BOX

大隅 スミヲ

第1話

 直江には三分以内にやらなけばならないことがあった。


 肩で息をしていた。明らかに前のラウンドよりも動きが緩慢になってきているのが、見ただけでもわかる。グローブをはめた腕は、まるで鉛でもついているかのように重くなっているのだろう。ガードが自然と下がってきてしまってきており、顎はがら空きだった。


「ほら、なにやってんだ。しっかりとガードをあげろ」

 セコンドからの指示が聞こえてくる。


 しかし、その声はあの若造には届いていないだろう。

 元暴走族の特攻隊長というのが売りだった。喧嘩慣れしているということもあるのか、たしかにセンスはあると感じられた。しかし、プロの世界はそこまで甘くはない。


 1ラウンド、2ラウンドと若造は攻めるだけ、攻めてきていた。

 いままでの戦績を見てみると、ほとんどの試合が3ラウンド以内の決着であり、スピードスターなどと持て囃されている。若造には4ラウンド以降の試合は未知数だ。ボクシングは12ラウンド戦い抜ける体力と知恵が必要だ。どのラウンドでどこまで力を出して戦うか。そういった駆け引きがあるのだ。スピードスターの若造とは違い、ベテランである直江はそのことを知っていた。


 甘いマスクとビッグマウス。バラエティ番組が放って置くわけがなかった。

 最初はスポーツ・バラエティと呼ばれる番組にちょっと出ただけだったが、人気お笑い芸人の司会者があの若造のことをえらく気に入ったらしく、スポーツとは関係のないバラエティ番組にも出演するようになった。

 一度火が付くと人気はうなぎのぼりとなり、ファッション雑誌の表紙なども飾るようになっていく。バラエティ番組では、ボクシングのの字も知らないような若手お笑い芸人と大きなグローブを付けて殴り合ってみたり、着ているだけで痩せるというサウナスーツを販売してみたりと、あの若造は本業以外での仕事が大半となっていた。

