第三章 海賊亭

 駅を出ると、目的の場所までの道はそれなりに賑わっていた。仕事を終えた労働者たちが、食堂やら宿屋に戻る時間だからだ。汗と煤にまみれた労働者たちの間を縫って、人波に揉まれながら街道を抜けていく。それにしても随分と腹が減った。私は道端の露店で安いパンを買うと、それを食いながら歩くことにした。人の増える時間に合わせて仕込んだであろう焼きたてのパンは、お世辞にも美味いとは言いがたかったが、少しばかり私の腹を温めてくれた。

 時折人に道を訪ねながら、ようやく目当ての港町に着いた頃には、あたりはすっかり暗くなってしまっていた。街路は街灯の明かりで洒落た雰囲気を醸し出している。私が用があるのはこの洒落た街ではなく、ここを通り抜けた先にある港の端だ。商店の並ぶ道を抜けると、先程までの整った道とは打って変わって、ぽつりぽつりと小さな灯りが灯っているだけの道に出る。

 私は懐を探ると、新聞の切り抜きを取り出した。通りの名前と番地が書いてある。街頭につけられた札を見るに、通りはここで間違いの無いようだ。次は宿を探さねばならない。切り抜きに宿の名前が書かれていたのだが、煤か何かで汚してしまったようで読めなくなってしまった。何を書いていたかも覚えていないため、少し消えかけている番地だけが頼りだ。しかしその宿は案外すぐに見つかった。というのも、この通りの並びに宿は一件だけだったからである。先程通ってきた街よりも少し寂れた雰囲気ではあるが、昔ながらの街並みが残された風情ある通りだ。その中でもこの宿は一際大きく、そして一際古めかしかった。今でこそ珍しいハーフティンバーの様式の面影を残していて、遠目に見てもよくわかる。晴れた日の朝に眺めたりなどすれば、漆喰の真っ白い壁に礼儀正しく並ぶ腐食止めを塗られた真っ黒い木が、朝陽を受けて随分と美しいのだろう。ところで、今しがた私がたどり着いた宿は、一体なんという名前なのか。冷えた指先を擦りながら、入口に下げられた看板を見上げると「海賊亭(バッカニアー・イン)」と書かれている。随分とふざけた名前に、私は思わず息が漏れてしまった。なに、馬鹿にしているだとか、そういうことでは無い。諸君らの中にもこの良さがわかる人は居るだろうが、私もこういうロマンある言葉は大変好きな部類なのだ。この名前だけでは私の冷えた手は温まりもしないが。

 海賊バッカニアーというのは、十七世紀にカリブ海辺りで暴れていた無法者のことだ。当時は随分と栄えたもので、普通の商船で並の水夫をやるよりも、海賊船で一発当てたほうがよく儲かったのだとか。フランスやイングランドの政府もそれに目をつけ、敵国の船を合法的に襲わせる私掠船プライベティアとかいうものに仕立て上げた。今で言う海賊パイレーツとはまた随分と違ったものであろう。今の海賊は、その辺で拾ってきたようなぼろの船で、漁船や小さな商船を襲いその場限りの人質をとっては、お小遣い程度の魚や金品をくすねていく実に姑息で面白みのないただの盗人だ。軍艦に乗っていた頃にいくつかの船を使い物にならなくしたが、そこに乗っていたどれもが金のない人間で、貧困にあえぐ事に耐えかねて、仕方なく海賊行為に手を出したという事であった。そうして海賊行為をやったところで大した稼ぎにもならず、立場の低い奴らは大元に家族を人質に取られたりしているものだから、簡単に足を洗うこともできず、国家の敵として生きてゆくしかなくなってしまうのだ。

 しかしこの宿はよくもまあ、人を呼ぶ宿にこんな縁起の悪い名前をつけたものだ。少なくとも当時につけた名前ではないだろう。あの頃にわざわざ海賊を名乗るというのは、縛り首にしてくれとでも言っているようなものだからだ。確かに今の時代の人間からすると、ロマン溢れる夢物語のような扱いをされることもあるが、賊は賊。たとえ大昔の御伽噺の時代の存在であったとしても、例えば神話ほどの時代に悪とされた存在は現代でも悪の象徴であるように、海賊バッカニアーも決して縁起のいいものではないのだ。この港町には漁師や商船の乗組員がしょっちゅう来るはずだろうし、これだけ大きな港であれば、軍人もこの辺りの店に世話になるはずだ。もう少しましな名前はなかったのだろうか。ここの主人は古いものが好きな人間か、そうでなければ随分な変わり者なのだろう。そしてこんな宿にわざわざ泊まりに来る客も等しく変わり者だ。私はたまたま訪れることになったのだから、この奇人変人からは除外しておくれ。名前のことはともかく、目当ての宿は見つかったのだ。くだらない事を考えて無駄な時間を過ごしてしまったが、私は今すぐにでも体を温めたいのだ。かの船長が来ると言うのは明日の朝ということなので、この一晩ばかりはのんびりと体の疲れを癒せるはずだ。私はガラス窓のあしらわれた重い扉を押し開いた。 

