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 気が付くと十畳ほどの座敷に座っていた。

 畳は雨晒しにあったように黒く変色し、襖は破れている。何より違うのは室内に月明かりが届いていることだ。上を見ると、天井が壊れて梁の隙間から夜空が見えた。

「……ここは、なぜ」

 劣化して崩れ掛けた屋敷はもちろん見覚えがある。

 恐らく神がいなくなったので荒れ果てたのだろう。松の襖絵は何年も経ったように黴が生え、もはや襖の体を成していない。次の間を覗き見ても、かつての襖絵達は朽ちたように壊れており、若干見通しが良くなっていた。

 自分をここに呼べる存在は一つしかない。

 ごくり、と唾を飲む。この屋敷に召喚される理由は何もないはずだ。それどころか、彼女をここから解放した恩人と言っても良い。安川議員に復讐をしたのであれば、恩義の概念もあると思う、いやあって欲しい。

 もし彼女がいるとしたら一番奥だろう、呼ばれた以上行くしかない。

 仕方なく進み始めた。襖絵達は断片だけが辛うじて分かるが、もうどれも動いてはいない。以前は彼らに手こずって時間がかかったが、一直線だと意外にすぐ着きそうだ。腐った畳を慎重に避けながら歩くと、段々と最奥の様子が分かってきた。

 突き当りの部屋に、少女の後ろ姿が見える。最後の間は特に壊れ方が酷いようで、襖が無くなり見通しが良い。更に天井も抜けているのか。彼女は神々しく白い月光を浴びていた。

 その手前、板張りの間に足を踏み入れた時、ようやく気付く。ここは控えの間だったのだ。人間が踏み込むことを許される最後の一間、これより先は神の領域となるということか。

 神、いや彼女は、最初と同じくこちらに背を向けて立っていた。ただ違うのは桃の香りが漂っていない。そして綺麗な絹の白装束を見る限り、もう怪我はしていないようだ。

 ふふ

 ははは

 あは

 きたきた

 部屋の四隅から幼い声が聞こえる。そして相変わらずこちらを見ようともしない。キリスト教であれば十字を切ったり、跪いたりするのだろうが、神道の諸作法は分からない。

 いや、違う。彼女の正体は、伊邪那美命に湧いたとされる雷神の一柱であり、黄泉の神なのだ。神道で言うところの穢れに当たる存在。

 ぞくりと首筋の毛が逆立つ、少なくとも良いものではない。のんびりと近くにいるのは危険だ。そう思った時、彼女の声がぽつりと響いた。

 おかあさん

 ……お母さん? そう聞こえた。

 思えば彼女はここにいる間、桃の香りに蝕まれながら「おかあさん」と言っていた。

 少女は続けて呟く。

 おかあさんもこっちにきたい

 どういうことだ、彼女の母とは誰のことだ。

 探究心が恐怖を上回って尋ねようとしたその時、ぐいっと腰のあたりを引っ張られた。手ではなく口で咥えられたような力強さ。無防備だったため後ろに引き倒されるかと思ったが、その瞬間にはっと目が覚めた。

 慌てて周りを見渡すが、都内を走る電車の中だった。乗った時よりも少し人が多くなっている、時刻を確認すると五分も経っていない。 

 またあの狼に助けられたのだろうか。恐らく神と直接話すことはまずいのだ、自分の無謀な試みに今更焦りを感じた。今度朝比に行ったら、あの小さい社にお参りしてこよう。

 そう思った時、メッセージが届いていることに気づいた。いくつか不在着信もきている。宛名は全て日置からだった。

「電話に出らるないので、メッセしました。このニュースを見てください」

 よほど慌てたのか、誤字脱字が目立つ。急いで本文の下についているリンクを開いた。

『島根・美保関で山火事か。本日午後十六時三十分ごろ、松江市美保関の山間で煙が出ていると通報がありました。地元消防によると、斜面を利用した果樹園から火が出ているとのことで、現在も鎮火に至っていません。原因については近隣住民が複数の落雷を目撃しており、雷による出火と思われます』

 スマートフォンを持つ手が震えた。

 少女が言っていたのはこれだったのだ。桃の木が焼けてしまえば、彼女達を妨げるものは何もない。彼女の母も出てくるだろう。

 母とは誰だ。

 誰のことだ。

 彼女は誰から生まれたのだ。

 日本神話を思い出して、出ようとしているものの大きさに愕然とした。

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神鳴り 高賀器用/KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko

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