アインザッツ!
吉野茉莉
アインザッツ!
15分前
控え室。
演奏が始まるまで、およそ十五分ある。私たちは最後の控え室で最後の音だしをしていた。今はパートごとにまとまってチューニングを行っている。
「緊張してる?」
横にいた男子が私に声をかける。
他の生徒と同じように、紺のパンツに赤いブレザーを着ている。これがここでの正装だ。
「当たり前」
私が返した。
「少し高い」
男子がチューナを確認しながら言った。
管を調整して、音を合わせていく。
トランペットの他の三人は私が担当してすでにチューニングが終わっていて、パートリーダである私が最後だった。
吹奏楽コンクールの地区予選、その直前、それが私たちが立たされている状況だった。
「オーケー」
私のチューニングが終わる。
「それじゃ、みんなで。ヨシ、チューナを置いて」
四人が円形になる。ヨシ、と私が呼んだ男子がチューナーを置き、せーのっと私が首を上下に振り、タイミングを指示する。それを合図に四人が音を出した。
チューナの針の振幅と、自分自身の感覚で、重なった音をチェックする。音が揺れることもなく、チューナはぴったりと中央を指している。
うん、大丈夫だ。
マウスピースから口を離して、ほうっと一息をつく。
「準備はいい?」
指揮者である女性の顧問が全員に聞こえるように言った。控え室にいるのは、すでに舞台袖に移動しているパーカッションの五人を除く五十人の生徒と指揮者だ。私たちの編成はA編成と呼ばれるもので、演奏者は最大五十五人と決められている。多くは二年生と三年生で、中学からの経験者の一年生がそれに数名混ざっている。
指揮者が指揮棒を上げた。
最初にクラリネットの1stが音を出して、指揮棒が指したパートの順に、音が少しずつ重ねられていく。
チューニングは問題なかったようで、特に注意されることもなく終わった。
「出だしを」
コンクールは課題曲と自由曲から構成される。演奏時間は課題曲の最初の音が出てから、自由曲が終わるまできっかり十二分以内。それを超えるとどんなに演奏が良くても失格扱いになってしまう。私たちは、指揮がよほどもたつかなければ、十一分で終わる計算だから、そこは心配しなくていい。
最初に演奏するのは課題曲だ。
私の緊張は、ほとんどがその課題曲に原因があった。
課題曲はあらかじめ指定されている四曲の中から一曲選ぶ。模範演奏を聴き、一通り演奏したあとで、生徒たちの合議により課題曲が決定されたとき、大いに私はため息をついた。
「さん、し」
顧問が指揮棒を振るう。
それに合わせて全員で曲の頭を演奏する。
一瞬だけ、大きな音が控え室に広がった。
顧問がこちらを睨んだ、ような気がした。それどころか、たぶんしていないはずの舌打ちまで聞こえた気さえした。
トランペットの四人が揃わなかったのは明白だった。
いや、心を誤魔化しても仕方ない、大部分は私のせいだった。
とちったのはこちら側だから何も言えることはない。
「もう一度」
同じ仕草で顧問が指揮棒を振り上げる。
今度はかろうじて満足がいったようで、顧問は一度頷いた。
四人がまとめて長く息を吐く。それから顔を見合わせた。一様に不安げな顔をしている。
課題曲はマーチだ。アインザッツと呼ばれる曲の出だしで、華々しく、高らかに始まるのが、トランペットだった。
曲自体はめちゃくちゃ難しいというわけではない。現に私が1stで吹くくらいなのだから、推して知るべしである。しかし、頭に目立つのがトランペットであるのが問題だったのだ。
よく言われるのは、課題曲は失敗しないように、自由曲は成功するように、演奏しなければいけないということだ。課題曲は審査員も聴きこんでいて、構成も熟知している。一度のミスが減点に繋がるのだ。一方の自由曲はもちろん審査員が知っている曲も多いが、構成などは割合自由に変えられる。だから、どれだけ魅力的な演奏をして心を掴むかがポイントになる。
それでなくても、十二分の頭の頭、それが成功するかしないかで、五十五人の心持も変わってしまう。最初に失敗したと思ってしまっては、あとはリカバーできずになし崩しに演奏がぐだぐだになりかねない。
今の失敗をわざわざ咎める人はいない。咎めて上手くいくわけでもないし、楽器こそ違えど、一つの曲を演奏する仲間なのだ。
