繰り返す三分間の戦い

陽澄すずめ

繰り返す三分間の戦い

 女には三分以内にやらなければならないことがあった。


 激しい痛みの波が引くか否かのうちに、震える指先でスマホをタップする。呼び出しの時間すらもどかしい。やっと繋がった電話口、おっとりした声が応える。


『はい、◯◯レディースクリニックです』

「すみません、陣痛が来たので電話しました」


 女は氏名、診察券番号、生年月日、そして出産予定日を告げた。口調は平静そのものだ。


『陣痛は何時ごろから始まりました?』

「つい三十分ほど前です」

『今、何分間隔ですか?』

「三分です」

『え?』

「三分です」


 そう、たったの三分である。

 陣痛の間隔が十五分から二十分になったら産院に連絡するようにと、事前に説明を受けていたのだが。


「痛みが始まった時点でもう七分間隔だったんです。二度目の陣痛の後トイレに行ったら出血おしるしがあって、少し様子を見てたらあっという間に三分間隔にまで縮まってて……ッンァ"ッ⁈」


 前回の痛みが引いてから三分経過したらしい。激烈な痛みが下腹部を襲う。


『あ、今痛み来てますかね?』

「ンガゥゥ……ッ!」

『ゆっくりで大丈夫ですよ』


 異形の怪物のような呻きで答えた女に対し、電話の相手の声はあくまで穏やかだ。こうした事態にも慣れているのであろう。それは女の心をやや落ち着かせた。

 しかしいくらなんでも進行が早い。経産婦とはこういうものなのか。

 陣痛は、一度引いてしまえば嘘のように消失する。


『では入院の準備を持って、こちらにいらしてください』

「はい、今から伺います」


 女は理性を取り戻した人間の言葉で通話を締める。


 ダイニングでは、女の夫と二歳の長男が夕食を摂っているところであった。

 女は鷹揚に告げた。


「今から病院に行く」

「おぉ、今から⁈ よーし、たっくん! 今からお出かけだよー」

「イヤ! こぇ、たべぅの!」


 食事の継続を主張する長男を夫に任せ、女は洗面所へと向かった。


 さて、女の腹は現在妊娠三十九週と六日。つまり出産予定日は翌日に迫っている。入院のための荷物は二週も前にまとめ、いつでも持って出られる状態にしてあった。

 後はただ眼鏡とスマホの充電器を入れるのみである。


 そう、眼鏡とスマホの充電器を入れねばならないのである。


 更には今、女の両目にはコンタクトレンズが入っていた。そして今日は産院の検診で出かけたため、顔には化粧が施してあった。出産態勢に入ってしまえば洗顔のタイミングはない。出産直後には真っ直ぐ立つことすらも難しいであろう。

 つまり今、洗顔を済ませておく必要があった。


 苛烈な陣痛をひと波やり過ごしてから、次の三分をフルに使用してのミッションスタートである。

 右目、左目とコンタクトレンズを外す。既に二週間弱使用済みのため、廃棄する。クレンジングオイルを顔じゅう伸ばす。いつもの二倍速で皮膚に馴染ませ、冷水で落とす。洗顔フォームを手に取る。そこそこに泡立てる。顔につけてこする。「ッグゥゥ……!」冷水で落とす。タオルで顔を拭く。化粧水を顔全体に塗りたくる。眼鏡ケースから眼鏡を取り出して掛け、眼鏡ケースを持って居間「ンア"ッーー!」へと向かう。


 インターバルは再び三分設けられる。いや、それすらも少しずつ縮まりつつあるか。

 手足が重い。疲弊した身体は思うようには動かない。いずれにせよ残された時間は幾許もないのだと、女は悟る。


 夫は長男を宥めるのに忙しいようだ。

 これまでの陣痛で大幅に体力を消耗していた女は、渾身の力で居間のコンセントから充電器を引き抜いた。


「オ"ラ"ァ"ッ!」

「おーい、大丈夫? さっきも結構呻いてたけど」

「大丈夫、あと少しで勝てる」

「お前いったい何と戦ってるんだ」

「自分とだよ」


 そう、これは己との戦いなのである。

 女の入院中は夫と長男で過ごしてもらわねばならない。今現在とて、夫は長男に梃子摺っている。

 己のことは己で始末をつけるべきなのだ。


 入院荷物と長男を夫に任せ、いよいよ玄関へと向かう。臨月の腹を抱えては、一挙手一投足に負荷がかかる。

 女が上りかまちに腰を下ろし、靴を履こうとした瞬間だった。ひときわ大きな陣痛の波が、波濤のように襲いかかってきたのである。


「グォォォォオ……ッッ!」


 にわかに意識が遠のいた。冷や汗が全身から吹き出す。胎内で赤子の身体が畝り、臓腑を抉り上げる。迫り上がる吐き気。視界が霞む。この新たな命を授かってからの日々が走馬灯のように駆け巡る。


「ママぁ、はやくおくちゅはいてくだちゃい」


 天使の声によって引き戻される。

 隣に座る長男に、女は、ニコ……!と笑んでみせた。


 その後、女は夫の運転する車に乗り込み、車内で破水し、産院に到着するも入り口で身動き取れなくなり、車椅子に乗せられて分娩室に運び込まれ、分娩台に上がるや否や僅か一いきみで赤子を出産した。


「元気な女の子ですよ!」

「うむ……」


 赤子は出生後の処置のため、すぐに連れて行かれる。

 分娩室内にあるホワイトボードには、こう記されていた。


 分娩時間 1H3M


 すなわち、陣痛開始から出産までの時間が、一時間三分。聞いたこともない超スピード出産だが、どうにも惜しい数字である。

 女は、幾重もの死線を潜り抜けた戦士のような横顔でそれを眺めながら、こう思った。

 洗顔を諦め、あと三分早く家を出ればあるいは、と。



—了—

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