人気の出るなろう系小説には全て「俺はクズだけどクズじゃない」というメッセージ性が込められている


  ・なろうらしさとは何か


 「なろうらしさとは何か?」

 なろう系に触れている人達の間で、永遠に話題になる議題である。


 異世界に転生する事?

 都合よくチートを得る事?

 主人公が最強な事?

 やたらとチヤホヤされる事?

 それなのに主人公自体は平凡な事?

 作品名がやたら長い事?

 これらの要素が、ある程度絡み合っている事?


 人によって、その認識は十人十色だろう。


 初期は、異世界に転生する事こそがなろうらしさだという声が大きかった。

 (今でも、なろうにあまり興味のない人達はその認識のまま止まっていると思う)

 しかし、なろうというサイト内では色々あって、追放ものという転生要素が全然ない小説がランキングを席捲した事があった。

 そして今では、異世界恋愛というジャンルがサイト内を席巻しつつある。

なろうの事をイメージでしか知らない人に言ったら驚かれる話だろうが、実は、異世界転生というジャンルはかなり前からもう主流ではなく、何ならもはや駆逐されつつある。


 しかしそれでも、web小説界隈で流行っている小説は間違いなく「なろうらしい」。

 追放物も、異世界恋愛ものも、むしろ以前よりも更に「なろうらしさ」が極まっている。

 そう感じるのは、筆者だけではないと思う。



 そもそも、なろう系の始祖は『魔法科高校の劣等生』という作品だと言われている。

 この小説は、凄い。

 この小説が書かれた当時は、なろう系なんて概念は勿論なかった。

 この小説は転生とか追放とかチートとかざまあとか、そういうものが流行りになるよりも前に生まれており、現にそんなテンプレ小説とは全然違う事をやっている。

 しかし、それなのにこの小説はあまりにも「なろうらしさ」で溢れている。


 おそらくこの小説の作者は、この小説を書いた当時、個人ホームページに小説を投稿しているのと同じくらいの気持ちで書いていたと思う。

 つまり、ほぼ100%趣味である。

 なろう系の影響など微塵も受けておらず、大衆に受ける気もなく、参考にするテンプレートなども何も無い。

 そして世間には、ある意味、なろう信者がいなかった時代からなろうアンチというものは存在する。

 なろう的な要素が嫌いな人は遥か昔から大勢いて、その人達のせいで、なろう的な話はダメな話だとしか思われていなかった。


 つまり何が言いたいのかというと

 この小説は、おそらくこの世界で唯一、本当の純度100%で書かれたなろう系小説なのである。


(筆者は当時、この小説に1ミリも興味を持てなかった。

 そして今でも、見ろと言われても正直あまり見る気にはならない。

 しかしそれでも、この小説を凄いとは思う。

 どんな話なのか具体的には知らないし、あまり興味も持てないけど、それでもこの小説のやった事は本当に、凄い)



 なろうらしさには形は無い。

 そこに決まったパターンなどは結局ないし、これから先もまた、新しいタイプのなろう系が生まれ続けていくだろう。

 しかし、人々はそれを見てもおそらく、「なろうだ」と感じる筈だ。

 「なろうらしさ」というものは確かにそこに実在し、web小説というものは常に、その「なろうらしさ」に振り回され続けている。


 …と言っても、ピンとこない人もいるかもしれない。

 「なろうらしさなんて、結局ただの偏見じゃないの?」

 なろうを良く知らない人などは、そう思うかもしれない。

 なので、ここにその例をあげよう。


 これは筆者が再三名前を挙げている、朝三暮四様による神記事「なぜ『なろう系は人気でつまらない』のか」にも書かれていた、ある日の小説家になろうの日刊ランキングである。



 1位 ダメスキル【自動機能】が覚醒しました~あれ、ギルドのスカウトの皆さん、俺を「いらない」って言ってませんでした?~

 2位 【悲報】生殺与奪の権を竜に握られた人類、竜国の使い者を「田舎者」呼ばわりしてしまう~俺は学院生活を楽しみたいだけだから気にしないけど、俺を溺愛する竜王族の姉は黙ってないかもしれません~

 3位 追放されたチート付与魔術師は気ままなセカンドライフを謳歌する。俺のスキルは武器だけじゃなく、あらゆるものに『強化ポイント』を付与できるし、俺の意思でいつでも効果を解除できるけど、残った人たち大丈夫?

 4位 技巧貸与<スキル・レンダー>のとりかえし~裏切りパーティからの利息で自由に生きる事にします。トイチって最初に言いましたよね?~

 5位 虐げられ続けた無能力者だけど、俺だけドラゴンの言葉がわかるので、SSS級スキルもチートアイテムも選びたい放題。お金も名誉も手に入れて幸せになるから、俺を虐げた奴らはどこかで野垂れ死んでてくれ



