後篇

 

 警戒されると想って今まで云い出せなかった。ごめん。でも未婚で独身なのは本当だよ。男が独りでいると休日が寂しくてさ。友だちに誘われるままに競馬に。

「幾らあるの。借金」

 躊躇いがちに女は訊く。最初はすぐにATMから降ろせる金額。徐々に新しい借金が発覚していく。

 戻しておけば分からないよ。君は世間知らずだから知らないだろうけど、日本中の銀行で行員が同じことをやっているんだ。だってそうだろ。家や車のローン、家族の急病。ちょっと借りて、後でちゃんと返しておけばいいだけだよ。利子もつかない。

「防犯カメラがあるわ」

 自信満々の男に気圧されながらも女は抗弁する。

「一円合わなくても残業して全員で探すわ。違算が出れば本部に報告を上げることになっているからすぐに発覚してしまうわ」

「一応ね。でももっと上の役職の人はどうかな。行員を帰した後、やってないとは云えないだろ。大丈夫、大穴を当てたら全て片付くんだから」

 言葉巧みに追い詰められた女は、男の為に貯金を切り崩し、身近な人から金を借り始める。それはすぐに闇金になり、そして。


 わたしをこんなにも愛してくれる人なんかいないわ。

 女の頭にはすでにそれだけが渦巻いているのだ。本人は理性的にブレーキを踏んでいると想っている。このくらいなら大丈夫。

 時々不意に途絶える連絡。当たり前になった金の無心。

 今までの彼女はこれくらいのことは好きな男の為にやってくれたよ。ぼくのことをもう嫌いになったのなら仕方がないね。君にとって負担になるのなら、残念だけど別れよう。これ以上苦しめたくないから。

 心理的に虐待されていても、女はそれに気づかない。

 わたしを愛してくれる人は彼の他に誰もいないわ。これは困っている彼の為。根はいい人だもの。この人は、わたしが助けてあげなければ。


 

 子どもの頃からの貯金。学生時代のアルバイト代と就職してからの貯蓄。お金を貯めるのが趣味だった。実家暮らしだから出来たことだ。

 一千万。

 は、流石に無理。

 四百万ならぎりぎり。今あるわたしの財産の全て。

「確認して」

「ありがとう。本当にありがとう」

 行員研修で習う言葉、『現金その場限り』。現金は授受したらその場でしっかり確認すること。移管してから不足が発覚しても、最初から足りなかったのか、後から無くなったのか、分からなくなるからだ。手許が映る防犯カメラが配置されるようになった今でも徹底的に頭に叩き込まれる。受け取った金は全てその場で確認。

「あれやって。数えるの」

 彼がせがむので見せてやった。繰り返し練習した札勘は、今ではよそ見しながらでも出来るようになっている。

 扇子を拡げること四回分。彼は大喜びした。そしてわたしの四百万円を持って姿を消した。

 死んでしまいたい今すぐに。

 死んでしまいたい。

 彼は柱に頭をぶつけていつもそう叫んでいた。声なき声で。教室のキモオタ君。


 今にして想うがキモオタ君は軽度の知恵遅れだった。わたしから四百万円を奪っていったアニメおたくのことではない。教室のキモオタ君のはなしだ。標準的な知能指数に合わせて組まれている基礎教育課程の中からも落ちこぼれてしまう小学生。

 けれど、当時のわたしの眼にはキモオタ君を取り囲み、勝手に机の中やランドセルを漁り、大声で揶揄う子どもたちのほうが、よほど発達に難のある障碍者に見えていた。ほとんど猿だ。

 残忍な男子たちが一番愉しんだのは、揶揄われたキモオタ君が奇声を上げて発狂することと、教室の壁に自傷行為のように、何度も自分で頭をぶつけることだった。

 がつん、がつん。

 荒れた教室には生贄が必要。

「またキモオタが発狂した」

「先生、キモオタ君に暴力を振るわれました」

 何かあればいつもキモオタ君のせいにされた。遊園地のゴーカートが柵に衝突するようにして、キモオタ君は脳天を壁にぶつける。

 死んでしまいたい。

 熱い涙をぼろぼろ流してキモオタ君は壁に突進した。何度も。その様子を男子がはやし立てて笑う。キモオタ君に出来ることは、幼稚園児なみのお絵描きと、えんぴつを噛むこと。何度教えても間違いだらけになる掛け算と割り算。

 或る日、クラスの男子全員がある男の子の家に招かれた。普段は誰からも誘われないキモオタ君もその日は呼ばれた。その家では、母親が夕食のカレーを作っていた。

 キモオタ君は台所に行って、「カレーだ」と鼻をひくつかせた。

「食べる?」

 その家の母親が訊くと、「うん」と云ったので、母親はキモオタ君にカレーをよそい、スプーンを添えて皿を差し出した。キモオタ君はおかわりまでした。

 これが大問題になってしまったのだ。

「行儀が悪い子だと俺のお母さんが、かんかんになってるぞ。二度と家に連れて来るなってさ!」

 父兄にまでこの話が行き渡った。カレーをキモオタ君に出した母親が率先して云い触らして回ったからだ。正義の立場から注目を浴びる機会を虎視眈々と狙っているお騒がせ女。

 もちろん困ったわよ、でもだってねえ、こんな近くから食べたいって云われたら断れないじゃない。人の家の夕食を漁るような子がうちの子のクラスにいるなんて想わなかったのよ。あなたは想う? 想わないわよねえ。この話、知らない人がいると困るからみんなに教えてあげてね。


