せせり

オカワダアキナ

せせり

 大きな鶏のこと。あんまり覚えていない。いやけっこう覚えているかもしれない。従兄が飼っていた鶏で、あのころ流行っていた。闘鶏用につくられた大きな品種をひよこから育て、テントに集まり戦わせていた。砂を掘った円形の闘技場。鶏たち人たちが存分に暴れられるようとても広い。といってもそこらの誰かがそれらしくこしらえたものだったろう。ベニヤの囲いはふにゃふにゃだったしロープを張る杭も腐りかけていた。

 いつも土曜の夕方だったと思う。男たちはめいめい自慢の鶏を連れ、テントに押しあいへしあいした。従兄もその群れにまじっていた。子どもで闘鶏をやるのはめずらしかったはずだ。祖父によれば鶏の世話くらいたしなみとのことだったが、ようするにひまな男たちのひまつぶしだった。ときどきおれもついていったが、テントの中はたばこと汗でむっとしていて、明かりも暗くてちょっと怖い場所だった。においがきついからみんなマスクをしていた。湿った木のにおい、土のにおい。そして鶏のふんやらえさやらの混ざったにおいはやすやすとマスクを突き抜けてきた。長いことテントにいると服や髪も同じにおいになった。風呂に入っても落ちない気がした。

 従兄の鶏はクロといい、名前の通り黒い羽の美しい鶏だった。真っ赤な鶏冠が大きく、いつもぴんと立っている。まるで炎が燃えている。じっさい鶏冠には体温を調節する役割があり、あそこに毛細血管を集中させて熱を放出しているのだと従兄が教えてくれた。だから赤くて立っている。じゃあ、さわったら熱いんだろうか。怖くてさわったことはなかった。美しくて強いクロはプライドが高く、主人以外にあたまをなでさせはしなかった。

 なにしろとても熱心に育てていた。従兄は毎朝五時に起きてクロの世話をした。こまかく切った野菜を口移しで与え、散歩したりじゃれたり抱きしめたり、毎日砂浴びにもつきあった。しばしば一緒に寝てもいた。豊かに膨らんだ羽は黒々としてつやがあり、日差しの中では緑に光った。

 クロは負けなしだった。従兄は大人たちに一目置かれており、ジュースとかお菓子とかおごってもらっていた。手ぶらでついていったおれももらえた。すごいにいちゃんだな、おまえもがんばれよとあたまをなでられた。兄じゃなくて従兄です、おれは一人っ子ですと言いたかったが声が出なかった。

 おれもいつか鶏を育ててみたいなという気持ちと、とてもできないという気持ちは半々だった。従兄はいつも生のままの野菜、あるいは茹でただけの野菜だ、白菜とか小松菜とかほうれん草とかをしっかり噛んで柔らかくしてから口を開け、愛鳥のくちばしにつつかせた。腹を空かしたクロはせわしなく首を上下させ、夢中でついばんだ。痛くないのかな。舌まで食べられたりしないのかな。いや怖いよりもっと手前の感情として、おれにはちょっと気持ち悪かった。緑の野菜も嫌いだし自分にできるとは思えなかった。


 闘鶏は長いこと禁止されていたがそれ専用の品種改良がなされ、だんだんに復活していったとのことだった。禁止も解禁もおれが生まれる前のことだからよくわからない。賭博がよくないのと、動物と動物を戦わせるのは残酷で野蛮だとされていたためだが、こんなに大きな鶏ならまあいいかってことになった。のか? 賭博についてはみんなびんぼうだしいまどき現金はほとんど持っていない、どうせたいしたことにならないと黙認されていた? じっさいしょぼい金額だったらしい。

 大きな大きな品種で、ヒトより大きく、クロの部屋は従兄の部屋より広かった。クロがのしのし歩く姿はまるで恐竜だった。太い脚が竜の鱗みたいになっていて、脚の鱗が多ければ多いほど高く売れるらしい。クロの鱗は逆立って分厚く、硬く、いかにも歴戦の猛者だった。クロが長い首をせわしなく動かすと風が起き、離れていてもにおいが届いた。大量のふんを肥料にして売った。