 もちろん、そのお陰でボクシングの興行に今までボクシングとは縁のなかった若者や女性の観客が増えたということもある。

 しかし、業界の関係者からのあの若造への評判は最悪だった。


「なんでベルトも巻いたことがないやつが」

「あいつはただのピエロだ」

「ボクシングを侮辱している」


 様々な声が聞かれたが、すべては嫉妬だった。


 いまのボクシング界の人気を支えているのは、あの若造だ。

 あのビッグマウスがあるからこそ、テレビ局の中継なども入っているのだ。

 低迷期には、テレビ放送もなければ、スポーツ新聞の隅にチャンピオンの防衛記事が数行載せられるだけだった。だれも見向きもしないスポーツ。それがボクシングだった。

 そこから、いまのボクシング人気に持ってこれたのは、あの若造のお陰なのだ。

 ボクシングパンツのスポンサーも、リングコーナーのスポンサーも、全部あの若造のお陰なのだ。


 ゴングが鳴った。

 若造はフラフラしながら、セコンドたちの待つコーナーへと戻っていく。


 そろそろ限界だろう。

 直江は自分のコーナーでセコンドの言葉に耳を傾けながら、水を口の中に含む。


「次の三分で終わらせろ」

 セコンドである沖が、直江にだけ聞こえるくらいの小声で言った。

 他のセコンドはタイ人であり、日本語があまり理解出来ていない連中だった。


 レフェリーに促されて、セコンドがリングから出ていく。

 若造よ、次がお前にとって最終ラウンドだ。

 最後の三分を楽しもうぜ。


 直江はじっと対角線上にいる若造の顔を見つめた。

 顔の左半分は腫れ上がっていて、男前が台無しになっている。それは直江のパンチをまともにもらったせいだった。


 あの若造は、まだチャンピオンの器じゃない。

 そう会長には伝えた。

 この言葉を会長がどう判断するか、ボクシング協会がどう判断するかは、直江の知ったことではない。


 直江にとって、ボクシングは仕事だった。

 昼間はアルバイトをし、夜はジムで練習をする。

 そんな生活を二〇年以上続けてきた。

 今年で四〇歳になる直江が、チャンピオンでもないのにリングにあがり続けるには理由があった。

 別れた妻との間にできた子が、大学受験をする。

 一度くらいは父親らしいことをしてやりたかった。私立大学は金がかかる。それはわかっていた。だから、金が必要だった。


 顔色が悪いな。

 若造の顔を見た直江はそんなことを思っていた。


 前のラウンドでもらったパンチで鼻血が出ており、口で呼吸をしているのがわかった。

 安心しろ。どちらにせよ、この試合は三分以内に終わる。

 直江は心の中でそう若造に語りかけると、左ジャブを繰り出した。


 見えていない。

 若造の反応を見て、それがすぐにわかった。

 軽いジャブでさえ、若造の顔に当たるのだ。


 距離を詰めて、ボディを打つ。

 こちらもガード出来ていない。

 うっ、といううめき声が若造の口から漏れる。


 必死にクリンチをして、その場を凌ぐ。

 ラウンドがはじまってから10秒程度しか経過していない。


 まだだ。もう少し、待て。耐えろ、耐えるんだ。

 直江は心のなかでつぶやき、レフェリーが間に入ってクリンチをやめさせるのを待つ。

 ちらりとリングサイドにいる沖の方を見る。

 沖はとばかりに、頷いて見せた。


 直江もそれに応えるように、ファイティングポーズを取り、渾身の右フックを放つ。

 それはかなり大振りのフックだった。


 当たれば一発KO間違いなし。

 しかし、パンチを打つ際のモーションが大きいという不利な点がある。


 にやりと笑った。

 直江ではない。若造だ。


 繰り出された大振りのフックは空を切った。

 若造が身を沈めるようにして、避けたのだ。


 拳は若造の頭上を通過して、直江はバランスを崩していた。

 そこへ若造の拳が繰り出された。


 きれいなアッパーカットだった。

 顎に衝撃が伝わってくる。

 首の筋肉がミチミチという音を立てて、顎が浮き上がる。

 足の感覚が消えていた。

 やるじゃないか、若造。

 直江はそんなことを思いながら、ゆっくりと視界が真っ暗になっていくのを感じていた。


 長い時間、眠っていたような気がした。なにか夢を見ていた気もする。

 しかし、実際には1秒も経っていなかった。

 レフリーがカウントを数える声が聞こえてくる。

 まだカウントは2である。


 くそ。

 直江は呪詛をつぶやきながら、足に力を入れようとする。

 しかし、足の感覚はまだ回復していない。


 なんとか上半身だけでも起こそうとするが、レフェリーが両手を振るようにして試合を止めた。

 直江のTKO負けが確定した瞬間でもあった。


 若造は大喜びをしており、観客たちは突然起きた大逆転劇に興奮の声をあげている。


 いいんだ。これでいいんだ。

 直江はセコンドの沖に抱き起こされるようにして立ち上がると、そのまま花道を引き揚げていく。


「こんな仕事、割に合わねえよ」

「そういうなよ、直江。お前くらいしか引き受けてくれるやつはいないんだ」

「でも、あの若造。パンチだけは良いものを持っているな。あとはスタミナとガードだな」

「それが出来るなら、お前に仕事も来ないさ」

「確かに」

 直江と沖はそんな会話をしながら控室へと向かった。


 控室で待っていたのは、若造のジムの会長だった。

 直江と会長は旧知の仲だ。

 会長の車がドイツの高級車なのも、あの若造のお陰だということも知っている。

 あの若造は、金の卵を産む鶏なのだ。


「ごくろうさん」


 それだけいうと会長は紙袋を置いて、直江の控室から出ていった。

 紙袋は向こうの会長からの差し入れというわけではなかった。

 中身はジムのロゴが入ったタオル。その下には、パンパンに膨れた銀行の封筒が三つ入っていた。

 そのうちのひとつをセコンドの沖が取り、残りのふたつを直江が取る。


 八百長。

 それは勝負する者たちが前もって打ち合わせをしておき、表面だけ本気で勝負しているかのように思わせることである。

 その言葉の語源は、囲碁の名人であった八百屋の長兵衛に由来する。


 勝負事には、八百長が付き物だ。

 ただ、その八百長には、2種類存在している。

 両者がわかっている八百長と、片方しかしらない片八百長だ。

 片八百長の場合、負ける方だけが八百長だとわかっている。勝つ方は、それが八百長だということを知らない。だから、勝った方は何も知らず、自分の実力で勝ったと思うのだ。


 今回、直江が引き受けたのは、片八百長の方だった。だから、あの若造は何も知らなかった。きっと今頃、勝利者インタビューに酔いしれ、またビッグマウスを口にしている頃だろう。


 片八百長で三〇〇万。あの若造が今後スターとしてボクシング界を引っ張っていくのだから、安い投資だろう。


 クーラーボックスから取り出された缶ビールを受け取ると、直江は喉を鳴らしてそのひと口を飲んだ。どんなことであれ、仕事は仕事だ。どうしても金が必要なら、どんな形であれ働くしかないのだ。


 ぐっと缶を握る手に力を込め、直江は湧き上がってきそうになる罪悪感をビールと一緒に喉の奥へと流し込んだ。

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