人魚の胸元

尾八原ジュージ

先生のこと

 そのひとはたぶんあたしにとって、主人とか飼い主とか呼ぶようなものだったんでしょうけど、あたしはいつも先生って呼んでいました。先生は大学で生物の勉強をしていたのですけど、あたしを飼っているときに大学を辞めてしまったので、先生ではなくなりました。でもあたしは先生の名前を教えてもらっていないので、それからもずっと先生、先生と呼び続けていたのです。

 大学を辞めたあと、先生はきれいな金魚を作って売る仕事を始めました。最初、それは大変順調でした。たくさんお客さんがつきました。さすが大学で研究をしていたひとは違う、鱗の輝きぐあいが他所とは比べ物にならないなどと褒められて、先生は子どものように喜んでおりました。

 でも商売を始めて三年目、金魚の病気が流行った年に、大きな水槽がみっつも全滅して、それをきっかけにどんどん下り坂になりました。いよいよお金がなくなって、来月のお家賃もあやしいというときになって、先生はとうとうあたしを手放す決心をしたのでした。

 あたしは反対しました。そもそもあたしは商品ではありません。でも先生は、お前はきれいだし、人魚はまだまだ珍しいからなどと、言い訳めいたことをぶちぶち言うのです。お前だってぼくのところにいるより、もっと大きなお屋敷で養ってもらったほうがいいだろうなどと言われても、先生のそばがあたしにとっては一番いいので、あたしは一所懸命よそへやらないでくださいと頼みました。

 あたしは、人間の中では先生のことがいちばん好きでした。それに、世のなかにはまだ、人魚の肉は万病に効くとかなんとかいう戯言を、本気で信じているひとが少なくないと聞くではありませんか。でも先生は、どうしてもあたしを売るつもりのようでした。お前を売って、そのお金であたらしい水槽を買って金魚を増やして売って、お金持ちになったらまた買い戻しにいくから。そう言って先生はあたしを宥めました。けれど、あたしはやっぱり全然納得いかないのでした。

 しかし先生はとうとう、明日お客さんを連れてくるからなどと言い出しました。あたしもいよいよ覚悟を決めねばならないと思いました。これが今生のお別れになるかもしれないからとひさしぶりにお酒を飲ませてもらって、そうしているうちにふたりともずいぶん酔っぱらいました。お酒のせいでしょうか、あたしは急に、もう怖いものなんか何にもないという気分になりました。

 そこであたしは水槽の縁に身を乗り出して、先生を手招きして、思い出に一度抱きしめてほしいと頼みました。先生はそうかそうかと言いながら、ふらふらと水槽の際まで来てくれました。そこであたしはよりいっそう身を乗り出して、先生をぎゅっと抱きしめると、いきなり背中の方へぐっと倒れて、ぼちゃんと水槽にふたりで落ちました。先生はあたしの胸の中で何かむうむう言っていましたが、あたしは先生をぎゅっと抱きしめたまま、離すつもりは少しもありませんでした。そのうち先生の体からぱったりと力が抜けて、何も言わなくなりました。

 あたしは冷たい水槽の底で先生の肉を食べながら、お客がくるのを待ちました。

 翌日、先生から聞いていたとおり、あたしを買いたいというお客が店にやってきました。押し出しのいい立派な紳士でした。あたしと、あたしの水槽の底にある人骨を見るとふうんと言って、店主を食べてしまったのかい? とあたしに問いました。離れ離れになりたくないので食べましたと答えると、それはいかにも人魚らしくていいことだ、それに鱗の色もいい、顔立ちもたいへん美しいと、あたしを褒めてくれました。それであたしは、そのお客のこともちょっとは好きだと思いました。

 お客は首をかしげてあたしをまじまじと観察し、そうは言ってもうちは客商売だから、お前を飼っておくのは難しいねぇ。旅館の入口で水槽をつくってお客様にお見せするつもりだったんだけれど、などと言いました。なにがおかしいのかしらと思って胸元を見ると、あたしの両の乳房のあいだ、ちょうど先生の顔を押しつけていたあたりに、先生の顔の跡がくっきりとついて、苦しそうに口をぱくぱくさせているのです。それは人面瘡だねえ、なかなか恐ろしい表情だから、お客様の前にお出しするのはちょっとねぇ。お客は残念そうにそう言い、なるほど、それならば人前に出せないというのももっともだと、あたしも思いました。

 主人が死んで暮らすあてがありませんと言うと、お客は厚意で、あたしを海まで運んでくれました。あたしは何度もお礼を言って、ひさしぶりの海にぼちゃんと飛び込みました。そのお客は、今でもお店をいくつも持って、大変盛んにやっています。

 こうしてあたしはひさしぶりの海に戻りました。きびしい海中でやっていけるか少し不安でしたけど、案外と体はすぐ慣れるし、魚の捕り方もちゃんと覚えていました。それで今ではあちこちの海を呑気に渡り歩いているのですけど、たまに人間の街が恋しくなって、お酒も飲みたくなるものですから、こうして陸へあがってくるのです。ちょっと足を見せてさしあげましょうか。ね、これであたしが人魚だってわかったでしょう。あなたがもう一杯奢ってくださるんなら、特別にここをちょっとはだけて、先生のお顔を見せてあげても、いいんですけど。


 酒場で出会った美しい女は、そう言うとたくし上げていた着物の裾をさっと元に戻して、銀色の下半身を隠してしまった。

 それとほぼ同時に、離してくれぇと押しつぶしたような男の声が、彼女の胸元から聞こえた。女は衿のあたりをさっと手で隠して、嫣然とわらった。

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