 祖父や従兄が言うには娯楽のために生き物にけんかさせるのが残酷というのはその生き物が小さいとか弱いとかの場合のみの配慮であったらしい。そうなの? そんなわけないだろうけどさと従兄はぶつぶつ言った。闘牛だってずっと残酷だって言われてたらしいし……。競馬はどうだろう、イルカショーはどうだろう。まあイルカは戦わせるわけではなかったけどさと祖父は言い、イルカがショーをするというのがおれにはぴんとこなかった。すいぞっかんというのがむかしこのへんにあったのだと教えてくれた。外国にはいまもあるし日本にもまだひとつだけある。でもおもに外国人の旅行者向け、外貨を落としてくれる人向けだから、誰かの紹介がないと入れないだろうと言った。円だといくらになるかな。まあ高くて無理だな。すいぞっかんのことは従兄もよく知らなかったようでふうんとまばたいた。

 でっかい鶏を生み出せるようになったからってどうして闘鶏がありになったのか、誰にもよくわからないみたいだった。なんか理屈にあわないなとおれは思ったし、従兄もそう言っていたが、筋の通ったものごとなんてそうそうないよなとうなずきあった。おおかた、なんかの利権とかそういうのだろう。でかい鶏を作って、それをおれたちみたいなのに買わせ、飼育させ、それから戦わせるっていう一連の遊びをやらせると、どこかの誰かが儲かるんだろう。と祖父は言った。まあそうか。おれたちはそういうめちゃくちゃに慣れきっていた。日々の積み重ね、学習によって、言葉とか決まりとかニュースとかそういうのは真に受けちゃいけないとわかっていた。

 そうしてまったく理屈のとおらない遊びであることと関わりなく、鶏を育てるのも見せあってけんかさせて遊ぶのも、楽しくてたまらないのだった。男たちは出稼ぎに出ている母たち娘たちの部屋を鶏にあてがった。母たち娘たちの仕送りでめしを食い、ちょっと仕事し、残りの時間で鶏と遊んだ。男で出稼ぎの仕事に就けるのは生まれつき容姿が整っているか、頭脳やスポーツの技能が飛び抜けているかで、そんなやつはめったにいない。それなら鶏くらいしかやることがない? 戦いの前と後、従兄は背伸びしてクロに抱きついた。太い首に顔をうずめてねぎらった。クロは興奮したまま従兄を突つくが、やがておとなしくなり、うれしそうに抱かれていた。


 クロの最後の戦いを覚えている。結果的に最後になったがそうなるとは思わなかった。テントに向かうときはいつもどおりだった。

 祖父と従兄の家はマンションの六階で、大きなクロはエレベーターに乗れない。クロの前に従兄、後ろにおれがついて、ぐるぐる階段を下りた。ふだんの散歩ならおとなしく従兄についてくるが戦いの前は殺気立っていて言うことをきかない。いや言うことをきかないくらい興奮状態にさせるのだと従兄は言っていた。部屋に大きな鏡を置いてカーテンを閉め切りにする。ふすまもぴったり閉め、つっかえ棒をして外に出られないようにする。鏡に映った自分をクロは敵だと思い込み、羽をばたつかせ、太い足で暴れる。鏡は割れないんだろうか。

 なんとか階段を下ろし、テントまでの道のりはとても長かった。なだめすかして歩いた。テントの中で使うマスクをひらひら旗みたいに振ってクロをあやした。二月にしてはやけにあたたかい日で、枯れ草ばかりの空き地に何か花が咲いていた。すきとおった晴れ空には雲一つなく、大きなヘリがうるさく横切った。たぶん米軍基地のだ。すれちがったおじいさんの飼い犬がクロを見て怖がった。おじいさんは毛玉だらけの帽子をかぶっていた。大きなテントに鶏たちの鳴き声が響いていて、外からでもうるさかった。鳴き声というより叫びだと思った。いきりたった雄鶏たちが長い叫びを上げ、羽をばたつかせている。

 どの鶏とどの鶏が戦うかはくじびきだった。最初の相手は知り合いのおじさんで、クロはあっというまにぶちのめした。しっかり整えられたクロの蹴爪でキックされ、相手の鶏は戦意を喪失したのか砂にぐにゃりと突っ伏した。大きな鶏たちだからどさり、どすん、すごい音だった。クロは伏せた頭を踏みつけ、首をまたいでのしかかり、容赦なくくちばしで攻撃した。男たちはわあわあ盛り上がった。力の差が歴然としていると安心して騒げるのだ。どっちが勝つかのスリルを見に来ているのではない。死ぬまで戦わせることはなく勝負がついたらおしまいの闘鶏だ。負けなしのクロ、それも子どもに育てられているやんちゃ坊主が、大人たち相手に大暴れしているというのが男たちにはかえって痛快らしかった。

