濾過

姫路 りしゅう

濾過

「あとは、誰にするかだけだったんです」

 机以外何もない殺風景な取り調べ室で、姫路ひめじはまるで親しい友人と話している時のような柔らかい雰囲気を放っていた。

 その顔を見ていると、彼が残虐な事件の犯人であることを忘れてしまいそうだった。


「誰にするか」


 取り調べ担当の刑事が言葉を繰り返す。


「はい。人を殴ることはあらかじめ決めていました」

「それはなんでだ」

「刑事さんは、人に暴力を振るったことがありますか?」

 刑事は小さく頷いた。職業柄、不可抗力の暴力は発生する。

 それを見た姫路は満足そうに微笑んだ。

「私はね、人を全力で殴ったことがなかったんです。暴力も、せいぜい中学生の頃の柔道の授業程度。兄弟と取っ組み合いの喧嘩をしたこともありません。でも、ある日思ったんです。って」


 刑事は手元の資料に目を落とした。

 姫路の家族や友人、同僚の証言がまとまっている。

 彼を知るものは皆一様に、今回の事件に対して「信じられない」と言い、彼は人に暴行するような人間ではないはずだと口を揃えた。


「それは嫌だなと思ったんです。暴力を知らないまま死にたくなかった。だから暴力をふるった。動機はこれだけです」


 刑事には姫路の言葉が全く理解できなかった。

 彼とは意思疎通がはかれているし、精神鑑定の結果も全く問題がない。

 そんな人間がそれだけの動機であれほど残虐な暴行事件を引き起こせるとは到底思えなかった。


「暴力を振るうことさえ決めてしまえば、あとは誰にするかだけです。でも、ここが一番悩みました」

「…………」

「最初は親でいいかなと思いました。一番身近ですし」

 でも、と姫路は言葉を続けた。


「親への暴力って、世間はどう思うと思います?」

 問いかけられた刑事は少しだけ考えた。彼の言葉を理解しようと、細心の注意を払いながら。

「そうだな。色々なケースがあると思うが、若い親子なら反抗期。老いた親子なら介護疲れ。その他、金銭面などの家族間のトラブルがあったと思うだろう」

 姫路は大きく頷いたあとに顔をしかめた。

「そうなんです。きっと刑事さんの言う通りで、親子の暴力がニュースになったとき、それを見た人は勝手に暴力に理由をつけるんです」

「は」

「それって、

 その言葉をゆっくりと咀嚼する。

「私はただ、暴力を振るってみたかったんです。純粋な暴力を。恨みも悲しみも全部余計で、ただ暴力を振るってみたかった。そこに適当な理由をつけられるのは、不愉快でした」

 姫路は淀みなく言葉を続けていく。

「だから親に暴力は振るえない。同じ理由で知り合いも駄目です。友人も、同僚も、恋人も。知人への暴力は、純粋な暴力とは言えません」


 被害者と姫路の関係は調査中だったが、二人は初対面だという結論になりそうなことを、既に刑事は聞いていた。だから姫路の言葉に嘘のないこともわかった。


「じゃあ相手は無作為に選ぼうか。ですがそこにも落とし穴があります。聡明な刑事さんならわかりますよね?」


 姫路は学生時代、学習塾でアルバイトをしていたらしい。わかりやすいと人気の先生で、生徒や親からの信頼も厚かった。

 そのせいか、彼の説明を聞いていると教えられる生徒の気分になってしまいそうだった。

 頭を振って、本来の立場を思い出す。


「私は男です。現代社会において、男が女性に暴力を振るったら、女性への恨みだとか弱いものを狙ったというレッテルが貼られるでしょう。これもまた、純粋な暴力とは言えない。同様の理由で、自分よりも背丈がはるかに小さい男性、はるかに大きい男性も対象から外れます。それぞれ”弱いもの”や”低身長の恨み”という文脈が乗りますからね」

