ねえ、あんた

壱単位

ねえ、あんた


 あたらしい菓子屋ができたって聴いてさ。


 あんたに言ったら、なんだか、しかめ面したよね。

 なんだ、俺に購買いにいけと云うのか、って。


 あたしも丁度、ほら、新月だったもんだから、いろいろと体調がさ。役目しごとでも何時いつもの調子が出てなくて、機嫌も悪くて、つい、かちんと来てさ。言い返しちまったんだよ。

 誰もそんなこと云ってねえだろうが、あたしは手前で喰う菓子の話してんだ、手前で稼いだ銭子ぜんこでな、あんたは寝てろ、って。


 あんた、あのとき、怪我してたもんね。

 その怪我だって、仲間を庇って負ったやつだって、あたしは識ってた。ようく、識ってた。統領かしらにあたしまで褒められてさ、亭主を大事にしろって、云われてさ。

 どれだけ、鼻が高かったか。

 だのにねえ、あたしは本当に莫迦だよ。


 次の日までくち、かなかったねえ。

 あたしは昼まえからお役目しごとだったんだ。丁度、商売してる家の娘って体裁かたちで警邏係に向かうことになってたからさ、町娘の格好をしてさ、統領かしらの処で仲間たちと話し合いをしてから、一寸ちょっとだけ、あの菓子屋に寄ろうと思ったんだよ。


 ひょこ、ひょこ、って、あんた、歩いてた。

 夕餉の買い物の人どおりの多い町筋をさ、菓子屋に向かう通りをさ、目深に西洋の帽子をかむって、足を引き摺りながらさ。

 でもね、ふふ、あの時あんた、耳、隠し忘れてたんだよ。帽子の横から、ぴんと尖った狼の耳がさ、あんたの、あの、ほんとうに綺麗な、いちばんつよい狼の象徴の、まっしろの、耳がさ。

 誰も振り返らなかったのは、丁度、帽子の飾りに見えたんだろうねえ。ふふ。


 あたしは知らぬふりをして、菓子屋には寄らずに、役目しごとを終えて、手やら足やらに血をかむったから、それを丁寧に流してからさ、長屋に帰ったよ。

 あんたは布団に頭から潜って、向こうをむいて、あたしがただいまって云っても、なんにも返事せずに、かえって背を丸めてさ。また長い尻尾が、ふわりと布団からはみ出てるのに気がつきもしないでさ。


 布団の横に、箱、おいてあったね。

 町のひとが手に持ってるのを幾度も羨ましく眺めてたから、中身なんて、すぐにわかった。でも、知らない振りで、なんだいこれ、って聴いたらさ。

 知らぬ、何時の間にか、そこにあったのだ、ってさ。

 可笑しくってさ。

 あたし、可笑しくってさ。


 そうかい、じゃ、開けてみるよ、って声をかけて。中身は、あの店でいちばん上等の、くりいむが小さく盛り付けられた、なんとも可愛らしい菓子でさ。食べてもいいのかい、って訊いたら、もじりとしてさ。なんだい、手前も喰いたいんじゃねえかって、それも可笑しくてさ。

 菓子を手に持ったまま、あんたの布団に馬乗りになってさ。ほうら、って、差し出してさ、要らぬ要らぬって云う、あんたの口にそれを押し当てて、齧るのを眺めて、そうして、口の端についたくりいむを、わたしは舌で拭ってさ。


 ふたりで、空になった箱のよこで、空になった身体を横たえてさ。

 もう宵だったけれど、晩飯のことなんて、考えたくもなくてさ。


 ね、あたしになにかってきて呉れたの、はじめてだね、って、云ったらさ。あたしの裸の背、ぎゅっと、抱き寄せてさ。あんた、返事、してくれなかったよね。

 その箱は、愛らしい木箱でさ。

 あんたが眠ってから、あたしはそれを丁寧に拭って、だいじに、仕舞ったんだ。

 あんたのちょっとが、ここに、入ってる、って、思えてさ。


 蓋を、開けてみる。

 あれから半年たったけれど、まだすこうし、菓子と、あんたの香りが残ってるような気がする。

 目を閉じて、すうと、吸い込んで。

 丁寧にゆっくりと、蓋を閉めた。

 あたしの匂いが、あんたの匂いと、いっしょになっていればいいなって思いながら。


 月の大きい、夜。

 しんとした空気のなかで、物音ひとつしない部屋のなかで、あたしは、白と紅の正装に身を包んで、心の臓を刺し通すような月あかりを浴びて、膝に箱を置いている。

 顔を伏せ、目を閉じている。

 半刻ほども、そうしていたろうか。

 あたしは箱を、部屋のまんなかに置いて、立ち上がった。


 あんた。

 いってきます。


 必ず、討ち果たして見せる。

 一族の……あんたの、かたき

 悪鬼、花神巫はなかんなぎども。

 すべてのあやかしたちの、怨敵。


 胸に浮かんだあんたの微笑は、目に溜まった温い液体で流し去った。

 そうして、代わりに、据えた。

 憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い、あの女の、あたしたちを見下げて高笑いをする、蒼い髪の、あの、りるるのつらを。


 ねえ、あんた。


 あたしは小さく声を出したけれど、もうそれは、狼のわずかな唸り声としか聞こえていないのだろうと思う。




 <沈丁花は碧血を所望する 第二部 プロローグ: 了>

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