ささくれて裏返る。
陽澄すずめ
ささくれて裏返る。
「二丁目の佐藤さんのおじいさん、裏返ったらしいわよ」
夕飯後の洗い物をする妻がそう切り出してきた時、そのことは俺にとってまだ他人事だった。
「最初はほんの小さなささくれなんだって。だけどそれがどんどん全身に拡がっていって、最終的にどぅるん!って全部の皮膚がめくれて裏返るみたいよ」
「へぇ」
付けっ放しのテレビが同じ話題を特集していた。新型ウイルスが上陸したとか何とか。甲高い声のアナウンサーが緊迫した表情で解説している。
『この新型ウイルスは爪と皮膚の間から入り込み、あっという間に皮膚の下を侵していきます。指先が荒れやすい方は特に注意が必要で——』
「怖いわねぇ」
「どうせすぐに収まるだろ」
しかし俺の予想は外れた。
そこから数日も経たぬうちに、軍手やビニール手袋、ハンドクリームなど、指先を保護するための商品が店頭から姿を消し始めたのだ。
品薄となったものを手に入れるため、開店前のドラッグストアには連日行列ができた。中には「どうして入荷してねぇんだ!」と口汚く店員に詰め寄る者まで出てくる始末で、そうした状況は全国的に問題となった。
『指先を保護するため、接触を避けましょう』
『感染予防のため、不要不急の外出は控えましょう』
政府からは新型ウイルス対策のガイドラインが発表され、感染者の出た学校や企業は休業を強いられた。
感染者は隔離され、命を落とした者は家族が死に顔を見ることも許されぬまま火葬されているらしかった。
内閣支持率の最低記録を更新していた現政権は、それまでの失政が嘘だったかのようなスピード感で次々と対策を打ち出していく。
しかし世間ではデマが流れてなぜかトイレットペーパーまで品薄となるなど、人々の混乱はピークに達していた。
もはや社会の空気そのものがささくれ立っていると言っても過言ではなかった。
「感染したら、激しい痛みでのたうち回るって話よ。最後は全身から血を吹き出して死ぬんだって」
「そりゃあ裏返るっていうくらいだからな」
「私、肌が弱いから怖いわ。今日もビニール手袋を買えなかったの。お米もろくに研げない」
スーパーにパート勤務している妻はずいぶん参っていた。
「お客さん、みんなカリカリしてるのよ。怒鳴る人も多い。ウイルスよりも人間が怖いわ」
「そうだな。みんな精神的に荒れてるんだ」
かくいう俺も、このところ無性に苛立っていた。部下が子供の学級閉鎖に伴って休みを取っており、その分の業務の皺寄せが残りのメンバーに回ってきているのだ。上司のパワハラも輪をかけてひどくなった。
だが状況が状況だけに文句も言えず、行き場のないストレスが溜まっていく。指先に小さなささくれを見つけては、ヒヤヒヤする毎日だ。
世の中では、政府の陰謀論を唱える一派が出現し始めた。
「これは隣国が人工的に作り出した殺人兵器なのです!」
「政府はホラ吹きだ! 思考統制反対!」
「手袋は不要です! 素手で私たちと握手しましょう!」
声高に街頭演説する彼らを横目にしつつ、正直なところ俺も陰謀論をうっすら疑っていた。
何せ俺は、実際に『裏返った』人を見たこともないのだ。
無能な政府が国民をコントロールするために大掛かりな嘘を吐いていると考えても、矛盾はないように思えた。
しかし、そんな俺の頭を丸ごと覆す出来事が起きた。
妻に感染の疑いが掛かったのだ。
「ねぇ、どうしよう。ささくれが治らないの。どんどん悪化して腫れてきてる。私、このまま死んじゃうの?」
さめざめと泣く妻を宥めながらも、俺とて不安で発狂しそうだった。
新型ウイルスの存在を疑っても、嘘だという確証はどこにもない。
もし、本物だったら。
もし、最愛の妻が裏返ってしまったら。
途端、目の前が真っ暗になった。
俺は神に祈った。誰でもいい、妻を助けてくれ、と。
政府が新型ウイルスの特効薬と予防ワクチンの完成を発表したのは、ちょうどそんな折だった。
妻の命は特効薬のおかげで助かった。あれだけ腫れていた指先も、すっかり元通りだ。
俺たち夫婦は無料配布されたクーポンを使って予防接種を受けた。これで一安心だ。
政府による大々的な予防接種キャンペーンが奏功し、数ヶ月後には感染者が激減したと報道された。
人々のパニックもすっかり収まり、街ゆく誰もが穏やかな表情をしている。俺のパワハラ上司ですら、人が変わったように優しくなった。ワクチンのおかげだ。
あれだけ騒いでいた陰謀論者たちは、いつの間にか残らずどこかへ消えたらしい。
『明るい未来を信じましょう。心の平静を保つことは、健やかな生活に繋がります。国民全員が幸福な社会を作るのです』
街じゅうの行政無線が、絶えず総理大臣の言葉を流している。
今や内閣支持率は98.5パーセント。一度は陰謀の疑いを抱いた俺も、妻の命を救ってくれた政府を神そのもののように感じていた。
心の平静は、何よりも大切なことだと思う。俺も妻も、幸福な人生を送れるのだと信じられる。安寧をもたらしてくれた政府は素晴らしい。
もう一度言おう。政府は素晴らしい。神そのものだ。
ふと、指先に小さなささくれを見つけた。
だけど明るい未来のことを考えているうちにどうでも良くなり、ささくれができたことも忘れてしまった。
—了—
ささくれて裏返る。 陽澄すずめ @cool_apple_moon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます