紅やもりの後悔

壱単位

紅やもりの後悔


 「ね、はなさないで、絶対だよ、お願いだよ」

 「大丈夫だ」

 「ね、ここ、けっこう高いよね、紐、ずいぶん細いよね。僕たちふたりなら重いと思うんだけど、紐、切れないかな」

 「……特殊な繊維で編んでいる。うちのでっけえ野郎ども、三人ぶら下げても切れなかったよ」

 「そうなんだ、なら大丈夫かな……ああ、高いなあ、窓から何度もみてたけど、こうやって足がぶらぶらしてると、なんかもっとずっと高いみたいに感じるよ……ね、君、いつもこうやって高いとこ侵入してるの」

 「ああもううっせえな!」


 シノファは思わず大きな声をだし、次いで右手で口を覆ってしまった。

 左手いっぽんで鋼製繊維のロープを掴むことになったから、さしも男まさりの膂力を誇るシノファであり、背中の男がいまだ少年といえる体躯であっても、二人分の体重を片手で支えるのは無理がある。

 ずるずるずると、背丈の倍ほどの距離をずり下がる。


 「あああ落ちる落ちる落ちる」

 「……っく、あぶねえ。なあお前、ちょっと黙ってられねえのか」


 シノファは両手でロープを掴み直し、ふうと息を吐いて、右肩のあたりに頬をおいているその男を横目に見た。

 

 今夜は、月がない。雲も厚くかかっている。

 だから、さきほどは蝋燭のあかりで見ることができた、その男の少年のような丸い目も、若い栗の木の実のような明るい茶の髪も眉も、そうして、唐突に窓から侵入したシノファに向けた、怯えとも諦めとも見えたその小動物のような表情も、いまは確認することができない。


 いま彼女たちがぶら下がっているのは、王宮の第三棟、つまり物置となっている高い塔の、外側。地上からは背丈の二十倍ほどあろうか。

 王宮の区域でもはずれのほうだし、高価なものを格納する棟でもなかったから、いかにも警備は薄かった。だから、紅やもり、と異名をとるシノファには、とくに身を隠すこともなく外壁を伝ってやすやすと侵入できたし、いくつも窓を巡って物色をする余裕すらあったのだ。


 その一室。

 殺風景なその部屋に、男はいた。

 男は、シノファが窓からその部屋を覗くのと同時に、寄ってきたのだ。

 もちろんシノファに寄ったのではない。外の空気を吸おうとしたのだろう。

 が、ともかくも、二人は呼吸の温度すら感じられるような距離で、あ、と漏らした声が互いに聴き取れる間合いで、対面したのである。

 

 シノファはこの男を、見知っている。


 王妃が子に恵まれないなか、庶子とはいえ、唯一の男子であるヴィシュアスは大事にされ、厚く遇されて、行事のたびに後継者として広場にも出されたし、いまだ少年だというのに、すでに多数の伝記作家によって正当な後継者たる裏付けが幾重にもなされていた。

 シノファも年始なり祭りのたびに高い場所から挨拶する彼の顔を遠く見ていたし、盗賊なかまと酒場で飲むたびに、吟遊詩人がうたう彼の伝説を聴かされた。


 そうして、三年ほど前。

 王妃が男子をなしたのだ。


 ヴィシュアスは、消えた。

 あれだけ煩く喧伝された伝説は、その主体がいつのまにかすり替えられていた。どんな集まりにも現れない。そうしていつか、彼は流行り病で亡くなった、と言われるようになった。


 だから、およそひとが暮らす場所とも思われない物置棟の最上階で、わずかな蝋燭のあかりにゆらめいて見えるその童顔が、いつか見た王の庶子のものだと理解した瞬間、いちどシノファはロープを放し、落下しかけたのだ。

 その腕を、ヴィシュアスは、運動の足りない細い身体を投げ出すように、掴んだ。掴んで持ち上げ、窓に寄り掛からせた。荒い息をたがいに吐いて、しばらくしてから、へへ、と笑ったのは、ヴィシュアスだった。


 笑ったの、だろうか。

 たしかに口元は、歪んでいた。肩を震わせていた。

 だが、その男の目元が光っている理由を、シノファは理解しかねたのだ。


 「……あはは、なんだ、これ。夢なのかな」

 「……あ……」

 「……ね、君。僕を……ころしに、きてくれたの?」

 「……」

 「そう、なんだね。ありがとう……やっと、来てくれたんだね」


 月明かりは、ない。

 蝋燭は、細い。

 だから外観など、表情など、そう鮮明にみてとれるはずもない。


 それ、でも。

 たしかに星のような涙だったし、その涙がシノファに彼を攫わせ、そうして、背負わせたのだ。

 背負ったのは、彼の身体ではない。

 焼きが回ったなと、女盗賊、紅やもりは深く嘆息した。


 「ねえ、これからどこ行くの」

 「ああ?」

 「僕、ころされるの」

 「ころしゃしねえよ」

 「じゃあ、なんで僕を攫って……」

 「うっせえな!」


 また声を上げ、それでも今度はロープを放さずに、シノファは俯いて、ちいさく後を続けた。


 「……ちょうど家族でも、つくろうかと思ってたとこなんだよ」



 


 

 

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