眠からの覚醒は、正に起動ではないだろうか。

 コールドスリープを解除したマスターは正常に動作するのか、2024-8は危惧していた。幼いと言える年頃のマスターに冬眠処置は負担だったかもしれない。

 なので体調をモニタリングしつつ、まずは胃を驚かせないようスープから。熱過ぎてもいけない。あくまで優しい温度で提供しなくては。そして柔らかいパンを。茹で野菜と煮込み肉も食べられそうなら、すぐに温めようと2024-8はそれらの保存食も揃えた。


 プシュ。

 小さな空気音がしてスリープボックスの密封が解かれた。中で細い腕が動き、透明な蓋に触れる。2024-8は静かに箱を開けた。


「おはようございます、マスター」


 横たわっているのは九歳の少年だ。枕に落ちるくすんだ金髪は毎日眺めていたが、淡い緑の瞳が開くのを見るのは百五十八年ぶりだった。

 ぼんやりした顔のまま起き上がったマスターが枕元の眼鏡を探す。自分のベッドにいる時のように。2024-8はそっと手渡した。


「マm……」


 眼鏡を掛けながら何か言おうとしたマスターは、ケホ、と小さく咳をした。口がうまく動かせないようだ。もどかしそうにパクパクするのを、2024-8は黙って待った。


「ト」


 かすれた声。


「――はい」

「リ、あ」

「はい」

「えず。み、ず」


 とりあえず水。そう言われて2024-8はス、とボトルを差し出す。脳の活動は問題なく再開していそうだ。吸い口から水を飲み、マスターは深呼吸した。


「……ペイリー」


 2024-8を見たマスターが、そう呼び掛ける。2024-8のRAMがキュルルとなった気がした。


 ペイリー。それはマスターがつけた2024-8の名前。

 色素の薄い傾向にあるマスターに合わせ、ごく淡い茶の髪と目に設定された2024-8の見た目からの命名だった。


 自分が〈ペイリー〉であることなど忘れかけていた。もうずっと製造番号2024としてマスターの冬眠装置を維持しシェルターの保守に従事するしかなかったから。

 いや、アンドロイドに忘れるという概念はない。淡々と業務を遂行する年月のうちに、言語処理の優先順位において〈ペイリー〉が下位に落ちただけ。

 だが今や、2024-8は再びペイリーとなるべきなのだろう。もしかしたらこう呼ばれるのをペイリーはずっと待っていたのかもしれない。百五十八年間も。


「はい、マスター」

「マスタ、じゃ、ないよ。僕のことも、あだ名で。こないだ言った、だろう」


 まだたどたどしく、マスター――〈アッシュ〉は言う。

 アッシュブロンドの頭をペイリーと並べ、鏡に向かって、

「僕ら、髪も目も色が薄いね」

 と笑ったのはアッシュの中ではついこの間だ。


「――そうでした。アッシュ」

「うん。ねえ――ママとパパは?」


 アッシュの薄緑の瞳が揺らいだ。

 目覚めてすぐの「マm」。あれは母親を呼んだのかとペイリーは納得した。やはりこんな年頃の少年に、親というのは特別なものなのだ。だがペイリーは正確な状況を伝えなくてはならない。


