道徳と哲学

有名な先生の動画を拝見していたら「道徳とは仲間と同じように行動するルールである」という趣旨のことをおっしゃっていて、(私の大雑把な理解がどこまで正確かは自信がないが)面白い視点だと思った。


問題は「仲間の範囲」というパラメータをどこまでに設定するかということになるので、「道徳」にも様々なレベルが存在することになる。周囲から見て「悪人」にしか見えない人々だって彼らなりの「道徳」に従って生きているのかも知れない。


そう考えると、しばしば全体主義的であるといって目の敵にされがちな「日本社会特有の同調圧力」も「生物学的には自然」なものかも知れないし、「日本人という仲間」の中では「極めて道徳的」な考え方・行動様式であるということになる。そこに一定の生物学的合理性があるからこそ「わかっちゃいるけどやめられない」のかも知れない。


21世紀になりSDGsが(日本人を含む)人類共通の課題になってきた現在、我々日本人が「仲間内の論理」を今後も貫徹できるか否かが問われているのだと思う。個人的には、「一万円札の人」には申し訳ないが、そろそろ「脱亜入欧」的発想を卒業するべき段階であると強く感じる。(正確には「脱亜論」と「脱亜入欧」というわかりやすいスローガンとは別物であり、ご本人の意図しない方向に世の中が流れていったようである。)


「アジア人」という言葉に「日本を除くアジアの人々は」というニュアンスを込めたり、(紛れもない黄色人種であるのに)「日本人は名誉白人である」と言われて喜んだりするのは20世紀までの過去の遺物にしたいものである。


昨今のウクライナ紛争をめぐる(「条約難民?」ではない)「避難民」の方々に対する日本政府の対応と、スリランカ国籍の知性あふれる女性に対する法務省の非人道的扱いやミャンマー(ビルマ)におけるウクライナ以上に非人道的状況に対する日本の政財界の無意識の(意識的ならば犯罪的でさえある)ダブル・スタンダード(二重基準)とを見比べたとき、「相変わらずだなあ」と嘆息するしかない自分が「日本人として」情けなくなる。


結局、道徳とは「集団的問題」であって「個人的問題」ではないのだ。昔、小林秀雄が「精神的自由(freedom)を集団的に理解することはできない」と論じていたが、「社会」というものも「個人」の集合体であるのだから、21世紀的諸課題の真の解決のためには、それらを「個人的問題」として捉え直す知的努力が求められているのではなかろうか。


個人的問題である精神的自由(freedom)を追求するための手段としての「哲学」が今ほど必要な時代はないように思われる。


2022.5.8

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

落穂拾い 無名の人 @Mumeinohito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る