なろう系の読者は虐められっ子ではない



 『シンデレラ』という童話がある。

 あの話は、童話の中でも一番と言ってもいいくらいの人気がある。

 あの極めてシンプルなサクセスストーリーは、幼児から大人までどんな人間でも夢中になれるような魅力があり、世界中の人々から愛されている。

 

 しかし、そんなシンデレラの原典は、何と言うか、意外な程にドロドロとしている。

 グロ描写があるのだ。

 靴に足が入らない姉達が、踵や指を切り落とす描写がある。

 物語がハッピーエンドを迎えようとしている際も、意地悪な姉達は全く反省していないという悲しい描写がある。

 そして、そんな姉達が最後は鳥に目を突かれて失明するという、とても残虐な描写がある。


 「ざまぁを描いているような話は昔からある」

 

 なろう系を擁護している人達は、よくそんな事を言っている。

 しかし筆者は、それこそが逆だろうと思っている。


 確かに、童話シンデレラの原典はやたらドロドロとしている。

 しかし、現代版ではそういう要素はそぎ落とされ、マイルドにされている。

 そしてそういう改変がなされているからこそ、ディズニー版のシンデレラなどは皆に愛される物語となっている。


 大衆性。エンターテイメント性。物語としての夢や楽しさ。

 そういうものにとって、ただ悪意しかない「ざまぁ」とは本来あまり必要がないのだ。


 しかし、なろう系というものは何故か、そういう風になってはいかない。

 (純度の高い)なろう系の中では、そういうドロドロとした残虐な復讐シーンこそが好まれる。

 「物語の最適化の中で本来切り捨てられるべき筈の陰湿さ」のようなものが、なろう系の中では何故か、逆に突き詰められていってしまう傾向にある。

 そして、なろう系というものはそんな側面が更に人から嫌悪され、バカにされる要因となる。





 なろう系をバカにする人達は、よくこんな事を言う。

 「なろう系は主人公が虐められているシーンにだけリアリティがある」


 それは、おそらくこういう偏見から来ているのだと思う。

 「なろう系の読者は虐められっ子である」

 「なろう小説でよく書かれているように、虐められ、迫害され、こっぴどく冷遇されている」

 「だから、その事に劣等感を募らせている」

 「だから、チートを求めている」

 「だから、ざまあなんて事をしたがる」

 「ああ、なんて可哀そうな人達だろう」


 当然だが、筆者はなろう系の読者が実際にどんな人達なのかは、全然知らない。

 だからその見解は、「合っているかもしれないし間違っているかもしれない」としか言えない。

 しかし、それでもあえて筆者の見解を述べると、平均的ななろう系読者はおそらくそういう人間ではない。


 筆者はこう思っている。

 「なろう系が好きになるような人達には、虐められた経験がない」



 何故そのような事を思うのか。

 それを説明する為には、前提として、人間の精神というものについて解説しなければならない。


 世の中には、精神が狂ってしまっている人達がいる。

 物事への認知というものが歪んでいて、そのせいで、どうしようもなく生き辛くなってしまっている人達がいる。


 筆者は、よくそういう人達を観察する。(理由は察して欲しい)

 そしてその度に思うのだが、精神が狂ってしまう人間には、おそらく2つのパターンがある。


 1つ目は、愛されなさ過ぎて狂うパターン。

 2つ目は、逆に愛され過ぎて狂うパターンだ。



 愛されなさ過ぎて狂うパターンの人は、極端に自己肯定感が育たない。

 生まれてから常に何もかもを否定され続けてきた人間は、次第に自分が偉いと思えなくなる。

 人に怒られたら、自分が悪いと思ってしまう。

 失敗したら、自分が悪いと思い過ぎてしまう。

 だから、どうしようもなく生き辛くなる。

 

