わたしのキモオタ君Ⅲ
朝吹
前篇
札勘とは、札勘定の略だ。行員はお札を扇子のように広げて端から四枚飛ばしで数えていく。銀行によって多少は違うが、五枚飛ばしにすると頭で考えてしまうから通例は四枚ずつだ。入行した新人はまずこれを練習させられる。
紙幣が変形するのではないかと想うほどの勢いで手品のように札束を波打たせ、見る見るうちに間隔を僅かにずらした扇状にする。なかなかの巧みの技なので、身近に銀行員がいたらぜひ一度眼の前でやってもらうといい。年季のはいった行員にもなると、繁殖期の孔雀の羽根のように紙幣を団扇状に見事に拡げ、瞬く間に数え終わり、最後の一枚をぴしっと弾く。
勘定もぴったり合う。まず間違えない。
紙幣を数える機械が導入されて随分と経つが、それでも行員にとってこの札勘は基本中の基本といわれ、手首や指が痛くなるほど練習する。
「子どもが描くと煉瓦みたいになってるけど、帯封のかかった百万円って、人が考えるよりも薄いのよ。ポケット・ティッシュくらいの厚み」
銀行員ならば誰でも知っている。煉瓦になるのは一千万だ。
「帯封とは、札束を束ねているリボンみたいな紙のこと」
「へえ」彼は上の空で返事をした。
その百万円の束を四つ。
しがない銀行員のわたしは彼のために工面した。
不意打ちの口づけは、噛まれるのではないかと危ぶむほどの勢いだった。
「悪いけど」
口端から垂れたよだれを指で拭い、わたしは腰に手を回していたそいつを蹴った。
「えっ」
心の底から愕いた顔をして、パンプスで向こう脛を蹴られたそいつは後ろに引いた。都心部の夜の公園。近くの高架橋を光の蛇のように電車が過ぎる。
「さよなら。逢ったばかりでこれはない」
がっつくなよ非モテ童貞おたく男が。
十年に渡りシリーズ化していたアニメの最終章のプレ公開日だった。チケットが当選したわたしは劇場に向かい、終演後、感無量で外に出て、同じ劇場から出て来た人たちと口々に感想を述べあいながら流れで居酒屋に行き、二次会で解散、たまたま同じ路線だった彼と駅までの道を歩いていた。
わたしは彼と気が合うような錯覚に陥っていた。当然だ。同じアニメを愛好しているのだから一応は話が弾む。だけどこれはない。
彼を置き去りにして帰るつもりだった。わたしの気が変わったのは、街灯の真下にいる彼が濡れた犬みたいな顔をしていたからだ。口を半開きにして衝撃と惨めさを隠そうともしていない。身寄りのないおじいちゃんみたい。
古びたアパートの四畳半で、毛玉だらけのすりきれたズボンで焼けた畳の上に正座してすわり、仕事もなく行政を頼る知恵もなく、頼ったところですげなく支援を断られ、わずかな硬貨を前にして湯呑茶碗についだ水道水でも飲んでいる。そんなこいつの末路が見えるようだった。いや、もっと酷いかも。廃材をかき集めたブルーシートのテントで、ごみ集積場から拾ってきた汚い布団にくるまって寝ているかも。
そこまで想像した。想像力過多なのは認める。
苦い気持ちになっていたそんなわたしに、とどめがきた。
キモオタ君。
衝動的にわたしは彼の頭を胸に抱いていた。
ずるいよ、キモオタ君。
母性本能というものを昔から理由もなくわたしは毛嫌いしているが、まさにその時、それに近いものが発動したとしか想えない。
無論、彼はキモオタという名ではないが、ここでは彼のことをキモオタ君と呼ぶ。
キモオタ君はわたしの胸に顔をすりつけてきた。スカートごしにわたしのお尻をさわりながら。
「男って残酷ね」
「女だって残酷だよ」
傍目にはふしぎな組み合わせの女二人だろう。一人はどうみても水商売だ。わたしの眼の前にいる。
「でも、女にはなかなか出来ないわ」
同期は綺麗にネイルをした指先を泳がせ、珈琲茶碗を口にはこんだ。老舗喫茶店に流れるクラシックは備え付けのノートに客がリクエストを書いていく方式を創業以来、頑固に守り続けている。今はシベリウスの交響曲第五番。音だけを聴きたい常連はスピーカーのある奥の席を陣取っている。
