なぜ『なろう系を書くと心が悲鳴をあげる』のか
筆者は昔、なろう系小説を書いてそれが書籍化する事に憧れていた。
それを願った理由は浅い。
一昔前はテンプレだった、底辺オタクの人生一発逆転願望である。
「ラノベを書いて人生逆転するんだー」というアレである。
しかし、筆者がその夢を叶える事はなかった。
テンプレ小説もどきを幾つか書いてみたのだが、それらは内容も酷い上にテンプレ小説としても振り切れてすらおらず中途半端で、ネットに転がる無数の「なろう小説のなりそこない」だった。
それは全然受けなかった。
そしてそれは、本当に自分が心から好きなものを書いた小説でもなかった。
そんな小説群を築き上げる行為は虚しく、ただ意味もない黒歴史の積み立てでしかなかった。
だから筆者は、吐いて捨てる程いる「なろう作家のなりそこない」の末路として、心が折れて辞めてしまった。
しかし、今でも時々思ってしまう。
「何故?」と。
何故自分のあの夢は叶わなかったのか。
何故自分はあの夢を追いかけられ続けなかったのか。
何故自分はあの夢を見る事を辞めてしまったのか。辞めざるを得なかったのか…。
何年も、悶々とそんな事を考え続けている。
そして今では、個人的には、その理由を幾つか論理立てて整理する事は出来ている(ように思う)。
なのでこのエッセイでは、筆者が恥と後悔とそれでも尚未だに残り続ける憧れの中で考えた、「なぜ『なろう系を書くと心が悲鳴をあげる』のか」について書き残しておく。
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『理由①、なろう系の話が面白くないから』
まず初めに、最も簡単に、誰でも思い当たる理由がある。
それは「根本的になろう系は面白くない」という問題だ。
なろう系は売れている。受けている。なろうアンチが何と言おうと、結局ちゃんと市場で評価をされている。
それこそ、web小説の世界ではそれ以外の小説全てに人権が無くなってしまう程に。
しかし、それは「=なろう系は世界で一番面白い」という理由にはならない。
簡単に言えば、「世界で一番売れているハンバーガーが世界で一番美味しい食べ物ではない」という、(おそらく有名な)あの理屈である。
なろう系が売れている要因には、面白さ以外にも色々な要因がある。
安心して読めるから。読む敷居(世界観設定などを理解するのに使うエネルギー)が低いから。面白さがインスタントだから。一部にだけ熱心なファンがいるから。
昔の話だし、人伝に何となく聞いただけの話なので、情報が合っているかは知らないが
なろう系の始祖の一つと言われている『魔法科高校の劣等生』の主人公の声優を務めた人は、当時こんな事を言っていたらしい。
「このアニメを見て声優に憧れる子は多分いないと思う」
そういう事だ。
『理由②、褒められないから』
なろう系というものは、はっきり言って世間からの評判がすこぶる悪い。
勿論なろう系をバカにしていない人もいるし、「いや俺が好きななろう小説はスマホ太郎みたいなのと違ってちゃんと世間からも認められてるから」みたいなのもあるだろうが
それでも、全体的な話として、評判が悪い。
人が小説家に憧れる理由として、褒められたいからというのは大いにあると思う。
ただ体よく不労所得を得る事だけに憧れているのではない。クリエイターというものに憧れて、文壇というものに憧れて、作家をしているという事自体に憧れている。
絶対に誰にでもある感情だと思う。
たぶん世の中の人間が一番憧れる文豪は、太宰治だろう。
(自分には5chで聞きかじった程度の知識しかないが、)太宰治ははっきり言って、人間のクズだったらしい。
しかし、太宰治はただ「文豪である」というだけで、そのダメさの全てが逆に恰好いい事になっている。
誰よりも人間的な悩みを持っていて凄い。
繊細な心を持っているから名作を生み出せる。
彼こそ天才。そして人間の中の人間だ!
