神様の掛け軸
芦原瑞祥
掛け軸
亡くなった祖父の部屋の天井裏から、掛け軸の箱が出てきた。父と母が中を確認したところ、美しい女性が描かれていた。日本神話に出てくるような白い衣を着て、垂れ髪に黄金の冠をつけている。
「仏画ではないようだね」
「神々しいお顔だし、神様なんじゃない? お義父さんは神主だったし」
由緒書きも何もないが、神職だった祖父がどこからか頂戴した神像の掛け軸だろう、ということになった。特に母はこの掛け軸を気に入ったようで、ちょうど年末だったこともあり「小正月まではこの掛け軸をお飾りしましょう」と床の間に設置した。
けれども僕は、この掛け軸が怖かった。何かが「入っている」ような、圧を感じるのだ。
その直感は当たった。受験勉強で深夜まで起きていた僕は、丑三つ時にトイレへ向かった。勝手知ったる自宅の廊下なので、灯りはつけないままひたひたと進む。
自分の足音に、別の足音が重なる。ぞわりとして、僕は立ち止まった。息を殺していると、座敷の方から影が伸びてくる。ああ、来るな、来るな、という願いも空しく、曲がり角からあの掛け軸の女がぬっと顔を出した。黄金の冠を外し、乱れた髪が頬に張り付いている。
『見たな』
血濡れたような赤い唇で、女が言った。こんなのが神様なわけがない。
女は、水にたゆたうようにすうっと僕の側に近寄ってきた。
『まだ少し若いな。あと二年もすれば……ふふ』
蠱惑的な声音が、僕の恐怖心を煽る。女は僕のことを飼い殺すつもりらしい。早く両親に言って、あの掛け軸を手放さなければ。
『妾に会ったことは、誰にもはなさないでおくのだぞ。破ったら』
右耳に、氷柱で刺されたような痛みが走った。女が僕の耳を噛んだのだ。
『印をつけたからな。どこへ逃げても無駄だと思え』
そう言って、女は座敷の方へすっと消えた。僕はしばらく呆然とした後、トイレに行くのも忘れて自室へ駆け戻り、布団をかぶって朝まで震えていた。
なんとかしてあの掛け軸を処分するか、せめて仕舞い込まなければ。僕は「神様のお姿なんだから、気安く飾っちゃ駄目なんじゃない?」と母に訴えてみたが、「こんなに美しいお姿なんだから、お正月くらい飾らなくっちゃ」と聞いてくれない。父にも「お爺ちゃんが天井裏に隠してたのは何か訳があるんだから、勝手に出しちゃいけないんじゃ」と言ってみたが、「忘れてただけだろ」と流されてしまった。
夜、受験勉強をしていると、呻き声が聞こえた。またあの女かと怯えたが、どうも違うようだ。僕はそっと部屋のドアを開けて様子を窺う。呻き声は父のものだった。
(おいおい、思春期の受験生がいるんだから、少しは遠慮しろよ)
てっきり親の現場案件かと思ったが、一抹の不安がよぎった僕は、そっと両親の部屋の前に行き、戸を開けた。
あの女が、父の布団の上に座って顔を覗き込んでいた。
(僕ではまだ若いから、父さんが)
女は僕に気付くと、にやりと笑って立ち上がり、僕のそばを通り抜けた。
『生かさぬよう、殺さぬよう』
くつくつと笑いながら、女は座敷の方へと去って行った。
こうなったら強硬手段と、僕は掛け軸を処分しようとした。けれどもなぜか、そのたびに母がやってきて「元の場所に戻しなさい」と叱るのだ。母の目は微妙に焦点が合っていなくて、僕は泣きそうになる。そんな様子を、掛け軸の女がにやにやと笑いながら横目で見ているのだ。このままでは僕の家はおしまいだ。何とかしなくては。
眠れない夜を過ごす僕は、友人たちから心配されるほど顔色が悪いようだ。でも、日に日にやつれていく父よりはマシだろう。
「その耳、どうしたんだ」
同級生の武田に声をかけられた。耳なんて何も、と思って僕は、あの女に右耳を噛まれたことを思い出した。鏡で見ても何ともなかったはずなのに、武田は僕の右耳を指差している。
そうだ、武田の家はお寺だった。寺生まれのTさんだ!
「なあ、武田」
と言いかけて僕は、あの女から「はなさないで」と言われたことを思い出した。いや、正確には「妾に会ったことは」だ。それならば。
「お前んち、いわくつきの絵とか人形とか持ち込まれたりする? ああいうのってどうすれば呪われずに済むの?」
武田は「親父が坊さんってだけで、俺はあんまし知らないんだけど」と前置きをして、「やっぱお焚き上げかな。焼いちゃうの。でも人形はダイオキシンが出るやつもあるから、最近は焼けないかな」と言った。それから僕の右耳をまざまざと見て、「いわくつきでも、今まで何の問題も起こしてなかったやつは、それなりに対処されていたはずだから、むやみに何かしない方がいい場合もある。触らぬ神に祟りなし、ってね」と付け加えた。
「対処って?」
「平たく言えば、封印みたいなものがしてあるとか、もっと強い仏像や神像が側に置いてあったとか」
もしかしたら天井裏には、他にも何か置いてあったのかも。
「それだ! ありがとう、武田!」
早速帰ろうとする僕を呼び止め、武田は書道の時間に使う細筆で、僕の右耳にお経を書いてくれた。逆耳なし芳一だ。
僕は家に帰ると、祖父母の部屋へ向かった。右耳のお経のお陰か、母(というかあの女)の邪魔は入らなかった。押入の天井板をはずし、懐中電灯で天井裏を照らす。
「あった!」
そこには、細長い箱がもう一つあった。
箱の中身は、穏やかな笑顔をした男の神様の掛け軸だった。有名な神様だから、僕でも知っている。もともとはインドの怖い神様だったけど、日本の神様と習合したと聞いたことがある。
僕がそれを床の間へ持っていくと、掛け軸の中の女が怯えた表情になるのがわかった。神主だった祖父は、あの女をおとなしくさせるために、男の神様の掛け軸と一緒に仕舞っておいたのだろう。
僕はすかさず女の掛け軸をくるくると巻いて箱の中に仕舞い、男の神様の掛け軸を代わりに床の間へ掛けた。
あれだけ女の掛け軸に執着していた母も、掛け軸が変わったことについては何も言わなかった。もう、あの女が掛け軸から抜け出してくることはなく、父もだんだん元気を取り戻した。こうして僕の家族は平和な正月を迎えたのだった。
三学期が始まり学校へ行くと、武田に声をかけられた。
「お前んち、お祀りするのが難しい御方がいらっしゃるんじゃね? 引っ張り出してきたのに正月のお供えもしないって怒ってらっしゃるから、きちんとしないと大変なことになるぞ」
神様の掛け軸 芦原瑞祥 @zuishou
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