「お前、もしかして」

 刑事は改めて被害者のプロフィールを見て気が付いた。

 被害者の身長、体重は姫路とおおよそ同じ。

 それどころか、年齢や年収もほとんど同じだった。

「ええ。もちろん性別だけでなく、年齢や年収も暴力を純粋なものじゃなくさせる理由になり得ます。あとは、出身地も気を遣いました。こちらは逆に同郷の人間だったほうが何か関連性を疑われやすい。だから、私の人生に関係のなかった土地で人を選びました」

「つまりお前は、誰でもよかったからこそ、っていうことなのか」

 姫路は大きく頷いた。

「私は純粋な暴力を振るいたい。動機は本当にそれだけです」


 刑事は上を向いて目を押さえた。

 しかし仕事上、彼にはまだ聞くべきことがあった。


「お前の動機はよくわかった。だがわからないな。


 被害者の男性は暴行時に死亡している。

 凶器はなく、姫路は素手で男性を殴り殺していた。悲惨な死体だった。

 何度も何度も殴らないとならない形をしていた。刑事たちはその様子を想像し、皆一様に吐き気を催した。


「暴力が目的なら、ただ一度か二度殴るだけでよかったはずだ」

「刑事さんの気持ちもわかりますよ」

 相変わらず姫路は微笑みを絶やさず自分のペースで口を動かす。

「刑事さん。中学生が同級生に肩パンをする行為は、暴力でしょうか?」

「暴力だ」

「なるほど。では、お笑いでツッコミ役が頭を叩くのは?」

「何が言いたい?」

「人によって、暴力の定義が違うということです。例えば、殴りかかった際に相手が完璧にガードをして怪我がなかったら、それは暴力と認められるでしょうか。私は暴力を振るいたかった。誰が見ても暴力だとわかる行為をしてみたかった。だから、死ぬまで殴ったんです」

「……」

「死とは、です。死ぬまで殴れば、それは誰が見ても明らかな暴力でしょう」


 それに、と姫路は続けた。


「殺さなかったとしても、人を殴れば最大二年の懲役を食らう可能性がある。一人殺した程度だったら、たいていの場合十年から二十年の懲役で済む。わかりますか? 暴力と言えない可能性のある行為で二年の懲役を食らうのと、完膚なきまでな暴力行為で十五年の懲役。どっちを取るべきかは明らかでしょう」


 もはや刑事は理解するのを諦めた。

 長年警察をやっているとこういった人間の話は時々聞くことがあったが、直接取り調べたのは初めての経験だった。


「じゃあ最後の質問だ」

 刑事は半ば投げやりに問いかける。

「お前はいつからその計画を立てていたんだ。お前の計画にはいろんな準備が必要だったはずだ」

 姫路は少しだけ考え込んで、「ですよ」と言った。

 その言葉の意味を考えるより先に、彼は言葉を補足する。

「たぶん中学生になる前だったんじゃないかな。私が初めて『暴力を振るってみたい』と思ったのは。この計画を考え始めたのは、その日です」

「――は?」

 姫路の年齢を改めて確認する。

 二十七歳。十五年以上前から計画を立てていた計算になる。


。いらない要素は全て取り除きたかった。それなのに、犯人がアニメオタクだったり、素行不良だったら世間はどう思います?」

「……まさか」

「創作物の影響。日常生活のストレス。悲しい過去。そんなのは全部邪魔なんです。趣味ひとつだってノイズになる。だから私は世間が好きなものを好み、慎ましく生きてきました。自分で言うのも変ですが、事情徴収の際、周りの人の反応はどうでした?」


 ――彼は人に暴行するような人間ではないはずだと口を揃えた。


「純度100%の暴力を振るってみたい。私はその欲望に従って生きてきて、その欲望を発散しました。被害者の人には申し訳ないですが、これが私の動機です」

 姫路は大きく息を吐いて、にっこりと笑った。

 刑事はその目を見ないよう気を付けながら「一度ここで終わりにする」と言った。

 これ以上彼の正面に座っていたくなかった。


 椅子から立ち上がった瞬間、姫路が「私ね、今回の事件で改めて思ったことがあるんです」と呟いた。


「……なんだ」



「やっぱり、暴力は良くないですね」

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