控え室のドアが開いて、中学生くらいの女子が入ってくる。
「―高校、準備をお願いします」
進行係の案内に従って、私たちはそれぞれの控え室を出た。
10分前
舞台袖。
一つ前の高校の演奏が続いている。なるべく私はその演奏を耳に入れないように自分の内部に心を集中をさせていた。今更よその演奏を気にしても仕方がない。私は私でできることをするだけだ。
周りの生徒も、床を見つめたり、譜面を確認したり、天を仰いだりしている。それぞれがそれぞれのやり方で、心を落ち着かせようとしている。
「大丈夫ですか、先輩?」
「ミカちゃん、ありがと。大丈夫だけど、大丈夫じゃない」
右側にいた二年生の後輩であるミカちゃんが小声でお腹をさすっていた私に聞く。後輩に心配されるほど見た目からして緊張しているように見えたのだろう。
「私さ、緊張したら、お腹が痛くなっちゃうんだよね」
「知っているよ」
ヨシが返した。ヨシは私と同じ三年生だ。
「定演のときもそうだったし」
「うん、それが、今は痛くない、全然」
「それじゃ、よかったじゃないですか」
聞いた後輩が安心したように明るく言った。
「でもさ、続きがあって、お腹が痛くなるほど緊張しているときって、私、失敗しないんだよね」
「え?」
「だから、お腹が痛くないから、逆に不安」
「なんだよそれ」
まったく、呆れ顔のヨシの言う通りなのだ。
痛いのは困る。集中できなくなる。困るが、困ったことに、そういうときは失敗しない。痛くないときほど単純なポカをやってしまう。気が緩んでいる証拠なのだ。
「まあ、いいけどさ」
ヨシがさっきから一言も発していない後輩に目で指した。
「こっちも問題だな」
「はい、はい」
ヨシの声はあまり聞こえていないようだった。
猫背をさらに丸めて、元々小さい身長はさらにこぢんまりとしてしまっている。顔を見ると目がぐるぐるとしているみたいだった。
「りっちゃん、大丈夫だから」
「はい、はい」
緊張している私が安心させようとするくらいだから、それはかなり酷い様子だった。
「だって、さっきも私」
控え室で合わせたとき、音が揃わなかったのを自分のせいにしているようだった。
「そんなことないから」
なんとかなだめる。
「でもでもでもでも」
りっちゃんが震えている。右手に抱えている譜面を落としてしまいそうだ。
りっちゃんは一年生で、経験者だ。高校から始めた私よりも楽器歴は長いし、実際にこの四人で一番上手いのは誰かと言われたら、彼女だろう。
ただ、彼女は私以上の緊張しいで、本番に弱いのが玉に瑕だった。先月に行われた定演でも、小さなミスをして、一人で落ち込んでいた。コンクールの曲も演奏したが、あの時はまだ仕上がっていなかったのだから仕方ないとみんなが慰めたが、それも気に病んでいたみたいだった。
「ああ、神様、お願いします……」
りっちゃんが天井を見ていった。舞台袖の天井は暗く、張り巡らされたケーブルしか見えない。
「誰だよ、神様って」
「音楽の神様です……」
「それって誰?」
「バッハとか? シューベルトとか? それともカラヤンとか?」
ミカちゃんが呑気に言う。
「日本なんだから、武満徹とかじゃないのか?」
りっちゃんの緊張を和らげようとしているのか、本心なのかわからない二人だ。
「ミューズでしょ」
「そうです……」
私はりっちゃんがブレザーの胸ポケットにお守りを入れていることを知っている。それがどんなものなのかは知らないが、譜面を抱えながら右手で胸ポケットを抑えている。
「ヨシは全然緊張してないの?」
「してるさ。だけど、まあ、なるようになる。なるようにしかならない」
「そういう性格、羨ましい」
「どうも」
「ミカちゃんは」
ミカちゃんが口角を上げて、明るく応える。
「大丈夫です。私、吹くの好きですから、むしろ早く吹きたいくらいです。それに、私は、次が、あ、ごめんなさい」
「ううん、いい」
私はばつが悪そうにしているミカちゃんに返す。
「こら」
代わりにミカちゃんの背中を軽く叩いたのはヨシだ。
私とヨシは三年生だ。だから、このコンクールが終われば楽器を置いて、本格的に受験生になる。場合によっては、今日の地区予選を勝ち抜いて次に進むかもしれない。ただ、今はそのことは考えても仕方ない。
