永字八法

多田いづみ

永字八法

 夜、ホテルのバーにいた。

 歴史のあるホテルで、街の中心からすこし外れた小高い丘のうえにある。和洋折衷で二階建ての本館は、客室はそれほど多くなくこぢんまりとしているけれど、おそろしく天井が高い。ふつうの建物の二倍ぐらいある。通路やロビーも建物にあわせて広びろとしているが、通る人もあまりおらず、デ・キリコの絵画みたいに空虚でさびしい感じがする。


 バーの床にはエンジ色のじゅうたんが敷かれ、壁も天井も深い赤紫色の寄木で仕上げられている。いまどきの流行りではない重厚でクラシックなしつらえで、ホテルのほかの部分と同じように、細部にいたるまで上質で手が込んでいた。


 もう深夜近くだというのに、バーは大入りだった。ホテル自体は無人であるかのようにひっそりとしているにもかかわらず、泊まり客のほとんどがここに押しかけているのではないかと思えるぐらいの、たいへんな混みようだった。

 バーは長く伸びた二本のカウンターが、終点のところで弧を描いてつながっており、上から見るとUの字みたいな変なかたちをしている。そこにわたしを含めた泊まり客が、電線にとまったすずめみたいに鈴なりになっていた。


 わたしときたら、人づきあいが苦手なくせに寂しがり屋という困った性格をしているから、客室でじっとはしていられず、夜のバーにくりだし、こうして隅でひっそりとコーヒーなどすすっている。

 かといって、見ず知らずの人と話したり話しかけられたりというのもまた面倒なのだが、バーテンダーはこちらから声をかけたりしないかぎりは放っておいてくれるし、泊まり客だって、美人を口説いたりするのならともかく、こんなしょぼくれた小男にわざわざ話しかけるやつなどいやしない。

 それでも集まった人びとが、食器をカチャカチャいわせながら食べたり飲んだり、ぼそぼそと小声で話しながら静かに笑ったり、そんな光景を見ているだけで、わたしの心は安らいだ。

 木枯らしの吹く寒い晩で、建物には暖房が入っていたが、隙間風が入ってくるのかどこにいても薄っすら寒く、底冷えがする。しかしバーのなかだけは、ほかと同じくらいの暖かさではあったが、それとは別に、人のぬくもりが身に沁みるような心地がした。


 どうしてバーで酒を頼まずコーヒーなんか飲んでいるのかといえば、それはわたしがあまり酒が強くないというのもあるけれど、何より、メニューのなかでいちばん安かったからだ。

 しかし安いといっても、千五百円もする。たかがコーヒー一杯に千五百円。だがさすがに格式あるホテルの出すコーヒーだけあって、苦味と酸味のバランスがとれたなかなかの味で、香りもふくよかだ。

 カップも、マイセンだかウエッジウッドだかのしゃれた感じの高級そうなうつわで、薄くて軽くて口当たりがいい。カップの外側には、ヨーロッパの庭園らしき風景が藍色の顔料で描かれており、内側はとろんとしたミルクのような肌合いで、コーヒーの深い色味がきわだち、とてもうまそうにみえる。


 となりにすわった中年の男は、外から直接やってきたのか、ただの寒がりなのか、コートを羽織ったまま、高価たかそうなロックグラスで、高価そうな琥珀色こはくいろの酒を飲んでいた。こんなうす暗いバーのなかで、なぜか男はサングラスをかけたままでいる。キザな野郎だ。

 男がグラスを傾けるたび、流氷みたいに大きな氷のかたまりが、カランと高価そうな音をたてた。しかしコーヒー一杯が千五百円もするのだから、男の飲んでいる酒はいったい幾らなのだろう。

 そんな高価そうなものを飲んでいる男に嫉妬しないでもなかったが、わたしだってマイセンのカップに入った千五百円もするコーヒーを飲める立場なのだ。卑下する必要はない。


 そんな下世話なことを考えていると、サングラスの男と反対側の空いていた席に人がすわった。

 痩せて髪の長い、いかにも軽薄そうな若い男だ。派手なたて縞のスーツにはネクタイを締めておらず、シャツのボタンをはずして大きく胸をはだけている。男がからだを揺すって椅子にすわりなおすと、軽薄そうな甘ずっぱい香水のにおいがした。

 男はメニューも見ずに、長ったらしい名前のカクテルらしきものを頼んだ。

 バーテンダーは、いくつものボトルをとっかえひっかえしてその長ったらしい名前のカクテルをこしらえると、試験管みたいな細長いグラスに入れて男の前に置いた。


 若い男のことは気に食わなかったが、そのカクテルには興味をひかれた。虹のような、夕焼け空のような、幾層にも分かれた色の組み合わせがとても美しい。

 下の層は深い紫から青色で、それがだんだん淡く透明になり、その上にはオレンジから赤に変わる層があった。

「それ、なんてカクテル?」と男に訊ねると、男は早口でナントカカントカだといったが、あまりにも長すぎて覚えられなかった。しかしもういちど訊く気にはなれず、どうせ頼む金もなかったので、だんだんどうでもよくなってきた。


