散歩・セレンディピティ・人生

「学びとは知的散歩である」という言葉はある意味で矛盾に満ちているように思われる。


「散歩」とは、本来何の目的も計画もなく「成り行き任せ」で「行き当たりばったり」なものだ。(そうでなければ、「歩行訓練」「遠足」「競歩」「ダイエット・プログラム」の類 (= 明確な意図・目的を有する立派な活動) になってしまうので、ここでいう「散歩」とは似て非なるものである。) その一方で、「知的」というからには、ホモ・サピエンスの大脳皮質の高度な活用が前提されているはずなので、何らかの「思考・思索」を伴うはずである。


この言葉の意味を理解する上で、セレンディピティ(serendipity)という概念が参考になるかもしれない。知の巨人外山滋比古先生の著書の一つである『乱読のセレンディピティ』をご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、「何の目的もなく、気の向くままに片っ端から読み漁ることによって、当初は想定されていなかった (あるいは想像することさえ難しかった) 思いがけない「掘り出し物」が見つかることもある」という風に理解するとわかりやすいだろう。(因みに、Oxford Dictionary of English によると、'serendipity' の語源は、Sri Lanka (アラビア語で Serendip) の3人の王子を主人公にしたペルシャ語のお伽話にあるそうだ。(1754年 Horace Walpole の造語))


現代の学校教育では、何であれ「目標を設定」し、実行可能な「計画を立案」し、それを「忠実に実行」し、さらに「振り返って反省」することが暗黙裏に想定されているようである。(楽しい?) 修学旅行でさえ、今どきの子どもたちは、予め「訪問先について予習」して「自由行動中の行動まで綿密に計画」するらしいことを知って、私のように「『修学』を建前にして友人たちとの想い出をつくるための非日常的な『旅』」だと勘違いして3回の「修学旅行」を「楽しく修了」してしまった不心得者は、恐れ入る (入谷の鬼子母神?) ほかない。


科学的な研究には、「演繹的」な方法と「帰納的」な方法とがある。演繹的な方法とは、大雑把に言えば、少数の証明された(あるいは、証明不要の)前提条件から出発して「気の利いた新たな真理」にたどり着く方法である。これに対して、帰納的な方法とは、試行錯誤 (実験と観察)を繰り返す中で「思いがけない真理(らしきもの?)」を発見してから、後付けで「もっともらしい説明」を「作って」他人にも納得してもらう方法である。(国語や数学の試験でこのように野蛮かつ下品な説明をしても「不正解」になるはずなので悪しからず。) 私の尊敬する恩師たちの非公式見解によれば、「演繹的」なアプローチで到達可能なのは「わかり切ってほぼ自明なこと」が多く、「帰納的」なアプローチでなければ「論理を超越した画期的発見」には至りにくいそうだ。前者の方がエレガントで賢そうな感じがする (?) のだが、実は、一見泥くさい (ダサい?) ように思われる後者の方が遥かに強力であり、豊穣な新天地への近道であることも多いのだ。(もちろん、何事にも例外は存在するのであるが、ここで言いたいことは「統計学」「打率」の問題である。)


散歩の話をしているうちに少々「遠回り」してしまったようだが、問題は「人生に目的は必要か、計画的であるべきか、演繹的アプローチはどこまで有用か」ということだ。少なくとも、私の人生はそんなものとは対極に位置しているし、今さら「明確な目的のために計画的・演繹的に生きる」ことなどできるはずもない。(それこそ自己否定になってしまう!) 旅行前に「完璧な予習」などしてしまったら、若い頃の私が感じた「思いがけない出会いや感動」も、「限られているが故にキラキラしている時間を少しでも掬い取って記憶に刻もうとする悪あがき」も、どこかへ消えてしまうような気がする。人生に目的は不要だ。この世界は「不思議」に満ちており、「生きることそのもの」が beautiful であるからだ。



Learning is instinctive wondering and intellectual wandering.


Having been born, wonder and wander!


2022.10.10

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