『ライチ』(KAC20241)
石束
花が瀬村異世界だより2024 その1 (KAC20241)
彼には三分以内にやらなければならないことがあった。
村から少し離れた、二つの峠と三つの谷を駆け抜けた先、丘の上にたつ、その小さな木。その木から少年の背丈で届く範囲の、ある限りの『果実』をもぎ取る。
そのための時間が『三分間』。
――時間が、ない。急がないと。
『水汲み』は夜明け前に済ませる彼の仕事で、その後に森を散歩するのが最近の習慣。その予定を急遽変更して、村をでたのは山並みの影が淡い紫から青に変わるころだった。
だから、と、競馬のジョッキーも顔負けの体内時計を有する『彼』は帰り道の道程を、自分の中で測りなおした。
◇◆◇
山登りの中で「三分」というわずかな時間が事態を左右するかといえば否だろう。
しかし、『彼』は今回に限っては、このクロスカントリーにも似た長距離行に関しては、明確な時間的制限を設けていた。
森を抜ける。山のふもとにつく。山を登る。目印を確認して、細い道に入る。岩の角を曲がる。
小さな岩場を避ければ、遠回りになるから、あえて岸壁を登攀して越える。
沢に降り、流れの上に顔を出す岩を飛び、川を越えた。道の向こうにはまた目印があり、その先には獣道より少し大きなだけの山道が続いている。土が崩れ落ちて岩がむき出しになっている場所は、上に張り出した木の根を掴んでなんとか通過できた。
大人たちが相応の負担を承知で維持してきたからこそ、このささやかな『ルート』は辛うじて維持されている。それは、その先にあるものに、ある意味村の存続にかかわるほどの、価値があるが故だった。
いつしかこの道を通うことで、心身をきたえるという目的も生まれ、最速記録を競うことすらなされるようになったが、本来はある『果実』を村へ持ち帰るための道だった。
「ちょっと、遅れたかな。……でも、これでいいはず」
どの道を辿り、どの崖を下り、どの谷を渡り、どの岩を登るのか。
そこに一分一秒を争う余地が生まれる。
踏む大地、指を懸けるくぼみ。小さな、本当に小さな判断を繰り返す。
そうやって、彼は道程における最適解を積み上げていく。
かつて大人たちに連れて行ってもらった道を、大小さまざまな困難に出会う毎に、一時間、一分、一秒、節約できる選択肢を選び、最短、最適、最速を積み上げる。
故に『三分』。折り返し地点で、それが彼に許された限界。
秒単位で想定を組み替えながら、思わず彼はひとりごちた。
「やべえ。夕飯に間に合わない。かあちゃんに怒られる。」
◇◆◇
ある晩、少年が行方不明になった。日が沈み月が高く昇っても見つからない。
当然、大騒ぎになった。
村人たちが総出で探し回るが手がかりもない。
これはまずいぞと、途方に暮れた時。
自警団の一人が一か所だけ見に行っていない場所があると気づいた。
村の奥、森との境。小川のほとりの瀟洒な白い二階家がある。
山と田んぼばかりの村にあってはあまりに異質にみえるそこは、実は村人が構えて近づくまいと申し合わせていた場所だった。
かつて、その家の住人の移住当初には
「格闘家という触れ込みの怪しい【芸能人】が建てた『別荘』」
などと地元住人は陰口の対象としていたし、白い家の住人にも実のところ事情があって、つとめて交わりを避けていたため、両者が交流を持つことはなかった。
そして、それは様々な意味で状況が変化した今も変わらない。
助け合いの過程で『別荘』の住人が抱える問題が明らかになったが、理解をすればしたで、うかつに近寄れないことがわかった。
村人たちはもどかしい思いを抱えながらも、モンスターの警戒で周囲を見回る等特に用のある時以外は、誰も近づかないようにしており――そのことは、よくよく言い聞かせて、少年も知っているはずなのだ。
とはいえ、他に心当たりもない以上、ここに及んではいたしかたない。
少年の「母親」と、家の持ち主が、確認に向かうことなり――そこで『病室』のベットの白いシーツに頭を預けて、すっかり寝入っている少年をみつけた。
「どうか健太君を、叱らないであげてください」
そういったのは、まるで月の光を集めてできたような、美しい少女だった。
ベットの上に上半身を起こして座っている。
「この子は、私のために木の実を採りに行ってくれたんです」
長く豊かな髪。対照的にあまりに薄い肩。色の抜けたような、青白い頬。何かの拍子にふいに消え去ってしまいそうな、儚さと危うさを感じさせる少女。彼女は別荘の持ち主の妹であり、同時に、この部屋の主だった。
彼女は生まれつき体が弱かった。そのため『転移』の前も、その後も、ずっと人とつながりを断ってほぼ一日の全てを病室で過ごす。とりわけ、転移後はこの世界特有の病原菌等の空気感染を警戒して窓を開ける事すら、まれだった。
