第四章 相部屋

 夕飯が終わると、他の客たちは部屋に戻ったり、外へ散歩に出かけたりするようだった。私も自分の部屋へ行こうと荷物をまとめていた時、声をかけられた。しゃがれた声の老人は自分がこの宿の亭主だと言った。

「あんた、一人でわざわざうちに来たってことは、エイハブの船に乗りたいと言うことだね? もうしそうだってんなら、あんたにひとつ、頼みがあるんだが」

 嫌な予感がしたが、話だけは聞くことにした。亭主は部屋の隅に立っている男を指さして言った。

「あいつだ。見えるか? そう。あいつもお前さんと同じようにエイハブの客なんだが、帳場の馬鹿がやらかしおって、部屋が足りんと言うのだ。なのでお前さんと同じ部屋に入れてはやれないか? お前さん部屋番は何だ? ふむ、そこならな、ベッドがふたつ置いてあるんだ。ひとつは別の部屋にあったんだが、壊れてあまりにも酷い音がするものだから、使い物にならんだろうと押し込んであったんだ。心配せずともひとつのベッドで一晩過ごすなんてことにはならんだろうよ。そうだな、お前さんには礼に明日の飯をつけておいてやろう」

 この亭主は話の相手が客だと言うのになんと態度のなっていないことか。話し方を聞くにここいらの生まれ育ちでは無いように思うが、だとしても客に自分の部下の失敗の精算をさせておいて、謝罪の一言も無いどころか、「飯をつけておいてやろう」などと見下したような物言いをするのは、不快極まりない。私は当然のように腹が立ち、強く言い返した。

「あの客は一体どういう人なんです? 国ぐらいは聞いていますよね? もしそいつが南国の未開の地から来たような野蛮人で、万が一にも私の命が脅かされると言うのであれば、勿論の事、断固反対ですよ」

 亭主は気味の悪い笑い声を立てると、加えているタバコを噛みながら言った。

「国は聞いとらんが、あの顔を見るにアジア人だろうよ。アジアの方で野蛮人と言うとなんだ? 向こうに人食い人種なんてものは居たかな。いや、居たかもしれんが。とにかく空いている部屋がないんだ。エイハブの奴に頼まれているもんでな、今からあれを追い出す訳にはいかないんだよ。なあお前さん、船に乗ると言うなら、どうせほかの船員と部屋を同じにすることになるんだから、ここいらでひとつ勉強とはいかないかい?」

 私はこの亭主への嫌悪感を抜きにしても、見知らぬ人間と一夜を共にすることへ強い抵抗があった。あれが危ないものでは無いと証明できない限りは、この提案に乗ることはできない。亭主にそう言うと、呆れたように勝手にしろと吐き捨てられたので、その言葉通り勝手にさせていただくことにした。例の客は壁に背をついてたっている。近づいて、恐る恐るその顔を覗き込んだ。顔は立体感のない猿のようで、耳は大きく、鼻は丸く、その周りが火照ったように赤い。西洋人には見ない顔つきだ。私が見ているのに気づくと、男は驚き、怯えたように私を見た。私は思わぬ反応に困惑しながらも、とにかくこれが自分の敵にはならないよう、細心の注意を払って話しかけた。

「すみません。あなたと相部屋にしろと頼まれているのですが、見知らぬ人間とひとつの部屋にいるというのは随分と不愉快なものですから、少しあなたについてお尋ねしておこうと思いまして。どの国から来たのです?」

「そう、ですか。私は、日本人、です。すみません」

 男はぎこちない言葉で私の質問に答えた。言葉が苦手なようで、一言喋る度になにか考えるような仕草をしている。そして日本人と言ったか? 名はよく目にするが、地図で見た事がある程度の国だ。そういえば幼い頃に故郷へ行き来していた捕鯨船が、日本の方まで言ったという話をしていたっけ。日本人は皆猿のような顔をしていると笑っていたのを覚えている。私はこの男への警戒を解いたわけでは無かったのだが、酷くおろおろとしてしきりに辺りを見回す様子を見ていると、なんだが可哀想になってきてしまった。 

「ねえ君、私とお互いに絶対干渉しないという約束の元で相部屋にしないかい。あの亭主には何を言ってももう駄目だ」

 男は私の言葉を聞き取ることはできるようで、私が話終えると、安心したような顔で何度も頷いた。

「亭主!こいつと同じ部屋で構いません。ねえ、部屋はどこにあるんです?荷物を置いてしまいたい」

「おお、助かる。助かるよ。ついてきな。あんたたちの部屋はね、安いが少し広いんだ」

 私たちは亭主のあとを着いて部屋に向かった。亭主の言う通り、その安さに見合うだけの質素な部屋に、ベッドがふたつ置いてある。窓は外の風でガタガタと言っているし、どうもすきま風まで入ってきている様子だ。まあ、路上で寝ていた頃を思えば、随分とましではあると自分に言い聞かせる。

「思っていたよりも、素敵な部屋ですね。ねえ、亭主さん」

「そうかい。そうかい。文句を言うならね、あのわからず屋の船長に言っておくれよ。あれが私の宿へ人を集めると言ったのをね、昔のよしみだからと承諾したがね、私は追加の金を貰っていないんだよ」