そんな風に、人々から自然と思われる。面白い小説が書けるから。文豪だから。
立派な小説家であれば、己の人格障害すら擁護される。
それなのに、小説家とは本来それほどの羨ましい身分である筈なのに、なろう作家だけは違う。
なろう作家は敬われない。
頑張ってスマホ太郎を書いても、それはそれで凄い事なのに、世の中の色んな人からバカにされる。
割に合わない。
人は、なろう作家に憧れ辛い。
『理由③、ライン工とやっている事が同じだから』
(これは理由①に近いかもしれないが、大事な事なので分けて書いておく)
これは、筆者の偏見ではない。
なろう系を侮蔑する意図がある訳でもない。
ただ純然たる事実として、なろう系小説を書くという行為は、ライン工作業に近い側面がある。
創作とは本来は趣味である。
そして、己の自由な創造性をうんたらかんたらする、開放的で楽しい行いの筈である。
しかし、なろう小説を書く事にははっきり言って、あんまりそういった楽しさがない。
なろう小説にはテンプレートがある。
書かなければならない内容が決まっている。
それはもう、ガッチガチに決まっている。
世界観が最初から指定されている。展開も最初から指定されている。キャラクターや関係性も最初からある程度指定されている。タイトルも、タグとかも、作品のテーマ性すらも、テンプレとして方向性が決められている。
斬新ななろう小説とか、珍しくオシャレな雰囲気のなろう小説とか、アンチテンプレのなろう小説とかは当然ある。
しかしそれらも内容を解析すれば、結局はかなり狭いテンプレートの中に納まる事をほぼ強制されている。
web小説投稿サイトでは、自由にどんな小説を書く事も出来る。
しかし誰もが自由に小説を書いたら、読んでくれる人が誰も集まらない。
なので「書ける小説」には制約はないが、「読まれる小説」には制約がある。
その制約は、質の担保がされていない程、より狭く重いものとなっていく。
(この辺の解説をもっと聞きたい人は、前回の時点で名前をあげてる朝三暮四様の「なろう系はなぜ『人気でつまらない』のか」という記事を見て欲しい。本当に深くこの現象が考察されているから)
何もかも決められた物事をこなす事。
それは、工場のベルトコンベアで車の部品とかを作っているのとやる事が変わらない。
己の創造性を発露させたいから小説家になりたい人は、なろう作家に1ミリも向いていない。
小説家になろうというサイト名は、とても皮肉だと思う。
あの場所は文字通り、ただ何を置いてでも「小説家になる事」しか目指せない。
『理由④、自分の糧にならないから』
(この理由④は説明するのがかなり難しい事柄なので、どうしても話が抽象的になってしまいます。ご了承下さい)
普通、努力をすれば自分が磨かれる。
勉強をすれば頭がよくなるし、スポーツをすれば体が強くなる。
そしてそれは、きっと人生の様々な場面で役に立ってくれる。
だから努力というものは尊ばれる。
しかし、なろう小説を書くという努力が、どのくらい自身の糧になるかは怪しい。
勿論、異世界バブルに最前線に乗る事が出来て、なろう小説で何億円も稼いだであろう人達は別だ。
彼らは確実に、自分の人生を変えられる程の金を得た。
そして自作が多くの人から愛され、それによって自己実現欲求も満たされている事だろう。
なんなら、大勢のファンからの暖かい声援によって、名誉や誇りといった人としての一生の財産すらそこから得ている筈だ。
しかし、そうなれなかった人。
その夢のような異世界バブルには乗る事が出来ず、ただ残された残飯を漁る事しか出来ない人達にとって、なろう小説の出版というのはただ目先の小遣い稼ぎにしかならない。
読者というものは蝶に似ている。
蝶は、追いかけると逃げてしまう。
虫取り網を振り回して捕まえても、もし網からすり抜けると、また一目散に逃げてしまう。
しかし、綺麗な庭園を造ると、蝶は自然と集まってくる。
庭園に咲き誇る花々に蝶は勝手に群がり、それを捕まえる事には最早、虫取り網すら必要がない。
綺麗な庭園を造る事とは、いわゆる良い作品を作る事である。
そして虫取り網を振り回す事とは、テンプレのなろう系小説を書く事である。
この辺の理屈は、詳しく説明するのはとても難しい。
現在のなろう系小説を取り巻く状況。小説を書くスキルとは何か。顧客の信頼とは何か。解説するには、そういうものを掘り下げていかなければならない。
なので、申し訳ないが、この辺の事についての詳細な解説は放棄させて貰う。
(この辺りの事を深く理解したいなら、やはり朝三暮四様の例の神記事を見て欲しい。なろう系小説を取り巻く界隈の状況とか、そういうものも色々と掘り下げられているので)
とにかく、テンプレ小説を作る事は、深い創作の練習にはならない。
