父親の足元から、ゴジラの影が伸びている。その後ろを、影を踏むように物語の主人公、見似等(ミニラ)が歩いている—―なぜとはなしにそんな姿が目に浮かぶ。
この物語では、最初からその「父親なるもの」は死んでいるというのに。
死んでいるからこそ、その影は大きく、不定形に延び、広がっているともいえる。
影のなかにいる限り、その影がどんな形をしているのか、見極めることができない。
また、影の外にいる人々の姿をとらえることもできない。
作中、主人公は父親の死体を掘り返し、そのおおきなかたまりを少しずつ捨てようとしている。
その主人公の回想のなかの「父親」は、まぎれもなく私の世代の(私は1970年代生まれである)「父親」だ。主人公の思い出の中、そこに憎しみはなく、フラットな、どちらかというと微かな愛着とともに「父親」は語られる。
構われた記憶もほとんどないほど、「不在」だったというのに。
私の両親は存命であるが、すでに死別し、あるいは私がそうであるが、独立して生計を営んでいる私自身—―父親の影から抜け出しきれているか?
そのことを問いかけてくる作品である。
そして、「この営為には終わりなどなく、常に捨て続ける」こと。
それだけが家父長制の影から抜け出す唯一の方法であると、覚悟を問いかける作品であるとも思う。