☼...4...渇きに溺るは花魚の業

 夜明け前、薄闇の中で目を醒ますと、久しぶりに太い腕の感触があった。

 ザイワンと寝床を共にすること自体いつ以来だろうか。最初のころに比べると胸板が薄くなった気がするし、心なしか肌艶も悪い。

 病のやつれを除けば十五の時分より美しく成長したフィルガレーデとは反対に、彼は健康な身で、着実に老いている。


 重い身体を無理やりひねって半身を起こし、初めて自分から夫に口づけた。


「……ん、ああ……おはよう、フィー」

「いつ来たの? 勝手に添い寝なんて、相変わらず無礼な人ね……」

「君はいつも俺の気遣いを曲解する。……で、何か話があるんだろ?」

「ええ……封印魔術の話を聞いたわ。ふふ、喜びなさい、あなたの計略に乗ってあげる」


 寝台の上で身を寄せ合い、互いに寝起きのかすれた声で囁き合うのは、あたかも睦言のよう。


「へぇ……その心は?」

「他に方法もないし……あなたより長生きできるなら悪くないわ。でも一つ約束して」

「ああ、ペレスのことだろ。……大丈夫。何も心配要らない」

「お願いね。……あの子に、愛していると伝えてちょうだい。何よりも大切に想っていると」

「俺には一度も言ってくれないね?」

「嘘は吐けない性分なのよ。あなただって人のことを言える?」


 最低限の灯りしかなくて、ザイワンの表情は見えなかった。相変わらず瞳だけが夜闇の中で輝いて、少し細められたようにも思うが、確証はない。

 いつもそう。何度も肌は重ねたが、心が通じたと思ったことは一度もなかった。

 知っているのはただ一つ、彼が力を求めているということ。ザイワンにとって価値があるのは、女王の夫、王子の父の肩書きだけ。


 それなら、フィルガレーデが欲しかったものはなんだろう。


「……これが最後かもしれないから、もう一つ頼みがあるの」

「珍しいね。なんなりと、女王陛下」

「抱いて」


 彼が面食らったように呼吸を止める。


「もう長いこと、あなたに触られていないわ……私をのが義務なんでしょう?」

「……病人が何言ってるんだ。負担はかけられない」

「今さらね。……あなたと触れ合うときは、いつだって苦しかったわ」


 ――与えられすぎて。

 嫌味のつもりだったその言葉は、口にする前に塞がれてしまった。




†……☼……†




 フィルガレーデが眼を醒ますと、傍らに見覚えのない初老の男がいた。

 頭に鉄環を載せ、わずかに浅黒い肌をしたその人物は、嬉しそうに目を瞬かせて言う。

 ――お久しぶりです、母上。


「ペルシュルツ、なの……?」

「はい。よかった、僕がおわかりになられるんですね」

「……息子を忘れたりしないわ。でも……ああ、立派になって」


 自分より老けた息子を見るのは妙な気分だった。

 何しろ最後に会ったときは、彼はまだ片手で数えられるほどの小さな男の子。それが今は白髪交じりの口ひげを蓄え、傍らには妃と子どもたち、孫まで。

 フィルガレーデはまったく歳をとっていないので、外見上は親子関係が逆転している。


 それだけ長く眠っていたのだろう。時代の変化は凄まじいものがあった。

 窓の外の景色も一変し、かつて飴色の煉瓦が並んでいた王都の半分ほどは、無機質な鉛色に塗り替えられている。

 道を行き交う人影も、同じく。


「侍女も少なくなったのね」

「機械化が進んで、生活部門にはそれほど人手が要らなくなりました。代わりに芸術部門はかつての倍の規模ですよ」

「まあ……あの軍事一色だったヴェーレンが、歌や絵を?」

「もう軍の主力も魔導機巧兵ですから。生身の人間が戦うことも少なく……僕も左は義足ですが、お気づきにならなかったでしょう?」

「ええ、ちっとも。すごい」


 お茶を飲み交わしながら和やかに続いた会話は、急にふつりと絶える。

 ペルシュルツは目を伏せて「……父上は」と呟いた。


「お訊きにならないんですね。なぜ顔を見せないのかと」


 尋ねるまでもない。息子がこの歳では、彼など死の床だろう。

「後で訪ねるわ」と冷淡に返す母親に、老王は肩を震わせた。


「民の間で、根も葉もない噂が絶えなかった……母上を玉座から追いやったのは父上だ、と。一度タナックと小競り合いになったときも、裏で手引きしたなどと言って……むしろ戦いが大きくならないよう尽力してくださったのに」

「……」

「一部が暴徒になって、……宮殿内まで乗り込んできて……」


 ――僕は脚一本で済みました。でも、父上は。


 そこまで聞いてフィルガレーデは立ち上がった。



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