 亭主はそれ以外にもなにかぶつぶつと文句を言いながら部屋を去っていった。私と異邦人は二人、狭い部屋に残された。私はもう一度部屋を見回してみる。どう見ても一人用の小さな部屋に、一人用のベッドが窮屈にも二つ置かれているだけの簡素な部屋である。部屋の角には小さな洗面台と椅子が置かれているだけで、本当に安い宿の、その中でも殊更に安い部屋という様子だ。お世辞にも綺麗とは言えない部屋の端っこにある小さな窓からは、ぴゅうぴゅうと細い隙間風が漏れている。私はそれがあまりにもうざったくなって、そこいらに置いてあった小さな蝋燭に火をつけ、そこから垂れる蝋で穴を埋めてやるなどした。同じようなことを試みた者が私の他にも大勢いたようで、似たような蝋の跡が窓枠のあちらこちらにあるのだった。

 亭主は船に乗る前の勉強だなどと言っていたが、私とて初心者ではないのだ。狭いベッドで何日も過ごすことに関しては、海軍や商船のあの小さな船員室で何年も経験済みであるからだ。

「ねえ君、一晩一緒に過ごすからにはね、名前を聞いておこうと思うんだ。君はなんというんだ?」

 私は彼が言葉を上手く話せないことを思い出し、はっきりとした声で少しゆっくりと話した。

「私、名前は、モンキーと、呼んでくれ」

 随分と珍妙な名前に私は面食らった。モンキーだと。それは本名なのかと尋ねると、違うと答えた。彼が言うことをまとめると、本当の名は別にあるが、言葉が違うものだから皆それを上手く呼んではくれないし、であ れ ば、自分から呼びやすい名を名乗るようにした方が楽だと言うことだった。それにしてもモンキーというのは、おあつらえ向きというか、彼にピッタリのように見える。彼の本名など別に興味はなかったので、私も彼をモンキーと呼ばせてもらうことにした。

 私も名を名乗らねば不公平ではあるが、彼が本名を言わなかったことに便乗して「スクァーレル《リス》」と名乗ってやった。彼はこれが動物の名前だとは気が付かなかったようだが、回らない舌で何度も私の名前を繰り返していた。

 部屋に入る前、私は彼に互いに干渉しないことを条件にして相部屋を認めたが、今となってはこの男への興味が警戒心を上回ってしまっていた。彼が一人で居たいのなら申し訳ないとは思うが、私はむしろこの状況を楽しんでいた。

 モンキーに好きな方のベッドを選べと言われたので、部屋の奥、一際壁に近い方を選んだ。特に理由はないが、初めて会う男と同じ部屋で寝ると言うのだから、私のわずかばかりのプライベートなものを守りたいと言う本能が現れて、少し窮屈な思いをしてでも、端っこの方で丸くなっていたかったのかもしれない。しかし私の無意識下の心配事など全く必要のないほど、モンキーは実に静かにこの一夜を過ごしてくれた。私が荷解きや着替えなどをしている間はずっと何もない壁の方を見ている。私が着替え終わったと声をかけると、わかったと一言返事をするだけで、そのまま壁の方を向いたまま動かないのだ。いったい壁の何がそんなに気になるのか。もしかすると他の船乗りが残した暗号でも隠されてるのではないかと思って、モンキーの後ろから覗き込んでみるが、私の予想は当たり前のように外れて、そこにはただいろんなシミのついた古い壁があるばかりだ。何度か覗き込んでようやく気づいたのだが、モンキーは壁をじっと眺めているわけではなく、手元にある何か小さいものを触っている様子だった。

「スクアラル、ずっと見てる。これが、気になる?」

 今気づいたが、モンキーは私の名前をうまく呼べないようだ。私がそれを指摘すると、モンキーは何度か言い直して見せたが、どれも微妙に間違っている。しまいにはモンキーが何も言わなくなってしまったので、君の一番言いやすい呼び方で構わないと慰めることで一旦の収拾がついた。この時に名前の読み書きを教えてやってもよかったのだが、私はそれよりも、彼が持っている何かが気になって仕方なかった。私はより一層モンキーの手元を覗き込んだ。モンキーが掲げて見せたその手の中には、木でできた小さな人形のようなものが握られている。見たことのない人形だ。単純な造形の木の棒と玉が組み合わされた形だが、可愛らしい模様の布切れで包まれており、女の顔のような絵図が描かれていいる。彼が言うにはこうだ。

「これは、日本を出た時からずっと持っているもの。お守りみたいなものだ。本当は友人の娘にやるつもりだったが、そいつが死んでしまったもので、娘に渡せないままこっちまで連れて出てきてしまった」

 そういった内容を話すモンキーの顔は見えなかったが、肩を落とし、時折小さくため息をつく様子は、酷く寂しそうに見えた。小さな人形を撫でる手も優しげで、なんだか私は、ただの好奇心を理由に彼の大事なものを盗み見てしまったような気がして、身の置き場のない思いだった。モンキーはしばらく人形の相手をしたあと、簡単に着替えを済ませると、毛布に潜り込んだ。私は眠りにつくまでにまだ時間がありそうだったので、彼ともう少し何かを話したいと思っていたのだが、私が声をかけようとした時には、彼はもう眠りに落ちてしまっていた。子猫のように体を丸めて眠る様子は、私とかなり年の離れた人だと言うのに、どうも可愛く見えてしまって、私はその寝顔を暫く見つめていた。眉間に小さくシワをつけて、寝息を立てている。私は彼の穏やかな寝顔に、誘われるように眠りに落ちていった。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白鯨と呼ばれた海賊 耆熊 @Si_Gma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る