それが今夜に限って窓を大きく開け放ち、澄んだ月光を部屋の中へ招きながら、夜風に吹かれて柔らかく微笑んでいる。
――こんな妹をみるのはどのくらいぶりだろうか。
我慢強い子だったが、それでも環境の変化や変質した食生活、なにより現代医療のサポートから切り離されたストレスは、未成年の病人にはあまりに大きかった。
兄は、自らを「よそ者」と自覚すればこそ、精一杯村のために尽くし、必死に働いてコミュニティの一員となった。もはや彼一人では妹を守れないと自覚したからだ。
そして事情を知った村人たちも助けを惜しまなかった。だから、知恵を出し合い、乏しい物資を分けてもらい、多くの手を借りることができた。
しかし、それでもなお、限界はあった。彼女が必要としている環境は最低でも元の世界のレベル。これははっきり言って維持する事すら困難だ。むしろ安静と隔離以外は何もできないに等しい。
――それでも、何もしないよりは。
そんな追い詰められた心境のまま、がむしゃらに体を動かしながら、兄の胸の内には無力感だけが募った。慣れない環境下で、少しずつだが確実に衰弱していく妹を、兄はなすすべもなく、ただ見ているほかなかった。
だが、そんな妹が。今夜は寝台の上に体を起こして、微笑んでいる。
突然体調がよくなって申し訳なさそうな、困っているような……それでいて、まぎれもない、安らいだ明るい顔。
そんな彼女は表情をあらため牀上のままではあったが姿勢を正し
「お願いします。」
と、戸口に立ち尽くす少年の「母親」と、兄に懇願した。
「この子は私が発作を起こしたのを見て、病気に効く木の実の事を思い出したんです。『風邪をひいた時にかあちゃんが食べさせてくれたんだ』って、そういって……だから、どうか今回だけは、健太君を叱らないであげてください」
そんな風に言われては「母親」も、叱るに叱れなくなってしまった。
母親の様子が軟化したことに安心したのか、少女は「ほう」と息を吐いて、次に顔を兄へと向けた。
「兄さん。この木の実、『ライチ』だよね?」
サイドテーブルの上の、見覚えのある木の実を、まるで初めてみるかのような妹の言い様に、兄は違和感を覚えた。
「うむ、そうだな」
違和感の正体を探りながら、何気なく答えて、それから、少女の兄は部屋に立ち込めている匂い……あまりに芳醇で甘い香りに気が付いた。
そして、その香りの「正体」に気づいて愕然とした。
「……『若し本枝を離るれば、一日にして色変じ、二日にして香変じ、三日にして味変ず。四五日の外、色香味ことごとく去る。』」
少女が諳んじたのは、旧唐書白居易伝の一節。「荔枝」(ライチ)を愛してやまなかった唐時代の詩人「白楽天」が、その旬の短さを嘆いた言葉だ。
この異世界に存在したこの果実を彼らが「ライチ」と呼んでいるのは、外見と味がよく似ていたばかりではない。枝からもぎ取った瞬間から急激な風味の劣化が始まるその特性までが、楊貴妃の伝説に登場する「荔枝」(れいし)そのままだったからである。
「私の記憶が確かならば」
少女は細めて、窓の外の月を見上げた。
「一番近くの荔枝の木まで大人の脚で往復三日かかるはず――そうよね?」
「……ああ、そのとおりだ」
知っている。少女の兄自身がこの美味な果実を妹に食べさせたくて、何度も走った道行きだ。
しかし、ただ一度も、これほど鮮烈な香りが残っていたことはない。
村人の中でもとびぬけた運動能力を誇る彼ですら、一両日を擁する山道。
――ありえない。
格闘家の本能が反応した。ぞわりと、産毛が逆立つ。
そんな兄へと真っすぐ視線を据えて、少女は当然の疑問をあえて呈した。
「この子は一体、どうやってこの果実を、私に届けてくれたのかな?」
その答えを知るものはいない。いるとすればそれは、天に輝く満月があるのみ。
◇◆◇
そう。実はここは現代日本ではない。
何の因果か異世界に転移してしまった人々がいた。
特に理由もなく、召喚されたものでもなく、勇者でも魔王でもない。死んでいないので帰りたいのだが、帰還方法のアテもない。彼らは自分たちの生活を成り立たせ、帰還方法を探すためにささやかでゆるやかなコミュニティを作り、助け合って生きることにした。
そんな寄る辺ない人々が、異郷に辛うじて保ち続けた小さな村。
村の名は『花が瀬村』。
彼、『健太』の、ふるさと。
花が瀬村異世界だより2024 その2 『八重樫キサラ』 につづく
https://kakuyomu.jp/works/16818093073293693178/episodes/16818093073297436261
※KAC、連作始めました(冷やし中華並感)
『ライチ』(KAC20241) 石束 @ishizuka-yugo
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