 わたしはぬるくなったコーヒーを飲み干し、カップを受け皿に置くと、バーカウンターの天板が大理石で出来ていることに気がつき、うれしくなった。というのも、わたしは大理石とみると、どこかに化石が埋まっていないか探しはじめるおかしなくせがあるのだ。


 大理石には、意外なほどたくさんの化石が埋まっていることがある。以前、老舗の百貨店に行ったときなどは、壁から床から階段からすべてが大理石でできていて、夢中になって化石を探しまわって気がついたら半日ほどたっていたこともある。


 都合のいいことに、大理石の床や壁というのは化石がとても探しやすいつくりになっている。大理石は大きな石を切り出して三十センチ角とか五十センチ角とかのタイル状に加工し、建築現場に持ち込んで敷きつめていくのだが、じつはその三十センチや五十センチの区切りが探すのにとても役立つ。

 人間は、何の目印もなくわーっと広がったところから何かを探せといわれても、うまく探せるようにはできていない。おなじところを何度も調べて何度もおなじものを発見し、そうかと思うと、べつのところはまったく手つかずのままになっている。だから考古学などでは、地面をこまかくブロック状に区切り、ブロックごとに発掘作業をおこなう。そうすればおなじところを何度も探したり、取りこぼしたりすることがないからだ。

 その点、建物の床や壁は三十センチや五十センチのブロックにあらかじめ区切られているのだから、タイルごとに左上から右下に向かって調べていって、調べ終わったら次のタイルに移るというやり方で、効率よく化石を探し出せる。

 しかし今夜はいくら調べても、目の届くところに化石は見つからなかった。まわりで酒を飲んでいる連中のグラスやカップをどかして調べたいという衝動を、わたしはなんとか我慢した。


 ふと時計を見ると、時刻は十一時半を過ぎたところだった。

 まずい。わたしは日課として、このところいつも日付が変わる前にやっていることがあるのだが、いまから部屋にもどっていたら今日の分が間にあわない。もう、ここでやるよりほかなかった。

 まわりには迷惑かもしれないが、日課というのは、あとでやればいいとか、あした二倍やればいいとか、そんなことを考え出したらすぐに崩れてしまうものなのだ。

 わたしはバーカウンターの下に置いたカバンから、ノートと筆ペンを取り出した。


 その日課がどういうものかといえば、ただ『永』という字をひたすら書くだけなのだが、それだけであらゆる書き文字が上達するという魔法のような練習法なのだ。永の字を一日に百回、書く。わたしはそれを、もうかれこれ一カ月近くつづけている。

 わたしが酒を頼まなかったのは、無意識のうちにこの日課を意識していたせいでもあったらしい。酒が入ると筆の運びがおかしくなるから、自制するのは当然のことなのだ。


 本来なら半紙に筆で書くのが正式なやり方だが、出先ともなると、使う道具が変わるのはやむを得ない。まさかこんなところで半紙を広げるわけにはいかないし、ノートに筆ペンで書いてもまったくの無駄ということはないはずだ。それに筆ペンは速乾性のインクを使っているので、はやく書けるという利点がある。あっという間に乾くから、書き終わったページをすぐにめくっても裏写りしにくいのだ。


 しかしただ書けばいいというわけでは、もちろんない。とめ・はね・はらいに気をつけて、余白とのバランスを考えながら、正確に書く必要がある。わたしは一文字一文字、集中しながらていねいに筆を動かしていった。


 それをとなりで見ていた軽薄そうな男がいった。

「こう言っちゃなんだけど、あんた、えらく下手だね」

 反対側で見ていたサングラスの男が呼応するようにいった。

「うちの小学生の娘のほうがよっぽど上手い」

 うしろを通りがかったボーイがふと立ち止まって、わたしの背中越しにいった。

「十点満点中の二点」

 カウンターのなかにいるバーテンダーは、われ関せずというようすで、ひたすらグラスをみがいている。


 わたしはいいかげん頭にきて、「なんだとこの野郎!」と悪口を言ったやつらをぶん殴りたい気持ちだったが、もちろんそんなことはしなかった。書は精神の修行でもある。いい書を書くためには、落ち着いた心が必要なのだ。無心。平常心。静かな心。それに午前零時まで、もうあまり時間がない。


 そもそもバーカウンターというのは、筆を使うには高すぎる。いつものような正しい姿勢で書くことができず、自分でも仕上がりには不満があった。出来は、いつもの八割というところだ。

 しかしそんなことをいちいち言い訳してまわるわけにもいくまいし、ぐっとこらえて永の字を書きつづけていると、まわりの音が小さくなり、だんだん世界が透明になっていくような気がした。




(了)

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