文章力も脚本力もあまり必要とされていないなろう小説の世界に身を置いても、それらはあまり磨かれない。
「所詮なろう作家」でしかないなろう作家は、受けるなろう小説を書いても固定ファンというものがあまり付かない。
そして、更に突っ込んだ事を言えば、そもそも文章を書くスキルというものは、画力などと違って簡単に金に結び付ける事が難しい。
なので、なろう小説を書く事はあまり己の糧にならない。
どうしてもそれは、「目先の金を追いかける行為」になってしまう。
人は自分の為にならない事には、本当のやる気というものがあまり出ない。
『理由⑤、やっている事が悪徳セールスと同じだから』
上にあげた4つの理由は、世間的にも何となく認知されている事だと思う。
「なろう小説を書いても面白くないから」「楽しくないから」「褒められないから」「目先の金にしかならないから」
これはたぶん、別にこのエッセイでわざわざ解説しなくても、世間の大勢の人達は既に感覚でぼんやりと理解している事だろう。
しかし、ここから先で、筆者が解説していくものは違う。
たぶんこれは、本当に深くなろう系に触れている人にしかその問題点を理解出来ない。
(なのでここからは、おそらくどうしても、筆者自身の強い思想なども入ってしまうと思う)
なろう系のやっている事は、必ずしも市場需要を満たす行為ではない。
むしろ、なろう小説を書くという行為は、悪徳セールスに近い側面を持っている。
この辺の理屈を説明するのは本当に難しいので、詳しくは朝三暮四様の「
なろう系はなぜ『人気でつまらない』のか」という神過ぎる記事をこれまた見て欲しいのだが、とにかく、なろう系には「誰もいらないものを押し付けている」という側面がある。
web小説の世界では、とにかく作品が埋没する。
その敷居の低さから、web小説というものはあり得ない程この世に大量に存在し、それと相反して、それを消費する為には一つ一つに多大なリソースが必要になる。
断言するが、「小説家になろうに投稿された小説全てを読んだことがある人」はこの世にいない。
なんなら、その内の1%すら読んだ事がある人も、この世界にはほぼいないだろう。
時間がかかり過ぎるのだ。web小説を読むという行為には。
そして、それなのに多すぎるのだ。この世にweb小説は。
だから、目立たないといけない。
世の中は何でも目立たないといけないものだが、特にweb小説の世界は、何が何でも目立たないといけない。
強い言葉を多く使い、人間の心理を利用し、時にタイトル詐欺などで人を騙してまでも、目立たないといけない。
web小説は、ランキングに載っている小説しか読まれない。
そして、ランキングというものはえてして、それ自体に価値があると理解された瞬間からその存在意義を十全に果たせない。
なろう系小説には、「ランキング対策」というものが求められている。
とにかくタイトルを目立たせる事、テンプレートに徹して読まれる前から質を担保する事、人のコンプレックスを煽ったりなどして、何が何でも目を引く事。そういう事が求められている。
そしてその「ランキング対策」は、「面白さの追求」と一見似ているが、よく考えると色々と違う。
人は面白いものを評価出来ない。
人のアンテナには限界があり、人の生理的反応は必ずしも人を満足感に導かない。
鬼滅の刃は少年ジャンプという最高の宣伝効果を持つ雑誌に連載されていたのに、大衆から認知されるまで相当のラグがあった。
おじいちゃんおばあちゃんはボケなどが始まっているせいで認知に限界があり、それに付け込んだ悪徳セールスは何時までも世から根絶されない。
なろう系は大抵が面白くない。
それは、趣向の違いとか、創造性の深さとか、そういう話だけではない。
シンプルに、本当に、ただ純然たる事実として、評価と面白さが釣り合っていない。
「ただランキングに乗っているからみんなに読まれているだけで、本当はそこまでみんなに求められていない」のである。
勿論、それだけが全てではないだろう。
なろう系を面白いと思っている人達はちゃんといる。
なんなら、このエッセイの前の話とかでも解説したように、なろう系というものに救われ、新しいなろう小説を読む事を心待ちにしている人すらいると、筆者はそう考えている。
しかし、それは程度問題である。
なろう系には「ランキング対策の結果生まれてくる話」という側面が確かにあり、本当に誰からも求められていないという側面も確実にある。
誰からも求められていないものを人に押し付ける行為。
それは、もはやライン工作業ですらない。ただの悪徳セールスと同じである。
本来は人を楽しませる筈の創作という行為で人を煩わせているのだから、その行いがアホらしくならない人は、おそらくあまり多くない。
『理由⑥、読者の認知の歪みを助長させる行為だから』
そしてこれが、最後の理由。