 信じられないような人間がこの世にはいる。

 キモオタ君のことではない。

 わたしは今でも疑っている。あの母親は注目を浴びるヒロインになる為に、わざとキモオタ君にカレーを与えたのではないかと。さもなくばああも嬉しそうに張り切って、四方八方に被害者面で云い触らして回るだろうか。

 あら何がいけないの? わたしやうちの子は常に正直者で完璧な正義の人であり、地域の有力者とも親しい人徳者なんですからね。


 その態度は子どもたちにも伝播した。

「みんなキモオタには気をつけろよ。何か盗まれるかもしれないからな」

 死んでしまいたい。

 がつん、がつん。

 公園でも遊び相手がいないキモオタ君はその日、お母さんが用意した新しい靴下に履き替えて家にお呼ばれに行ったのだ。遊びに行ったものの他の男子はみんな固まってゲームを始めてしまい、幼稚園の子が観るようなテレビ番組にしか興味がないキモオタ君は退屈して台所に行ってみた。

 するとそこにはキモオタ君の相手をしてくれる大人がいて、カレーをくれた。美味しかったのでおかわりをした。以上。

 キモオタ君からすればそれだけのことだった。わたしの両親もわたしと同意見だった。

「ああ、あのお母さんね」

 わたしの母親はいろんな含みを後ろに隠して呟いた。後で父親と会話しているのをきいてしまった。

「噂好きで口が軽く、誰からも信用されてないわ。でも何か云うと誤解された被害者になって地域一帯にわたしは悪くないですよね? と都合のいい話に変えて触れ回るお母さんだから厄介なの。文句があると、すぐに徒党を引き連れて居丈高に家に来るそうよ。今もどこかの女性に粘着して、舌なめずりをしながら何か叩けることはないかと監視活動をしているっていう話だから、まともな人は距離をおいているわ」

 多くの良識ある母親たちは動じなかった。しかしこの一件は天下に号令をかけるようにして吹聴する母親の行動力と迫力もあいまって轟々たる批難を巻き起こし、ここぞとばかりに男子がキモオタ君を攻撃し、卒業まで無視する正当性を与えてしまった。

 キモオタ君のことを回顧する時、まっ先にわたしの頭に浮かぶのは、壁に頭を打ち付ける音と、キモオタ君の顔に現れていた引き攣りだ。

 ぴくぴくと片側の頬が痙攣するのだ。

 どうでもいいような落ち度を男子から執念深く追及されている時にそれは現れた。頬が痙攣するのに合わせて、キモオタ君は、ぱちぱちとまばたきをする。口は開いている。何かを云おうにも彼の頭からは適切な言葉が咄嗟に出ない。

 途方もない失敗をお前はしたんだぞ。迷惑をかけたんだぞ。お前のせいで先生もクラスのみんなも困ってるぞ。どうするんだよキモオタ。

「みんなに謝れよ嫌われ者。お前さえいなければいいのにな」

「私たちは困ってなんかいないわよ。あんたたちのほうが迷惑で幼稚。異常はどっち」

 聡い女子が男子に反発しても、彼らはお構いなしだった。

「ばからしい。帰ろ、帰ろ」

 キモオタ君と男子を教室に残して、女子は下校した。


 

 あの夜、わたしにパンプスで蹴られた彼は、口を半開きにしていた。彼に分かるのは仲良くなった女の子の不興を買い、睨みつけられているということだけだ。対処方法すら頭に浮かばず、ぽかんとしていた。きっと子どもの頃からいつもそうなのだ。わたしの見ている前で、その頬が引き攣り、顔がひき歪む。

 キモオタ君が泣いている。がらんとした教室。わたしは上履きで廊下を通り過ぎる。低学年で落ちこぼれた彼は私たちとは違うのだ。

 愛情ではなく罪悪感だった。それともやはり母性本能とやらのせいだろうか。分からない。

 あなたはどうなるの。あなたは、これからどうやって生きていくの。

 この調子では眼につく弱者が全員キモオタ君になりそうな勢いだったが、せめて眼の前の彼だけは。

 行ったことがないというので関東と関西の大型テーマパークにも連れて行った。銀色の風船を手に跳ね歩き、子どものようにはしゃいでいた。いいところも探した。優しいお父さんにはきっとなれる人だろう。わたしが手にしていたソフトクリームが傾いて崩れそうになっていたら、すぐに取り換えてくれるのだから。

 莫迦な女がまた一人。

「そのうちの一人に、まさかわたしがなろうとは」

「独り言が口から出てるわよ」

 同期がハンドバッグからハンカチを取り出してわたしの涙を拭ってくれる。きれいに巻かれた彼女の髪。ハンカチはぎっしり刺繍のされた汕頭スワトウだ。

「まさかわたしがあんな男と付き合い、あんなことをするとは」

「自分の貯金が無くなっただけで犯罪を犯したわけじゃないでしょ。しかもこれきりだと云い渡してそいつと別れたのだからよくやったわ。落ち着きなさい」

 借金があるんだ。

 予期していた。始まる前から幕引きを予告されていたように。無言で見つめ返したわたしに対して、彼はぱちぱちと哀しそうにまばたきをし、その頬は引き攣った。

 壁に頭を打ち付けている男の子と、それを見ていた放課後。



[了]

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「わたしのキモオタ君」https://kakuyomu.jp/works/16817330658174204935

「わたしのキモオタ君Ⅱ」https://kakuyomu.jp/works/16817330658320130009

※本作とは関連していません。




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わたしのキモオタ君Ⅲ 朝吹 @asabuki

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