青い空と、青い海。あなたはどちらの「青」を泳ぐペンギンですか?

 ペンギンは、水中を飛ぶ。この表現、素晴らしいと思いました。
 同じ「青」という表現をするのであれば、確かに海も「青」であり、つまり空=青=海という式が成り立つわけです。
 性格診断は数あれど、その中でも動物診断は割とポップな部類になるかと思います。ペンギン型の僕。ぽつんと、教室の隅で座っている様はペンギンが直立不動のままでいるように感じられました。無色透明……というよりは「無」というような僕の立ち位置。友達がいようとも、人によっては「他者」と一括りにしてしまうことも決して珍しくはなく、友達とつるむということは、必然的に共に行動する機会は増えてしまうもので。その時間を楽しいと感じるか、煩わしい・生き辛いと感じるかもまたその人次第で、それが僕にとっては後者だったというだけの話。世間はそういった人々をペンギン型と称して、切り捨てる。氷の塊をぶった切って、切り離すように。それは心の冷たさとも形容できるものの、同時にペンギン型の人間を許容できないと事実を前提にすれば、一概にその行動を否定できたものでもないのかもしれません。
 ネットの海の中へ。ペンギンコードというSNSの世界に果てはなく。それでいて、どこかにはつながっている。無数に泳ぐペンギンの群れの中には、見知った顔もいて。……という使い方も、僕にとっては煩わしさでしかないのかもしれません。
 淡々と、一文をつぶやいてペンギンコードという海に流す。しかし、その淡々さ故僕にとっての海水は、もしかすると海水ではなく、淡水で満たされているのかもしれません。だからこそ、周りのペンギンからも見えないのですから。淡水で生きれるように環境を作り替えたペンギンこそ僕の真骨頂であり、本物の僕なのかもしれませんね。
 そんなユートピアも束の間。ペンギン型にとって安心できない事態が、影のように忍び寄ってきました……。
 その現実で聞いた事実から目をそらすように、淡水の海に飛び込んでも息苦しさを感じるのは、自分の疑念のせい……しかし、この疑念は晴らさなければ、淡水の水はどんどんと濁り、その淡い色合いが損なわれてしまう危険性が出てきました。ならば、どうするか。意を決して、外の世界に目を向けるしかないのです。その先に何が待ち受けるかはわからないけれど、その一歩を踏み出した勇気に惜しみない拍手を。
 改めて、今度は「海水」にその身を浸す。淡水と違って、塩辛いその水に混じるのは、とても痛ましい投稿の数々。まるで傷口に塩を塗るかの如く、目も当てられない惨状がその海にはあって。自分と同じペンギン型の人間は他者に対して常に排他的であるべきという前提は脆くも崩れ去り。……否、そこに漂うペンギン型を捕食する者たちの餌食となり。
 自身の快適な住環境は、ペンギンコードが日の目を浴びるにしたがって崩壊していく。まるで日の光に焼かれるように。意図的に環境設定を破壊するとは、文字通り「環境破壊」に他ならず。そんなものは外でやってくれと嘆きたくなる気持ちは僕も同じで。
 そんな中、リリースされたペンギンコードVR。そこに広がる海はまさに本物。様々な動物たちに紛れ、異彩を放つひよこ。孤独・孤高を好むペンギンたちにとっては、降りたったこの場所は一刻も早く離れたいスタート地点で。……もっとも号砲なんて鳴らないけれど。そして、ひよこも一歩を踏み出す。ペンギンとは逆方向へ。
 物理的に離れだしたペンギンたちによって起きる株価の大暴落。それを俯瞰してみている私。私の夢はペンギンコードVRによって達せられたのかどうか。それは、どこへ行くとも知れぬペンギンたちに聞くしかないのものの。そんなペンギンたちは、聞く耳を持たぬどころか、足を止めてくれることさえしてくれないというのは何とも皮肉な話です。
 安住の地へたどり着いたぼく。その世界は広い。ただし、地球のように丸く閉じそこに他者の入り込む余地など存在しない。それは心が狭いのではなく、自衛からくる本能のように思われてなりません。それでもそんなペンギンを責めるのではなく、その隣にそっと寄り添う丸(世界)があっても良いのではないでしょうか。