セーターとジーンズの姿のわたしは砂時計の砂が落ち切るのを待って、ティーポットカバーを外し、茶碗に紅茶を静かに注いだ。
「若い男が何かでやけになってお店に来ても、ホステスたちは心配して云うもの。そんなにお金を使っては駄目よ、ボトルなんて無理しなくていいのよ、この店は高すぎるわ。そこらをうろついているホストみたいに、頭の弱い女の子を夢中にさせて風俗に沈めるような真似を、女はやらないわ」
行員三年目にして、トーク力と美貌を生かし夜の世界に華麗なる転身を遂げた同期は、この後は同伴があるのだと云って化粧室で口紅を引き直すと、席に戻って来てハンドバッグを手に取った。
「端数が足りないから両替してくる」
「今度でいいわよ」
化粧室に立つついでに、いつの間にか伝票を手にしていた彼女は二人分の支払いをカードで済ませていた。自分の分のお茶代を渡そうとしたが、あいにくと硬貨が一枚足りなかった。お金に対しては何かと神経が立つ。職業病だろう。
喫茶店から一筋向こうは歓楽街だ。夕方になるといかにもな風体の人間が通りに増える。
「夜の街をうろつく雄たち。あれでも闘争本能を解き放っているつもりなのよ。女の子に貢がせている時点で、ホスト同士で競う売上人気ランキングもなにもあったもんじゃない。大嫌いよ」
「ねえ。ホステスなんて辞めたら。昼夜逆転生活は身体に悪いよ」
「ほら。優しい」
よい香りをさせて、白いスーツ姿の同期は一輪の蘭のように街に消えていった。入行した時から群を抜いて物覚えが良くて、札勘もそれを片手にフラメンコでも踊りだすのではないかというほどに綺麗な扇形をつくって素早く幾らと数えていたが、「あちらの方が面白そう」と自分の適性を自覚するや否や彼女は躊躇いもなく銀座の高級クラブに行ってしまったのだ。最近では客筋に政治家がいるような、さらにお高いクラブのママからも引き抜きの声がかかっている。
喫茶店を出た。午後の街は檸檬色の水槽の中のように揺らいでいる。
着信音。その場でキモオタ君に返信をする。
『わたしも今お店を出た。すぐに行くからそこで待ってて』
待ち合わせ場所の大きなビルの一階の本屋さんでキモオタ君は立ち読みをしながらわたしを待っている。これから映画を観て、ご飯を食べに行くのだ。わたしの財布で。
「彼は正社員だけど、お給料はわたしよりもアルバイトよりも、少ないかも」
「憶えておいて。尽くす女なんて美徳ではなく、不幸なのよ」
行員研修中に仲良くなり、職種は大きく異なってしまった今も付き合いのある同期。
わたしは、元銀行員の彼女に相談していたのだ。「相談を持ち掛けてきて考えを変えた人など見たことがない」と厳しいことを云われながら。
古い体質の銀行だけかもしれないが、女子行員は寮に入るか、実家から通勤することが前提で採用される。実家だからどうなのだという意見も無きにしも非ずだが、隙だらけの女の独り暮らしよりは幾分かましだろう。それだけ、大金を扱う女性行員を誑かして犯罪の手先にする男が昔から絶えないということだ。
たとえ家族がいてもどうかすると人は虚しさ、寂しさに襲われる。そこを狙われる。
「男と付き合ったことある? 君はいい奥さんになりそう」
黒髪をひっつめて結んでいるような真面目な女子行員が狙い目だ。銀行員という堅い職業ゆえにか、日常を華やかにしてくれる王子さまの登場に、簡単に落ちてしまうのだ。
これについては新入行員研修でも講師を通して注意を受けるが、毎年のように全国の支店で『変な男』に引っかかる女が出る。
好きだよ。逢いたい。お仕事お疲れさま。早く一緒に暮らしたいね。
降り注ぐ優しい言葉と、まめな連絡。
莫迦女。そう想うだろうか。しかしこれが効くのだ。ラテン系ばりの甘い言葉とやや強引なスキンシップを湯水のように浴びる経験など、現実では味わったことのない女の方が多いのだから。
そして或る日男は云い出す。借金があるんだ。
》後篇
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