たぶんこの世で一番誰も指摘していない問題点であり、けれどおそらく筆者が最も無理だった理由であり、この記事において最も書きたいものでもある。
これを理解して貰う為には、前提知識がいる。
それは「なろう系を楽しんでいる人は己のコンプレックスを誤魔化して貰っている」という事である。
その解説は、筆者が前話に書いたエッセイ「web小説はなぜ『惨めな自分の事が大好きな人以外お断り』なのか」を読んで欲しい。
ここから先は、読者がそれを読んでくれている前提で話す。
そして、(散々言っているようにあくまでそれは程度問題なのだが、)筆者のその考察がある程度当たっているという前提で話す。
なろう系が大好きな人は、はっきり言って人格障害を持っている。
劣等感からコンプレックスを抱え、しかしそんな己の何が問題なのかはいまいちピンと来ておらず、罵声と自惚れの狭間で、責任転嫁癖と歪んだナルシズムを持っている。
売れるなろう小説で書かれるテーマはこうだ。
「あなたは間違っていない」
「あなたは本当は凄い」
「あなたは誰よりも特別な人間で、それを理解出来ない世の中の方がおかしい」
そして、そのテーマははっきり言って、ただの嘘である。
だって、その言葉をかけられて喜ぶ人は、その言葉を他の誰にもかけて貰えていない。
有能だからではなく、自分を有能だと思いたいだけの無能だから、コンプレックスを拗らせている。
性格が悪いから人から愛されておらず、頭が悪いから人生が上手くいっておらず、そんな現状だから自分のダメさ加減を誤魔化せる言い訳を探している。
そして、そんな人達はなろう作家に「君はおかしくない」という甘い言葉をかけられて、それに金を払ってもいい程の喜びを感じている。
要は、騙されているのだ。
目先の金の為に。バカを搾取する為に。
なろうの読者がなろう系を求めている構図。
そして、なろう系がなろうの読者に売れてしまう構図。
筆者はこれを、きらら系が与えてくれるようなただの現実逃避による癒しや、レイプや人殺しが出来るゲームで遊ぶ事によるただの欲求の発散とは、全く違う性質を持っていると考えている。
現実逃避をしているだけの人は、それを空想だと割り切っている。
「これはゲームの世界だ」と割り切っている。
現実で殺人やレイプを侵さない為に創作物の中で欲求を果たし、一時の逃避によって、明日再び現実に立ち向かう為の活力を貰っている。
しかし、なろう系は違う。
「あなたは本当は凄い人間ですよ」
このテーマは、相手に本当に心からそう思わせなければ、本当の安らぎを与えられない。
それが嘘であると割り切っている人間ほど、その言葉に喜びではなく虚しさを感じてしまうので、太客になりえない。
筆者は別に、「なろう系が好きな人はチートを振り回し奴隷ハーレムを作りたい願望がある」と言いたい訳ではない。
むしろ、逆だと思っている。
なろう系を読んでいる読者には劣等感がある。
そしてそれは、本来は、なんらかの成功体験によってしか昇華されない。
それこそ、本来なら奴隷ハーレムを築く事でしか、彼らが失っている男としてのプライドは回復出来ない。
しかし、なろうは「活力」ではなく「思想」を与えてくる。
「あなたはもし環境さえ違えば、奴隷ハーレムを築く事が出来るような人間だったのですよ」
「本当はあなたは麗しい王子様やお姫様に愛されるに足る人間なのですよ」
「あなたは本当は人としての魅力に溢れているのですよ」
そういう物の考え方を、哲学を与えられる事で、彼らは満たされてしまう。
自己肯定感が。ただの嘘によって。
頑張っている人を「頑張っていて偉い」と褒める事。
頑張っていない人を「頑張っていて偉い」と褒める事。
この2つは、優しさの意味が違う。
叶えてはいけない欲求を霧散させられる趣味を見つける事。
叶えなければならない欲求を霧散させられる趣味を見つける事。
この2つは、幸せになれるかどうかが違う。
人は何から逃げてもいいが、自分からだけは逃げてはいけない。
現実逃避と自己逃避は、違う。
だけど、もしかすると、それも本当は悪い事ばかりではないのかもしれない。
例えば「己のコンプレックスを解消する為にはもう殺人鬼になるしかない」というような人がいたとする。
そんな人に対して、「あなたは環境さえ違えば殺人鬼になれましたよ」という言葉を与えてあげる事は、もしかしたら良い事なのかもしれない。
それでその人が殺人を犯さなくなったなら、社会的には万々歳だ。
…しかし、その人は本当に生涯に渡って、その言葉だけで己のコンプレックスを誤魔化し続けられるのだろうか?
おじいちゃんになって、天寿を全うする瞬間になって、走馬灯から己の人生を振り返った時。「本当に殺人鬼になるしかない程に大きかったコンプレックス」と向き合わなかった事を、彼は後悔せずにいられるのだろうか?
