吾輩は猫のオブジェである

猫田パナ

吾輩は猫のオブジェである


 吾輩は猫のオブジェである。日本ではケンジントンキャットとよく呼ばれている。イギリスのウィンスタンレイ社の小さな工房で生まれた。


 吾輩は陶器のオブジェなので動くこともなくニャーニャー鳴いたりもしないけれども、ガラス製の目で人々の様子を眺め続けてきた。

 吾輩の目は特殊な作りをしていて、どの角度から見ても人を目で追っているように見える。いつでも人と視線が合う作りになっている。

 その上、手作りのあたたかみがあり、かわいい。だからある日、イギリス旅行中だった水上(みなかみ)に一目ぼれされた。


「おお、なにこれ。すごっ」


 水上は吾輩の目の前を左右に動き回り、吾輩の目が彼をどこまでも追いかけ回すことに喜んだ。

 彼は吾輩を即決購入した。そして飛行機に乗り、吾輩は日本へやって来た。


 水上は、髪が赤くて長い。いつも派手な柄のシャツを着てサングラスをかけている。部屋でインドのお香ばかり焚いているせいで髪にも服にもその独特の香りがこびりついている。怪しさの塊みたいな人間だ。  

 だから電車に乗っても街を歩いても誰も近寄らないのだと、前に水上は得意げに語っていた。

 部屋にいる時は大抵、スウェットの上下を着ている。外に出かける日以外は、部屋着で過ごす。

 部屋には水上が世界中を旅して買ってきた土産物の奇妙なオブジェがあふれていて、そのうちの一つとして、吾輩は棚に並べられた。


 水上は好奇心旺盛な人間で、良さそうだと思うとすぐに物を買ってしまう。


 今年の冬、彼は電気暖炉を購入した。LED電球のデジタル表示で暖炉の中で薪が燃える様子が再現され、遠赤外線ヒーター機能もついている。


「ほんものの暖炉が置ければいいけどさ、うちは置けないからな。でも薪が燃えている音もパチパチ鳴っててリアルだし、結構いいかな。結局オイルヒーターもつけないと、部屋は全然あったまんないけど」


 水上はなぜか、たまに吾輩に向かって話しかけてくる。よく目が合うからかもしれない。

 それに対して吾輩はうなずくことも返事を返すことも、ニャーと鳴くこともできない。

 でも心の中で返しておく。

(まあいいんじゃない? いつも頑張ってるから、自分へのご褒美ってことで)

 正直吾輩にとって、大抵のことはどうでもいい。

 水上がいい顔してれば、それでいいんじゃないかと思う。


 水上は毎日パソコンという機械を指でカタカタ打ち鳴らし続けている。それが水上の仕事らしい。

 そうすることによって一体人類にどういった利益をもたらすものなのか、吾輩にはまるで想像もつかない。

 だが一日中椅子に座ってなきゃだし、たぶん難しいことでも考えているんだろう。たまにしかめっ面をしている。

 吾輩は置物の猫として生まれて、本当に良かった。なにもせずにただ世界を眺めていればいいだけだ。もしも水上のように生きなければならないとしたら、結構めんどい。


 水上は派手でイカレてそうに見えて、実は几帳面で神経質な面がある。

 大体朝起きると決まってトースターで8枚切りの食パンを二枚カリカリに焼き、目玉焼きとサラダも作る。

 昼食や夕食にはパスタやカレーも作る。

 水上はコーヒーと紅茶とチャイと濁ってるタイプのリンゴジュースとビールと炭酸水が好きだ。


「俺、最近気づいたんだけど水分に金をかけるたちみたいなんだよね。別にたいしたもの食ってないのに、エンゲル係数めちゃ高いわ」


 吾輩にそう話しながらスパイスを小鍋で煮込み、そこに紅茶、牛乳、砂糖を加えていく。

 スパイスのいい香りが部屋に充満する。吾輩は水上がスパイスカレーを作る時とチャイを作る時の部屋の匂いが大好きだ。



 吾輩が水上の部屋に来て、もう十年程が経ったようだ。

 だがこの部屋には誰も人が遊びに来たことがない。

 水上の生活はほぼ水上だけで完結している。

 水上は水上のためだけに買い物に出かけて必要なものを買ってきて、水上のためだけに料理をし、水上のためだけに働く。

 水上の、水上による、水上のための生活。


「外じゃ、心が壊れていく病気が流行ってんだ」


 水上は言う。

 みんなひんまがった盆栽みたいに性格が偏っちゃって狂気じみてるから、もう水上は人とは関わらないことにしたんだって。


「楽だよ、この生活は。好きなものだけに囲まれて、好きなことだけしてりゃいいんだ。お前のガラスの目と視線が合えばそれで充分だよ。世の中の他の誰とも、目が合う必要なんかないんだ」


 吾輩はなにも言えない。楽であることが一番重要なのかどうかも、吾輩にはわからない。

 水上が失敗しているのか、成功しているのかも、わからない。

 ただ水上がお気に入りのヴィンテージのティーカップに中国の武夷山で採れた貴重な茶葉で作られたという紅茶を注ぎ、その香りを楽しんでいる様子を見るのは、吾輩も好きだ。

 水上だけの世界を、吾輩も愛している。


 ある日、水上の部屋に見知らぬ人がやって来た。あんまり水上が物を買っては増やすので、いよいよ今住んでいる部屋には荷物がおさまりきらなくなったらしい。もっと広い部屋に移動するため、引っ越し屋に見積もりの依頼をしたようだ。


「そうですねぇー、このくらいの家具の量だと、本来十万円以上はかかってしまうのですが、もし今即決していただけるのであれば、特別に今回八万円でやらせていただきますよ」

「そ、そんな、今。今。決めないとですか。他でも見積もりをとろうかと……」


 長年人と関わっていなかったから、水上は人とうまく話せなくなっていた。


「今決めないと、八万では無理なんですがねえ」

「いや、だけど……やっぱり、今決めらない」

「本当によろしいんですか?」


 引っ越し屋は念を押す。

 彼は頭を抱えて悩み始め、どうしてもその場では決めきれなくて、結局一旦引っ越し屋を帰した。


「他にも見積もりとらないと。でも今決めればよかったのか……。なあ、どうでもいいよな。全部どうでもいい。本当に、クッソ、どうでもいいことだ……」


 吾輩に向かって笑ってそう言いながら、水上は胸を押さえて床にうずくまりはじめた。


 人間は、他人と関わるとほんのささいなことでも心が痛むらしい。そして心はどうやら、胸のあたりにあるらしい。


 水上が苦しそうに息を荒げ、横たわったまま涙を流すのを、じっとガラスの目で見つめ続ける。人間は皆、熱を帯びている。

 一方、吾輩の身体はひんやりとした陶器で出来ている。それをこんなに心地よく思ったことはない。水上も、ひんやりとしていられたら楽だったろうに。


 水上は吾輩をたぐり寄せ、頭を撫でる。

 そしてガラスの目を見つめる。

 吾輩のかわいさが、水上を苦痛から遠ざける。

 そう、そのために、吾輩はこの部屋に置かれ続けているのだ。


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