†*☼...5...時を越えて墓前に誓う...(結)

 時の流れから取り残された元女王は、侍女も連れずに外に出た。

 宮殿の南は政務舎や研究施設が並び、東は王族の居住宮で、西側は使用人の生活区域だ。

 そして北は、死者の庭。


 歴代の王族が眠る墓地は年じゅう花で満たされている。遠くで機械仕掛けの庭師が動いているのを横目に、花園を進んだ。

 あたり一面に藍色がさざなみ揺れて、まるで海。

 本物を見たことはないけれど。ヴェーレンは内陸国、海岸なんて絵でしか知らず――彼の故郷を訪ねたこともない。


 どんな気持ちだったろう。祖国に捨てられ、異国の地を血で染めて、そのまま葬られるのは。

 やがて比較的新しい墓石を見つけた。よく磨かれた表面に、その名が刻まれている。


【良き夫にして良き父

 ザイワン・ヘジ=スラハト・タナックシャム=ヴェーレンティア】


「……、何よ」


 ぺたりと触れる手よりも白い石材。

 違う。あの人の肌は黒かった。


「冗談じゃないわ……何が『良き夫』よ」


 違う。あの人の身体はもっと温かくて、こんなつまらない文字ではなく、不思議な刺青に飾られていた。

 妖しく蠢くあの紋様は何かの呪文だったに違いない。彼が夜ごとフィルガレーデを堕落させたのは、奇妙なほど逆らえなかったのは、きっとそのせい。


「ザイワン。ザイワン……ザイワン……!」


 違う。

 ――あのころ私は何と言ったっけ。嘘が吐けない性分、ああ、それこそが一番の嘘じゃないの。


 本当のことなんて、一つも言わなかった。


「あなたは良い夫なんかじゃなかった。私、怖かったのよ……あなたが優しくて……どんなに冷たくしても、いつも薄ら笑いで怒りもしないから、何を考えているのかちっともわからなかった!」


 墓石を、すがるようにして殴るたび、ぼろぼろ零れていく。硝子のように透明な涙と、心を覆っていた鎧とが。


「一度も……愛しているなんて言ってくれなかった。夜はあんなに抱いたくせに、一言だって! だから……、ッ苦しいのは私だけなんて、そんなの、あんまり惨めじゃないの……!」


 喉が痛くなるほど叫んでうずくまる。むせるほど花の香りがした。

 敢えて墓地に育つ植物だ、何か涙を誘うような謂れがあったはず。けれど大昔の逸話なんて今はどうだっていい。

 フィルガレーデは王族だ、彼女自身が歴史なのだ。この悲嘆をこそ語り告げ。


 鉄の冠で傷は隠せない。硝子の剣なんかで、この痛みは殺せない――。



「――やっと本音が聞けた」



 くしゃりと芝を踏む音に紛れて、声がした。するはずのない人の声が。

 顔を上げたフィルガレーデが振り返るより先に、その人が後ろからそっと彼女を包む。艶消しのにび色をした硬い腕が、きりきり甘く軋みを上げて、元女王の細い身体を抱き締めた。


「え……ッ、あなた……」

「俺だよ、フィー。君の夫で、その墓の主さ」

「生、きて……どういうこと……!?」

「ペレスに聞かなかった?」


 妙な体勢のまま、彼は語る。


 襲撃テロによりザイワンは瀕死の重傷を負ったが、当時まだ開発中だった生体機械化技術を駆使し、なんとか一命を取り止めた。――それが最初の人体実験で、今日の魔導医学の発展に貢献している。

 しかし生きていれば再び命を狙われるだろう。自分はともかく、二度と幼い息子を巻き込むわけにはいかない。

 それで表向きは死んだと発表した。事実を知るのは王族と一部の宮殿関係者のみで、以来この墓地に隠れ住み、庭師をしている。


「でも、もともと機械化実験には参加するつもりだったよ」

「……あなた、技術革新に関心があったの?」

「君の治療に関わる範囲でね。それに、君がいつか眼を醒ましたときに俺がいないと怒るだろうから」

「そんなことッ……」

「あったろ。まさに今。……いや、悪かった。君自身が本心を認める前に、俺が先回りして応えたら傷つくと思って……気を遣ったつもりが、逆に不安にさせたね」

「……結局あなたはお見通しだったわけ?」

「そうだな、具体的には君が枕を噛まなくなったあたりから……」

「もう! 本ッ当に無礼なんだから!」


 声では腹を立てながらも、身体は楽しげに揺すっている。そのたび生温い雫が鋼鉄の腕に落とされた。

 フィルガレーデは身を捩り、やっと今のザイワンに逢う。


 身体の大半は機械に置き換えられていた。わずかに面影を残すのは、半分だけになった顔と、首筋から覗く刺青の一部だけ。

 それでも、そこにいるのはザイワンだ。記憶にあるより少し老け、いつもの柔和な笑みに疲労を足して、それでも夜闇を照らす淡い月。

 夫は返す――フィー、それは太陽があるからだよ。二人で交互に大地を抱いている。


「私たちの子は立派になった。あなたが約束を果たしてくれたから」

「当たり前だろ。父親として当然の義務だ。……代わりに、五十年も母親を取り上げてしまったけど」

「……その埋め合わせは、これからしましょう。その前に」


 ザイワンの生身の側の頬に触れながら、フィルガレーデは囁く。


「ねえ、ちゃんと言って。あなたは?」

「もちろん寂しかったさ……こんな身体になったのは、生きて君の目覚めを待つためだよ」

「その心は?」

「愛してる。君と、君がくれた子を」

「……私もよ。心からあなたたちを愛してるわ」


 その言葉を互いに噛みしめるような五十年ぶりのキスは、蜜と錆の匂いがした。


 やっと夫婦になれた気がする。今日までひどい遠回りをしてきた。

 硝子細工の脆い女王は時を超え、王配は生者の世界を捨てて鋼鉄を纏った。もう年齢や国同士のいさかいに隔てられることもない。

 いびつでも、つり合いはとれている。


 いつかこの心臓が止まるとき、一緒にあなたの歯車を止めよう。

 この身体を燃やすとき、あなたの部品を共に砕かせよう。


 いずれその日が来るまでは

 健やかなるときも病めるときも

 互いを愛し、慈しむと誓う


 ――死が二人を分かつまで



 〚 了 〛

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硝子の剣 鉄の円冠 空烏 有架(カラクロアリカ) @nonentity

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