  海賊亭に一歩踏み入ると、背の低い天井とが広間が私を迎え入れる。一階は小さな広間になっており、既に何人かの客が集まっていた。こんなに外は寒いというのに、皆ぼろの布切れのような服を着ている。水夫らしくない格好からするに、この男たちも私のように仕事を求めてやってきた浮浪者なのだろう。部屋の一方の隅を見てみると、随分長いこと仕事をやっていなさそうなくたびれた年寄りや、その年寄り以上に痩せこけて年の分からないような男。もう一方を見れば、つい先日船を下りたばかりのような、パンのように焼けた肌とそれなりの肉体を持つ健康そうな若者もいる。不意に目が合ったのではぐらかそうとしたが、男は私の方に歩み寄って来ると、勝手に自己紹介をし始めた。ディンジー・グレグソンと名乗った男は、聞くにやはり先週にこの港で船を下りたばかりだと言う。故郷に帰るにも船に乗らなければならないので、それなら向こうに着くまで仕事をしてしまおうという随分と仕事熱心な男だった。しかし捕鯨は君が思うほど簡単に、望んだ場所で船を降りられるようなものではないぞと言ってやると、このグレグソンと言う男は笑って気にしない様子であった。私が嘘を言ったように思えたのだろうか。それ以上話すこともないので私たちは離れた。広間には他にもざっと数えて十五人ほどが居るが、これだけでも随分と様々な見た目の奴がいて、どれもみすぼらしく、私がこの中で浮いて見えるという事は無いようであった。どうもこの広間は食堂も兼ねているらしく、厨房の覗けるカウンターがある。その向こうから聞こえてくる忙しない調理の音から予想するに、そろそろ夕飯どきなのだろう。私は夕飯の前にグレグソンに帳場の場所を聞き、それを見つけると、そこの若い受付に一泊分の部屋と食事を申し込んだ。金が足りるか不安だったが、なんとか間に合った。

 料理が出てくるまではもう少しかかると言われたので、暇を潰そうかと広間を見回してみる。建物自体は昔ながらの下宿といった風で特筆すべき点はないのだが、おおよそこのには合わない雰囲気を醸し出している。というのも、美しい質素な内装であるにもかかわらず、それにまるで似合わないような鮮やかな装飾品が壁一面を覆っているのである。これはどこかの国のタペストリーであったり、どこか未開の地の原住民の腰蓑や面だとしか思えないようなものや、見たことのない色鮮やかなの鳥の剥製のであったりした。亭主の趣味なのであろうか。気味が悪いとまでは言わないが、心休めに来るはずの客を迎える宿屋の入口としては、いささか適切性に欠けると言うのが私の感想だ。しかしこの宿の名前が「海賊亭」というのを思い出してみれば、むしろこの見てくれであった方が相応しいと言えるのかもしれない。

 そんな様子でこの奇妙な内装を楽しんでいると、厨房の方からけたたましい鐘の音が聞こえてきた。警鐘かと思い一瞬身構えたが、ここは船の上ではない。では実際は何事かというと、料理が仕上がったのだ。広場にいた客たちは我先にと、部屋の真ん中にある長テーブルへ向かう。私も慌てて、荷物を持ったまま空いている椅子を探して滑り込んだ。椅子の下にトランクケースを置き、脱いだコートを椅子の背にかけ、自分も椅子へと腰を据える。そうこうしているうちに、他の客はもう料理に手をつけ始めていた。こういう大きなテーブルを囲むのだから、言葉のひとつやふたつはあるのかと思ったが。というのも、以前に商船に乗っていた時などは、乗員のほとんどがキリシタンだったようで、決まって食事の前の祈りの一言があったのだ。どうやらこの宿は違うらしい。よその国の人間も多く来るからであろうか。それとも、単にみな腹が減っているので、祈りなどという面倒な手間はかけたくないのだろうか。いや、こんなことはどうでもいいのだ! 今、腹を好かせた私の目の前に、美しい鱈のシチューを湛えた大鍋と、焼きたてのパンが積み上げられた編み籠があるのだ! この腹を好かせた人間の口に飛び込むのを待っているのだ! くだらない思考は後回しだ。私は早くこれに応えなければならないのだから。

 久しぶりのまともな食事だ。これまで数週間の間、ここにくるまでに食べていたような小さな冷め切ったパンや、特別美味くもないために廃棄されるような小さな骨ばかりの魚で朝晩の空腹をしのいでいたのだ。温かいシチューなんてものは、もはや何年振りにも感じるほど口にしていなかったものだから、私は目頭と鼻の奥がぎゅっと熱くなるのを感じたのだった。私はごまかすように鼻を啜り、熱いシチューを慌ただしく掻き込んだのだった。

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