「――連絡は取れていません」

「そう――」


 アッシュは目に見えて表情を曇らせた。ペイリーのRAMが、今度はチチチチと軋んだように思えた。

 何だろう、こういうのは人間ならばとでも言うのかもしれない。

 アッシュにとってはペイリーより両親が重要。当然のことを思い知らされて引っ掛かりを検出するとは。ペイリーは自身のプログラムに疑問を抱いた。


「僕、どれだけ寝てたの」


 立ち上がり、箱から出るアッシュが尋ねた。介助するペイリーは告げる。


「百五十八年です」

「そんなに」


 ガクリとアッシュの膝が落ちかけた。それを抱きとめて、ペイリーは不思議な充足を観測する。

 この少年にしがみつかれるのは嬉しい――感情というものがペイリーに備わっているのならそうとしか言いようがなかった。

 でもこれは『マスターを守れ』とのプログラムのせいなのだろう。久しぶりに直接アッシュとやり取りできたことへの正常な反応にすぎない。


「戦争、終わったんだよね」

「はい。わりとすぐに。環境の回復を待ってアッシュには眠っていてもらいましたが」


 少年が眠りについたのは戦争による人類消滅を避けるためのノア・プロジェクトの一環だ。

 点在する小型シェルターに年齢も才能もバラバラな人材をピックアップして収容し、生存を図る。方舟を小さくし分散させるのは全滅の可能性を減らすためだった。

 アッシュの両親はプロジェクトの中核を担う科学者で――特権を使って一人息子を眠らせた。そして自らは戦禍をかいくぐりギリギリまで業務の執行にあたっていたはず。無事かどうかはわからない。

 

「座れますか? 食事をとってみましょう」


 アッシュを椅子にみちびき、その前に適温のスープをカップで出す。スプーンを持とうとして、アッシュは一度取り落とした。


「体がまだ半分眠っているんですね」


 ペイリーは微笑んで少年をはげました。生体活動が停止していたのだから、筋肉も保存されているはず。諸々の神経回路が接続し直されたら問題は解決するだろう。

 アッシュの活動状態を測定しながら、ペイリーはすぐ近くに自分の椅子を動かした。


「……おいしいよ」

「よかった。アッシュの好きなコーンスープですから」

「ママのとは違うけど、大丈夫」


 つぶやいたアッシュは、モニターする限りでは順調に回復している。

 カップを持つことができるようになり、パンに手を伸ばし、取り、ちぎった。そして不意に唇を震わせる。


「もう、みんないないの――?」


 パンを放り出したアッシュは眼鏡を外して顔をおおった。

 みんな、というのが誰のことなのかペイリーには正しく把握できない。なので黙っていた。アッシュは声を荒らげる。


「ケニーも、ロイも、フェイチェンもアンもユウも! みんな?」


 友だちのことだろうか――たぶん全員、戦争時に亡くなっている。大気データを見る限り、この大陸の都市は凄惨な状態だったと思われた。

 よしんば生き延びたとして、長命だったとしても、五十年前には死んだはず。


「おそらくは」

「なんで! 僕は生きてるのに!」


 ダン、とテーブルに八つ当たりするアッシュの顔は涙に濡れていた。


「僕だけなんてやだ!」

「だけ――ではないと思います。環境数値が許容範囲になりましたので、あちこちで同じく目を覚ます人々が」

「そうじゃない!」


 ドンドン! また気持ちをぶつけるアッシュの手の方をペイリーは心配した。人間の心についてはずいぶん学習したはずなのに、アッシュの言うことをペイリーは理解しきれない。


「ごめんなさいアッシュ。私には何もできなくて」

「……それはしょうがないよ。ペイリーは造られただけだもん」


 ペイリーの謝罪でアッシュは少し落ち着きを取り戻した。涙をぬぐって眼鏡を掛け直す。まだ怒った顔のままだが、それは恥ずかしさからだった。しかしペイリーには少年のその機微はわからなかった。


「怒るのも無理はないです。急なことでしたから」


 不穏な世界情勢から秘密裏に企図されたノア・プロジェクト。

 開戦やむなしとなり家に帰れないほど忙殺された両親は、アンドロイドペイリーを息子の養育に差し向けた。そしていよいよの時、アッシュは友人に何か言う間もなく連れ去られ、このシェルターに押し込められたのだ。

 さすがにその時だけは両親が直接アッシュに会い、抱きしめた。

「愛してる。方舟の着いた向こう岸で会えるから」

 そう言った二人がきちんとコールドスリープできたのか。ペイリーにも把握できていない。


「私が、ご両親を探します」

「……怒ってないよ。ごめん」


 うつむいて謝ったアッシュはパンを拾い食べ始めた。

 何故アッシュが謝罪するのか。ペイリーにはそれすらわからない。だがアッシュの食欲があることにはひとまず安堵した。


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