煙
あにょこーにょ
第1話
朝、顔を洗って鏡をのぞいてみると、耳のふちがささくれているのだった。
洗いたての顔をするりと化粧水でなぞり、指先を耳まで這わせると、妙にしみる。それで、鏡で確認してみると、何かに引搔かれたように、ささくれになっていたのだ。左耳と比べてみると、すこし周りも赤みがかっている。
まあ、ささくれくらい、誰でもできるし、すぐ治る。
私は台所へ向かい、湯呑に薬缶のお茶を注いだ。すぐさま白い湯気がたちのぼる。母親はすでに起きていて、お味噌汁に入れる人参や油揚げを手際よく切っていた。炊飯器からは今にも炊けそうなにおいがしている。
私はそのうしろ姿を、ぼんやりと眺めていたが、それに気づいた母は手を止めてこちらを見た。
「おはよう、今日は早起きだね」
「そんなことないよ、いつもこの時間には起きてるもん」
「起きてる、じゃなくて目が覚めてる、でしょ」
「いいじゃん、どっちでも」
湯呑のお茶をふうふう言わせ、口をつけようとした時、
「あんたそれ、みみ、どうしたの」と言われ、あつあつの湯呑をテーブルに戻した。
「ああ、なんかささくれちゃっててさ、なんでなのかよく分かんないんだけど」
「いや、ささくれちゃってて、とかのもんじゃないよ、それ、痛くないの」
「なんだ、大げさだなあ、ってお母さんも耳、ささくれてるけど」
「え」
母はガスコンロの火を消し、ふたりで、洗面所の鏡台へ向かった。
鏡を見た母は「朝、顔を洗ったときはこんなささくれなかったのに」と訝しんでいる。私も母の後ろで耳を確認すると、朝よりも赤くはれあがり、ささくれもいくらか長くなっていたので、だんだんとこわくなってきた。
何かがおかしいと思った私たちは、洗面所の隣の障子をしずかに開けた。障子の向うには父が寝ているのだった。
はたして、父の右耳も、ささくれになっているのだった。
そのささくれを見た瞬間、
「やだああああああ」と声を上げていた。その声で父はむっくり起き上がり、目を擦った。
「なにごと」
「みみ、みみがさ、さ、ささ、ささくれててえ」
「ささくれがどうしたんだ、いったい」
父は私たちの間を押しのけるようにして顔を洗い、耳を見た。
耳を見て、すぐにささくれをぷちん、とちぎった。
ぷちん、とちぎると、煙がしゅううう、とあがり、忽ちベールになった。
ベールは、脱ぎすてられたブラウスのようにだんだんと丸まっていき、そこから狐があらわれた。狐は私たちに注目されていることにはっとし、台所の方へ駆けていった。私たちも急いでついて行くと、まな板の上にあったはずの油揚げが消えているのだった。
どうしようもなく、言葉を失った私たちは茫然と狐を見ていた。
そのうちに、視界に白い靄のようなものが入ったので「お父さん、あんまり近づいてこないでよ」と首を右に向けたところ、そこにあったのは冷蔵庫で、父は私からずいぶん離れた左斜め後ろに立って、髭をそっているのだった。
私の耳から、煙が出はじめているらしかった。
煙 あにょこーにょ @shitakami_suzume
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