たぶん、私はこれからの人生、楽器を吹くことはないだろう。
なんとなくそうなる気がする。
だから、これが、私の引退をかけた演奏だ。
この十二分にすべてをかけなければいけない。
三年間の練習の集大成をこの十二分にこめなければいけない。
それが一層私を緊張させていた。
「それじゃ、いつものを」
ヨシの掛け声で、四人が円になり、譜面のファイルを床に置いた。
右手を前に差し出し、お互いの拳をぶつける。
私が小さな声で発する。
「練習は本番のように」
それに三人も続ける。
『本番は練習のように』
もう一度、私。
「いくよー」
『おー』
それと同時に前の高校の演奏が終わり、拍手に会場が包まれた。
ということは、私たちの出番が来たということだ。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
5分前
舞台。
下手に捌ける高校生たちと入れ替わりで私たちが上手から入る。まずは前列の木管が入り、そのあと私たち後列の金管が入る。トランペットは舞台の後方下手側だ。横にはトロンボーンがいる。台が置かれていて、その上にトランペットとトロンボーンはイスを置いて座っているので、みんなより一段高い位置にいる。
舞台に射し込んでくる照明が眩しい。光が楽器に反射して私の顔を照らした。
他の高校生や観客でホールの座席は埋まっていた。座席の中央にいるのが審査員だ。
ああ、見なければよかった。
かぼちゃかぼちゃ、みんなかぼちゃだ。
逆光で観客席に並ぶ顔が見えないのが救いだった。
下手からパーカッションが楽器を搬入してセッティングをしている。私たちも、席に座り、譜面台に赤い譜面隠しと譜面を置く。譜面は注意書きで真っ黒だった。書き込まれすぎてところどころ音符すら見えなくなっているが、譜面そのものは当然暗記をしている。いわば、この譜面はお守りみたいなものだった。
大丈夫、大丈夫。
おまじないを唱える。
コンクールの曲が決まってから何回、何十回、何百回、何千回、もしかしたら一万回以上、練習してきた。そのうち何回成功したかはともかく、それだけの練習をしてきた。すべてはこの十二分のためだ。
練習でできなかったことは、本番では絶対にできない。
当たり前だ。
練習ではできたんだ、私はできたんだ。そのときみたいにやればいいだけだ。
座り位置を微妙に調整して、楽器に息を通す。
2ndのヨシを見る。
譜面台に譜面に置くのに手間取っているみたいだった。その手がかすかに震えていた。
なんだ、緊張しているんじゃん。
3rdのミカちゃんは淡々と譜面台の位置を直していた。それから繰り返し譜面の出だしを目で追って、ピストンを動かしている。
同じく3rdのりっちゃんは、きゅうっと体を折り曲げている。その胸ポケットから、小さなクマのぬいぐるみが顔を出していて、その頭を大切そうに撫でていた。
そして、三人が私を見た。
三人はそれぞれの想いで笑顔を作っている。
まあ、お前が一番心配だぞ、という意味だろうけど。
それに気が付いた私は、すっと胸がすくような思いがした。
私は、三人に向かって、ぎこちない笑顔を返して、右手の親指を立てる。
少しだけ冷静になって、高い位置からほかのパートを見ることができた。何事もないかのようにじっとしていたり、セッティングが終わっているはずなのにしきりに譜面を何度も動かしたり、それぞれが自分のできることで緊張をほぐそうとしている。
音楽に対戦相手はいない。
少なくとも、ここには。
全員が同じ方向を向いている。
五十五人の意思は一つだ。
ただ、上手く演奏すること。
何を恐れることがあろうか。
1分前
パーカッションのセッティングも終わったようだ。指揮者が全体を見渡す。どのパートも同じように顔を上げて指揮者を見る。
私はちらりと譜面を見る。
タイトルの横に、みんなの言葉が書かれている。
指揮者が手を上げる。
私も両手を胸まで上げて、トランペットを前方に向ける。
構え。
ほんの一瞬だけの長い瞬きをした。
スイッチを切り返す。
出だしのピストンを押さえる。
息を吸う。
音楽が、始まる。
アインザッツ! 吉野茉莉 @stalemate
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます