拓真くんのささくれ【KAC20244】

矢口こんた

第1話 わたしたちの拓真くん

 ゴクリ、誰かが唾を呑み込む音が聞こえた。


 今朝からこの教室は、異様な空気に包まれていた。それもそのはず、言わずと知れた完璧人間、早瀬拓真はやせたくまくんの左手中指にささくれか出現したのだ。


 この世のすべてを愛し、そして彼も愛され、全く隙のないあの完璧人間、早瀬拓真くんがささくれを身に纏う光景など、決して許されるものではない。


 涼やかな目に少し長めのまつ毛、ほんのり赤みがあり思わずプニりたくなるほっぺを有した完璧拓真かんたくくんが、多くの面前にささくれ姿を晒すなど、想像もしたくない。


 わたしのような普通の人間に、指の内側の世界へ繋がるささくれの扉が開いたのならば、甘んじて受け入れよう。いや、むしろ血の汗を流し、泥臭くも努力した証なのだと、誇りを持ち、周りに見せつけてやろうではないか。――いや、わたしのことはこの際どうでもいい。


 ――初めて拓真くんのささくれを見た時、わたしは自分の目を疑った。いや、まさか、そんなはずはない。なにかの見間違いだと思った。しかし、わたしの秘技、薄目でしっかり見る! を駆使しても、確かにそれは存在していたのだ。

 わたしはあらゆることを想定した。もしや、指にささくれの3Dアートを施し、皆を驚かせようと計画しているのではないか? などとも考えたのだが、わたしに考えつく様なことを拓真くんがするはずもなく、角度を変えて秘技を使っても、ささくれは威風堂々、己の存在を周囲に誇示し続けていたのだ。


 ――くっ! もう、認めるより他にないのか、ささくれの存在を。


 問題は次のフェーズに移行した。


 あのささくれが本物だとするならば、拓真くんに気付かれないよう、秘密裏に対処しなければならない。


 もうすぐ二時間目終了のチャイムが鳴るころだ。わたしは授業の中身などに、気を取られたりはしない。ちゃんとささくれのことだけを考えている。


 担任の友塚先生は、拓真くんにささくれのことを気づかれないよう、授業に興味が湧き立つような教え方をしていた。


 ――よし、いいぞ友ピー、その調子だ。お前の全力、ここで見届けさせてもらう。たとえ、この授業で貴様の身が朽ち果てようとも、友ピーの死を決して無駄にしないと、わたしは誓おう。


 おっと、友ピーが作ってくれたこの時間を無駄にしてはいけない。わたしは、クラスの皆に目で訴える。


 この教室のほとんどの生徒は、策を思いつかないのか、わたしと目を合わせず、友ピーを見ているフリをした。だが、それも仕方があるまい。こんな事態は誰も想定できないのだから。

 しかし、わたしがクラス中に発した拡散メガ粒子砲のような視線に、真っ向からぶち当て跳ね返す強者がいた。スポーツ万能少女、わたしの親友でもある七草梓弓さえぐさあずみだ。


 そのバチッと火花散る視線のぶつかり合いに気がついたのか、クラスの皆から期待の視線が向けられる。――皆の思いが痛いほど、胸に突き刺さる。その想い、確かに受け取った。クラスの心がひとつに重なったのだ。


 友ピーの上にある時計は、いつ二時間目終了のチャイムが鳴ってもおかしくない場所を指していた。

 チャイムがなり終われば、20分休み業間休み(中休み)で男子たちは運動場へと旅立つ。そうなれば、もうおしまいだ。拓真くんのささくれ姿を他のクラスの生徒にも晒すことになってしまう。


 ――もう時間がない。こんなこともあろうかと、訓練を重ね、まばたきモールス信号をマスターしていたわたしと梓弓は、目と目で通じ合う。うん、微かに色っぽい。よし、作戦は決まった、あとはその瞬間に全てをぶつけるのみ。


 自分に酔いしれて、まだ続きそうだった友ピーの授業に被せるように、運命のチャイムが鳴る。

 と、同時にすぐさまわたしは声を上げた。


きりーつ、れい、ちゃくせきーキーンコーン、カーンコーン


 モールスまばたきで、事前に梓弓あずみにも伝えていた、わたしの高速号令が功を奏し、チャイムが鳴り終わる前に着席するとこができた。

 その瞬間、梓弓が動く! ガタンと音を立て椅子が後方へ、しかし既にその時に梓弓の姿はそこに無かった。

 他のみんなも席を立つ。梓弓の椅子の音を掻き消すためだ。やはり、みんなのこころは繋がっていたのだ。その、想いの込もったその行動に打ち震えたわたしは涙した。


 しかし、そのとき、予期せぬ出来事が起こる。


 拓真くんが教科書を左手でパタンと閉じたのだ。そして、ついに――、


「あ、ささくれができてる」


 銀河が泣いた! 虹がくだけたキーンコーン、カーンコーン!! 終了のチャイムも鳴り終わった。


 ――あぁ、もう、ここまでか。


 みんなが思った瞬間、奇跡が舞い降りた。拓真くんは、わたしがいつもしているように、狂気の眼差しで弱った獲物いたぶるが如く、ささくれをペリペリと、ゆっくりもてあそび、その痛みが快感に変わる楽しみを味わったりはしなかった。


 指先を見つめる彼の目元は、いつも通り涼やかで、視線も自然なものだった。そして、軽やかに教室の後ろに移動し、棚にあるランドセルから取り出したのは、絆創膏。


 ――まさかっ! わたしは戦慄を覚え、息をすることも忘れてしまった。周りの同志たちも息を呑んで拓真くんの行動を目に焼き付けようと見守っている。


 絆創膏を手にしたその姿は、右手にタクトを持つ指揮者のよう。優雅で繊細な音楽を指揮するように、ふんわりと柔らかく、ぴょこんと跳ねたささくれさんに絆創膏をのせ、優しく包み込んであげるのでした。


 あぁ、ささくれさんが喜んでいる。


 背中にひかり差す拓真くんの姿に見惚れ「ふあぁ……」と、同志たちはため息を洩らし、パタパタとひとり、またひとりとその場にくずおれた。そういうわたしも、その尊きお姿に目が眩み、至福の世界に身を委ね、意識を飛ばしてしまうのだった。


 意識が遠のくなかで、わたしの目に映ったのは、後ろの机に頭をぶつけて床に伏し、目を回している梓弓あずみに「大丈夫?」と、首を傾げ、優しく声を掛ける拓真くんの姿だった。――いいなぁ。いつか、わたしもあんな風に……。


 あぁ、拓真くん、やっぱり完璧すぎる。


 教室の窓の外からは、穏やかな春の運動場ではしゃぐ男子たちの声が、いつまでも響いていた。

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拓真くんのささくれ【KAC20244】 矢口こんた @konta_ya

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