そして、おそらくなろう系の読者の殆どは、そこまで反社会的な人間ではない。
ただ何となくだらしないだけで、人より少し過剰に怠惰なだけで、少し多めにイライラしているだけで、特に深い理由もなく明日頑張らない理由を探しているだけだ。
そんな人達に対して「あなたは本当は特別な人間だから、そのまま何もしなくてもいいんですよ」と伝えてあげる。
それは、物凄く残酷な事ではないのだろうかと筆者は思う。
そんな事を、思ってしまう。
逆なのだ。
なろう小説を読みたい人達は、異世界ハーレム小説を通じて、現実でもモテたいのではない。
現実でモテなくてもいい理由を、彼らは異世界ハーレム小説を通じて探しているのだ。
満たしたいものは、欲求ではなく、思考なのだ。
彼らはなろう小説を読めば、現実で彼氏彼女が出来なくても、その願いが叶わない惨めさを誤魔化せてしまう。
しかし、彼氏や彼女がいない惨めさを誤魔化そうとしている時点で、自分を愛してくれる人のいない辛さから目を逸らそうとしている点で、本当は誰かから与えられた都合のいい嘘なんかで救われる事はない筈だ。
おそらく、なろう系の読者の多くはもう高齢なのだろう。
もしかすると彼らは、もう現実ではどうやっても救われないのかもしれない。
当人も薄々そんな事を感じているから、なろう系によって与えられる耳障りのいい嘘を信じようとしているのかもしれない。
何も特別ではない人間を特別だと騙してあげる事は、別に全然正しい事なのかもしれない。
それは結局は、人助けになっているのかもしれない。
しかし筆者はどうしても思えないのだ。
10年後20年後、あるいは30年後40年後も、なろうの読者がなろう小説によって与えられる嘘の承認を信じ続けられると。
筆者は心の奥底で、こんなストーリーを想像している。
「なろう系を読んでいた人が年を取っておじいちゃんになった」
「その時彼には何も残っていなかった」
「人生にいよいよ終わりが近づいて、彼はついに考えてしまった。自分は本当は何がダメだったのか」
「今まではずっと、自分を評価しない世間の方がおかしいのだと思っていた」
「なろう系の追放勇者のように、自分という人間の真価が分からず社会から疎外する奴らが悪いのだと考えていた」
「しかし、それはただの言い訳だった」
「全部、責任転嫁をして、自分の惨めさを誤魔化しているだけだった」
「自分は本当は無能だった」
「秘められていた力なんてなく、本当に誰にとっても必要な人材なんかではなかった」
「なら、それなのに何故、自分を誤魔化し続けてしまった?」
「何故、何も手に入れられないまま人生が終わるまで、ダラダラと何もせず生き続けてしまった?」
「それは、自分を勘違いさせた人間のせいだ」
「自分に甘い言葉をささやき、自分が自分に付いていた言い訳を、ふんわりと肯定してくれた人達のせいだ」
「憎い」
「結局これも、ただの責任転嫁なのかもしれない」
「けれど、どうしても許せない。あの時何の意味もなく、ただ自分から金を巻き上げる為だけに、嘘で自分を褒めてくれた人を」
「俺の敵は、追放勇者ではなかった」
「俺の敵は、あのなろう小説に書かれていた、真の仲間だった」
「許せない」
「許せない」
「許せない」
「許せない」
筆者は、きっと当時からこう感じていた。
「なろう小説を書いている奴は、なろう読者に刺されてもしょうがない」と。
だから、私は書けなかったのだと思う。
なろう小説というものを。
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前回も書いたが、自分は醜い人間だ。
自分の惨めさを誤魔化そうとしてしまう気持ちは、自分の中にもあると思う。
むしろ、そういうどうしようもない側の人間ですらあると思う。
だから、これも結局は言い訳なのかもしれない。
ただ自分が頑張りたくなかっただけで、ただ自分がしょうもないプライドを捨てたくなかっただけ。
自分がなろう小説を書けなかった理由はただ何となく甘えていたからなだけで、こんな事を考えている理由も、その言い訳がしたいだけ。
砕け散ったあの夢は、そんな下らないものだったのかもしれない。
けれど、もしかしたら、それはそうではなかったのかもしれない。
あの日抱いていた夢は何か、もっとおぞましく、恐ろしいもので、自分は理性や良心によって悪夢から目を覚ます事が出来ただけなのかもしれない。
それは、未だに分からない。
だから自分は、未だに考えてしまう。
なろう小説とは結局なんだったのか。
そんな事を、ただ悶々と。
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