 対して、愛され過ぎて狂うパターンの人は、自己肯定感が育ち過ぎる。

 生まれてから常に何をしても否定されなかった人間は、次第に自分が偉いと思い過ぎてしまう。

 人に怒られても、他人が悪いと思ってしまう。

 失敗しても、自分は悪くないと思い過ぎてしまう。

 だから、どうしようもなく生き辛くなる。


 奪われ続けた人間は奪われる事を恐れる。

 与えられ続けた人間は与えられない事を恐れる。

 世の中には、失う事しか恐れない人と、得られなくなる事しか恐れない人がいる。



 改めて言っておくが、筆者は精神学者などではない。

 なのでこれは全部、ただの推察というか妄想だ。

 というかそもそも、人の性格なんて結局その人によるのだろう。


 しかしそれでも、全体的な傾向としてはそういう風なのではないかとも思っている。

 人間というのはたぶん、大体はそういうものだろうと、筆者はそう考えている。



 そして、いわゆるなろう系を読んでいる人達がどちらに当てはまるかと考えれば、まあ、後者であろうと踏んでいる。


 チートを手に入れたら無双が出来る

 無双をしたらその事を褒められて愛される。

 追放されたら間もなくざまぁが起きる。

 自分には特別な才能が眠っていて、それが分からない人達の方が、本当はおかしい。


 こういう小説を見て、続きを読もうと思える程度にバカバカしくならずにいられる人はおそらく、生きてきて本気の苦言を体された事はあまりない。



 なろう系小説の導入では、主人公がよく虐められている。

 誰からも労わられず、理不尽な雑務に従事させられ、婚約破棄をされ、追放された勢いのままダンジョンのど真ん中に置き去りにされている。

 そしてその虐めシーンは、多くの場合、何と言うか気味が悪い程にドロドロとしている。


 なろう系のストーリーは基本的に、全ての物事が主人公にとって都合がよく進む。

 (なのでなろう系のストーリーは大半が、中身も起伏も薄く、素人配信者がただ何となくやっているだけのゲーム配信のような内容をしている)

 しかし、序盤に主人公が虐められているシーンだけは逆に、不自然な程に周囲が厳しい事が多い。


 虐めを行うキャラクター達は基本的に、知性も道徳感も人間味も欠如している。

 物語上重要なポジションのキャラクターであっても、人の皮を被った獣か何かのようにしか書かれる事はなく、ヴィランとしての魅力などは何も描かれない。

 そして、主人公達はそんな獣のような何かに不条理な理由で虐められているだけなので、パーティから追放などをされた後も人間的に成長する必要すらなく、相手を見返す場面なども物語としては逆に何も盛り上がらない。 


「人は見た目だけで判断してはいけない」

「苦難に耐え、乗り越える事で、何時か幸せは訪れる」

 なろう系の読者が見たいものは、そういうディズニー版シンデレラのような素敵なサクセスストーリーとは、似ているようで何かが違う。

 


 おそらく、そんな異質さを見てなろう系に興味のない人は思うのだろう。

「ここだけ変に生々しいし、きっとこの虐めシーンだけは作者の実体験なのだろう」と。


 しかし筆者はそのドロドロとした描写に、リアリティがあるとは全く思わない。

 というかむしろ、そういうシーンにこそ、なろう系読者の最も深い願望が投影されているのではないかとすら思う。



 惨めさとはそもそも、心の外から湧いてくるものではない。

 ただ、自分の事を自分で褒められなくなった時に、湧いてくるものなのだ。

 

 なろう系の読者は基本的に、惨めな自分への言い訳を探している。

 そして基本的に、自分でも見下せるような、自分より下の人間を探している。

 

 そんな彼らにとって、おそらく、上辺だけの優しさとはもはや毒なのだろう。

 職場の人間などが優しいと、彼らは苦しい。

 何故なら、他人が優しいのはただの当たり前の事だから。

 そして、他人が悪者でいてくれない事は、優越感に浸らせてくれないという事だから。


 だから、彼らは妄想するのだと思う。

 自分の周りにいる人達が、自分の事を完全に見捨てている事を。

 自分を追放した人間の本性が、ただの底抜けの悪であってくれる事を。

 自分が道徳的優位という印籠を振り回せる事を。

 自分がただの「可哀そうな人間」である事を。


 

 だから、自己憐憫なのだろうと思っている。

 なろう系小説の冒頭で、主人公がありえないくらい虐められている理由は。


 だから、つまり本当は、無双をするシーンでもざまぁをするシーンでもなく、「なんて可哀そうな自分」というそのシーンこそが、彼らにとっての一番大きな嘘なのだろうと、そう思っている。



 なろう系読者は就職氷河期世代なのでは?という考察はたまに聞く。

 幼い頃は甘やかされて、将来への希望だけ聞かされて育ち、日本の未来はwowwowみたいな事を信じていたのに、大人になった瞬間急に社会から居場所を奪われて、そのまま無慈悲に放置された世代。

 バブル時代の全能的価値観を刷り込まれたまま、貧しい時代と向き合う事を余儀なくされた世代。

 

 彼らが環境に恵まれなかったのは本当なのかもしれない。

 きちんとした学歴などを持っているのに、社会の役に立つ仕事もしているのに、それでもブラックな職場状況で働かされているのも本当なのかもしれない。

 自己責任という言葉は、筆者も全く好きではない。


 しかし、筆者は正直、自己責任という言葉と同じくらい、なろう系の読者という人種の事も全然好きではない。

 悪意すらなく自分の夢を粉々に砕いた彼らに、やり場のない憎しみすら抱いている。

 だから、こんな事を思ってしまうのかもしれない。

 しかし、それでもそう思ってしまう。



 追放者のモデルになっている人達は、おそらく普通の人だ。

 あの人達はおそらく、自分がそうであると思いたい程には、理不尽な冷遇はされていない。



 なろう系が好きな人はよくこういう事を言っている。

「人類の感性とは単純なものではない」

「小説の内容からそのまま読者のリアルを想像するなんて愚かだ」

 筆者もよく、そう思う。

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