アイデンティティ

子どもの頃、35歳以降の自分の姿が全くイメージできなかった。当時大ヒットした『ノストラダムスの大予言(五島勉 1973)』によれば1999年7の月に人類は滅亡することになっていたので、無意識に35歳以降の人生など考える必要はないと感じていたのかも知れない。(あまり夢のない解釈をすれば、当時の私の周囲には30代~40代の人が少なかったので、いわゆる「ロール・モデル」の不在が原因のようだ)


「中年」の自分がイメージできなかったせいか、15歳頃の私の人生の目標は「バラ色の老後」になっていた。高校への通学路を自転車で「暴走」しながら「バラ色の老後、バラ色の老後・・・」と繰り返し呟いていたのを今でもはっきりと覚えている。40年余り経った現在でもその目標設定は変更されたことがない。因みに、私にとっての「バラ色の老後」とは、人生を終える最期の30秒間に走馬灯のように我が人生を振り返ってみて「よかった」と思えるような生き方である。とても大雑把で達成の方法も具体的な計画も何もない「目標」である。


中学入学と同時に「パラダイス=しまなみ」を脱出して「四国本土」に上陸し、いくつかの偶然と幸運に恵まれて順調に滑り出したように思われたので、とりあえず「ノーベル賞をとる」ことにした。典型的な日本人であった当時の私は、「ノーベル賞」と「オリンピック」と「国連」に対して盲目的に尊敬の念を抱いていたためでもあるが、振り返ってみると、科学の力で「世界を変えたい」と思っていたのである。(このような発想も、大阪万博と手塚治虫漫画の影響が大きいように感じる。オリンピックと国連に関しては、「宇宙人」の世界で、私個人にとってはテレビの画面を通して鑑賞する別世界のように感じていた)


少なくとも、中高生時代の私にとっては、「オリンピック」や「国連」に比べれば「ノーベル賞」の方が実現可能性が高そうに思われたのである。「どうやって」ノーベル賞をとるかは全く白紙で、当時最も夢中になっていた数学には(フィールズ賞はあるが)ノーベル賞がないことに気が付くのも随分後になってからである。


進学先を決めるにあたっても、「バラ色の老後を実現するための通過点としてのノーベル賞をとるための更なる通過点」としての大学であったので、東京と京都で大いに迷ったのであるが、最終的には1983年に開業した「東京ディズニーランド」が決め手になって東京の大学に進学した。(教養学部で幅広く学んでから進学振分けによって学部を選べる点も、私のように「ものを知らない学生」にとっては魅力であった)


大学での6年間も「順調」ではあったのだが、修士課程を修了した時点でノーベル賞プロジェクトも12年で「卒業」し(決して「諦めた」訳ではないが)、総合商社に就職することになる。(入学の動機が不純だったせいか飽きるのも早かったようだ) 入社直後の部内の自己紹介アンケートで「自分を一言で表現するならば」という質問に対して「地球人」と回答したのであるが、当時の私はビッグ・ビジネスを通して「世界を変えたい」と本気で思っていた。


その後も更なる偶然と幸運に恵まれて、「自分のやりたいこと」だけを追求して生きてきたように思う。一貫しているのは「バラ色の老後」を実現するために「世界を変えたい」という思いだけである。例によって、成り行きまかせで具体的な計画はほとんどないに等しい。


(子ども時代の私にとっては存在しないかも知れなかった)21世紀になり、世界秩序の「再構築」または「脱構築」の時代を迎えている。先のことを見通しにくい時代を生きる若い人たちにとって、学校の進路指導のように「絵に描いたような美しい志望動機や明確なキャリアプラン」は、(有用だと思う人もいるかも知れないが)私の感覚では「あまり長持ちしない」し「有害」でさえあるようにも思われる。


生命が「神様からの贈り物 (gift)」だとするならば、人生とは贈り物の包装を一枚ずつ開いていって「自分とは何者か」を確認していくプロセスそのものかも知れない。最後の一枚を開けた時に何が見つかるかは私にもわからない。


2022.4.20

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

ひとりごと 無名の人 @Mumeinohito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る