 大怪我になる前に二羽は引き剥がされた。それでも羽根はあちこち飛び散っていたし、相手の鶏はそれなりに出血していた。知り合いの鶏を怪我させるのはちょっと申し訳ない気がしたが闘鶏だから仕方ない。おじさんはふきんを絞って水を飲ませてやり、何か軟膏を塗ってやった。太い指だった。鶏はあわれっぽく鳴きながらおじさんに甘えた。おじさんの爪の間が黒く汚れていて、おじさんの手だなと思った。

 次の相手は茶色の鶏で、飼い主は二人組だった。二人ともちょっと太っていて一人は大人にしてはちびだった。見たことない鶏だし見たことない人たちだった。闘鶏場ではだいたいマスクをしているから誰の顔もよく知らないが、だいたいわかる。このへんの人じゃないのかも。ぶらっとやってきたのかも。もしかして小さい方はおばさんかもなと思った。出稼ぎに行かない人も行けない人もそれなりにいることはいる。闘鶏場でおばさんを見かけるのはめずらしい気がした。

 大きい方が、ここの闘鶏場では死ぬまで戦わせないのか、蹴爪にナイフをつけたり毒を塗ったりはしないのかとたずねていた。戦って死んだ方は鍋にしないのか。さばく道具なら持ってきたけど……。そんなぶっそうなことはやらないよ、なんだと思ってるんだと男たちは呆れたが、めずらしいたばこを分けてもらって喜んでいた。

 茶色の鶏はよく太っていた。脚もかなり太く、強そうに見えた。鶏冠が大きく欠けている。二羽の大きさは同じくらいで、クロの方がちょっと首が長いだろうか。さっき戦ったばかりだから疲れていないだろうか。死んだら鍋にするとか言っていたけど大丈夫か。おれは心配になったが、従兄は落ち着いてクロをなでていた。好物の大根をあげたらがつがつ食べていた。バケツの水で羽根をきれいにしてやり、従兄は脚の鱗もひとつひとつ指でなでた。黒ずんでめくれかかった鱗。わざと引っ掻いてやったらクロは苛立ち、従兄をどつきまわそうとしたが、いい感じに興奮しているようだった。


 行け! やれ! 今日も勝てよ! 男たちはわあわあ騒いだ。ロープの周りで声をあげているだけなのに土埃が舞う。このあいだクロの写真を母さんに送ったけど返事がなかった。忙しいのかも。いつも忙しい。しばらく経ってからすごいねとか大きいねとか返事が来る。今日は動画を送ってみようか。帰りにホテルの横を通れば旅行者用のWi-Fiが使えるし……。

 戦いはほとんど空中戦だった。二羽はばたばた跳ねまわり、蹴飛ばしあい、高くジャンプしてくちばしで突きあった。クロの一方的な試合にならないのはめずらしい。激しい戦いだった。従兄は声を張り上げた。まわれ! やれ! もっとやれ! ヒトの指示を鶏が理解するとも思えないが、飼い主たちはみんな叫ぶ。おれも真似をして叫ぶ。やっちまえ! ぶっころせ! 死ぬまで戦うことはぜったいにないのにそう叫ぶ。いつか誰かがそうはしゃいでいた真似をする。闘鶏場らしいふるまいをやっている? 大きな鶏たちが飛び回るたび、おれたちに風がぶつかった。ロープも杭もぎいぎい揺れた。

 茶色の鶏がクロの頭を突いた。羽がむしられ、砂に血が飛んだ。おれは思わずああっと声が出た。クロ! 怖がるな! 従兄が励ました。たぶんクロはまったく怖がっていなかった。もしかしたら自分が出血したことにも気づいていない。砂を蹴って飛び上がり、力強いキックで茶色に襲いかかった。素早く首を動かし、相手の弱いところにぶちこんでやろうと闘争心をむきだしにしている。それは従兄にもわかっていただろう。だから怖がるなというのは従兄が自分を鼓舞した言葉だった。

 飼い主たちは自分も戦っているかのように円のそばを走り回る。こぶしを振り上げる。自分の鶏を見守り、励まし、一つになろうとしている。決してなれはしない。怪我をするのは鶏だけだし、鶏が何を考えているのか、考えていないのか、ヒトの理屈に押しこむことはできない、わからない。すごい土埃だ。従兄はマスクをしているのにごほっと咳をした。黒色の格好いいマスク。闘鶏のときはいつもこれを使う。従兄はクロを大事にしていて、大事なら戦わせなければいい? まったくそのとおりだったろう。でもここにいるひとびとはそれをやりにきていて、従兄はクロになにかいろんなものをぶっこんでいた。おれはそれがうらやましかった? そのときはそれが言葉にならなくて、なんだかむずむずしていただけだった。おれも叫んでいるうちに息が上がり、マスクがべこんべこん上下した。母親が送ってくれた五十枚入りのマスクの箱。

 羽根と羽根が、胴と胴がぶつかり、太い首はたえず振り回されて相手を突こうとどちらも必死で、クロの赤い鶏冠はもっと赤く見えた。血が燃えている。燃やされている。クロはばたばた羽根を鳴らし高くジャンプしたかと思うと、大きな体をどさりと投げ出した。疲れて倒れてしまった? ああっ……。悲鳴のような声はおれのものではなく、従兄のものでもなく、観客の男たちだった。誰かがもらした。茶色はクロを振り返り、ボクシングの選手みたいに首を前後させながらじりじり近寄った。首も胴だ。クロに一突きしてやろうと茶色が地面を蹴ったとき、やにわにクロは首を伸ばし、くちばしを茶色に突き立てた。首の付け根あたりだ。不意を突かれた茶色は飛び退き、叫びを上げた。ばさばさ羽根が散った。血もだ。ぼとっとこぼれ落ちた。そうして茶色はうんこをもらし、戦いの最中でうんこすることもあるんだろうか? おれは初めて見たけどそういうこともあるのかもしれない。おれは鶏を世話しているわけじゃないからわからない。そのままクロは大きな体で体当たりし、首を何度も突いた。ぶっころす。ぶっころしてやる。クロは言葉をもたないが烈しい熱を放っていた。熱はテントの中を満たし、おれたちに汗をかかせた。

 はい、やめやめ。勝負あり。

 あっさり終わりが告げられ観客はどよめいた。おおっ。おお。安堵のどよめきだった。張り詰めていた糸がゆるみ、やんややんやとなごんでゆく。勝った、やった、ああやっぱり強いやと歓喜の声で、ともかく嵐は急速にしぼんだ。もうやめだクロ、従兄は言い、クロに抱きついた。がんばったな。よくやったな。今日も勝ったな。従兄はクロをほめた。茶色の飼い主たちも同じような感じで、せっせと血をぬぐってやっていた。あたりがうるさいからか二人組はちょっとマスクをずらして何か話していた。小さい方口の周りに濃いひげがあるのを見つけ、おれはちょっと驚いた。

 従兄はりんごを噛んで柔らかくし、口を開けた。クロは大きな鶏だからりんごくらい自分で食えるだろう。野菜だってなんだって、噛んでやらなくても平気だろう。でも従兄はいつも口移しで食わせていて、つまりクロとキスがしたいのか。誰かがさっきの空き地から黄色い花を摘んできてクロにやった。菜の花だったらしい。クロは従兄の口からりんごを食べ、菜の花も食べた。菜の花なんかぐちゃぐちゃ噛んで、従兄は苦くないんだろうか。クロは勢いよく首を上下させ、戦いの後だったからいつもより激しかった。従兄は尻もちをつき、観客たちはどっと笑ったのだが、すべった拍子にクロのくちばしはねらいをはずし、従兄の目玉を突いてしまって、まあ、そのあとは大騒ぎだった。


 それでクロが処分されてしまったとか従兄が飼うのをやめてしまったとかではないのだが、なにか利権的なものの気まぐれがあったのだろう、まもなく闘鶏行為は禁止となった。従兄が目玉をやられたこととは関係なくふたたびだめなものになった。大きな鶏たちはそのまま飼ってもいいし、食肉等にしてもいい、あるいはいくらか払えば鶏を小さくしてやる、体を小さくする魔法みたいな処置があるのだと、そういうことになった。どこからかそういう技術を輸入したらしいがわからない。

 小さくするのはかなり高価でそんな金は祖父になかった。従兄の母は出稼ぎにいったまま音信不通だし、父親は最初からいなかった。従兄の母、つまり祖父の娘でおれの母親の姉だが、どこにいったかぜんぜん知らないしわからないと母さんは言う。ほんとは知ってるんじゃないかとも思ったけどおれにはなにも口出しできない。

 そしておれは進学のために母親のところに行くことになり、ビザもおりた。すいぞっかんのある国。おまえは賢いからそのほうがいいよと祖父は言った。その後クロがどうなったのかよく知らないが、たぶん長生きしたと思う。従兄と毎日キスしていたと思う。

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せせり オカワダアキナ @Okwdznr

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