 …これを見て「普通だろ?」と思う人は、知らん。





 ・なろうらしさとは精神性の中にある


 なろうらしさというものは確かに存在する。

 しかし、そこには決まった形は無い。

 何故なのか。それは、発想を逆転させてみたら分かる。


 そこに存在するのに決まった形はないという事は、そもそも、「なろうらしさ」とは形ではないのだ。

 精神性。メッセージ性。テーマ性。

 その作品に込められた哲学や、心の在り方。

 「なろうらしさ」の本質はそこにあり、そしてそこにしかないのだと、筆者はそう思っている。



 作品にはテーマ性というものがある。

 そしてテーマ性というものは、世間的には、何か高尚で難しい作品にほど込められるものだと認識されている(と思う)。

 しかし、実際はそうではない。

 思想の強さと頭の良さは、必ずしも比例しない。


 なろう系は、作者も読者も何も考えていない、ただの頭が悪いだけの作品群だと思われている節がある。

 だから、「なろう系には強烈なテーマ性がある」なんていう発想に、世間の人はなかなかならない。

 おそらく、言われてみてもピンとすら来ない人が多い。


 しかし、筆者は逆だと思っている。

 何も考えられずに作られた作品がなろう系になるのではない。

 むしろ、なろう系にはどれも、強烈な人間哲学が込められている。

 込められすぎていて、あまりの思想の押し付けの強さに、人は思わず「うっ…」となる。

 あまりにも強いメッセージ性が込められ、その押しつけがましさによってエンターテイメント性は損なわれ、難しい哲学書や嘘くさい道徳の教科書のような息苦しさが立ち込める。

 それが「なろうらしさ」の入り口なのだと、筆者はそう思っている。


 

 なろうの面白さの本質は、チートではない。

 無双シーンでもない。ハーレムを作る事でもない。鬱展開がない事でもない。爽快感でもない。安心感でもない。

 まあ、中には本当に、ワンパンマンのような物語的な爽快感の為になろう小説を見ている人もいるのかもしれない。

 しかし、なろう小説としての純度が高まっていく度に、より深くなろう系を熱望している信者となる度に、そういうエンタメとしての側面は求められなくなっていく。


 なろう信者がなろう小説を見て「王道のエンタメをしているからこの話が好きだ」と言っていても、おそらく、それはただの照れ隠しだ。



 「あなたは、本当は凄い」

 物語という寓話を通じて作者から伝えられる、そんなメッセージ性。

 これが、なろう系の面白さの本質だと筆者は思っている。


 なろう系は、低俗さを競い合っている。

 高尚な文学に唾を吐きかけて、いかにより浅ましいものを作れるかを、日々高め合っている。

 しかし、不思議な事に、低俗さというものは極め過ぎると一周して、文学の分野に戻ってきてしまうものならしい。

 現在のライトノベルは一周して、最初に唾を吐きかけた「作者の思想ばかりが前面に出ている、一部の人に熱烈に求められているだけの、エンターテイメントとしては別に何も面白くない話」に見事に逆戻りしている。


 文豪の作品を見て「この作者は面白い事を考えているなぁ」と感じる気持ち。

 チートを見て、無双を見て、ざまあを見て、その時になろう系を好きな人が抱く救われたような気持ち。

 その両者は、実は同じなのである。




・俺はクズだけどクズじゃない。


 では、その「なろう系に込められている人間哲学」とは何なのか。

 「あなたは本当は凄い」というメッセージ性を通じて、読者は何を考えているのか。

 それは、一言で言えば、「俺達はクズではない」という事だろう。


 自分は特別な人間だ。

 自分は特別で偉大で、本当は誰よりも凄いんだ。

 自分は本当は何でも出来る。誰よりも凄くて、何をやっても上手くいくんだ。

 そしてそんな自分は、誰からも愛される資格があり、本当に価値のある人間ほど自分という人間に自然と惹かれてくるんだ。

 だから、自分は正しいんだ。そして自分を否定する人はおかしいんだ。


 これが、なろう系の基本的なテーマ性だ。

 なろう系を読んでいる人達は、こういう言葉をかけられる事に喜び、物語の中にそんな哲学を見出して、それに喜びを感じている。


 …しかし、実はこれだけでは、片手落ちでもある。

 ここで早とちりをして、「ただ主人公が周りから褒められるだけのなろうモドキ」を書いてしまう者は多い。(自虐)


 人間性を肯定される相手は、「この世の誰か」では意味がない。

 実際に立派な人間。本当に頑張っている人間。リアルが充実していて、名声や名誉にも溢れている、あーはいはい君はとてもリア充なんだねという人間。

 そんな人間が褒められていても、何の意味もない。

 むしろなろう系において、それは減点の対象にすらなりえる。


 己が、そこにはいないといけないのだ。

 だらしなく、情けなく、頭も性格も悪く、周りからも見下されており、底辺に甘んじている。

 そういう人間が、この世で最も「立派さ」とは程遠い、本来は社会から認められるべきではない人間が、「立派である」と言われていなければ、意味がない。


 なろう系の主人公は、クズである程いい。

 どうしようもない人間である程、その人が無双する事に救いが生まれる。

 なろう系の一番の本懐は、どんなチートで暴れてどんなざまあをするかではなく、主人公の惨めな境遇。それが、どれだけ本質的に自分と同じであるかだ。



 主人公はクズではない。

 主人公はクズでないといけない。

 その2つの要素から導き出される人間哲学。読者へと示されるべきメッセージ性。それはつまり、こういうものになる。

 「俺はクズだけどクズじゃない」

 これが、なろうの魂の叫びだ。

 1行で矛盾しているが、これこそがなろうの哲学なのだ。



 見てみれば、分かると思う。

 受けているなろう小説には全てこのメッセージが込められているといっても、過言ではない。

 なろう系の始祖である『魔法科高校の劣等生』は言うまでもない。

 トップクラスの人気なろう系作品にも、人気でないなりに書籍化くらいまでならいっているなろう系作品にも、『小説家になろう』の日刊ランキングに日々浮上してくる作品たちにも、全てに、このメッセージが込められている。


 異世界転生。

 追放。

 悪役令嬢。

 婚約破棄。

 溺愛。

 無双。

 チート。

 ざまあ。

 もう遅い。


 筆者は、これらのファクターは全て、「俺はクズだけどクズじゃない!」と魂が叫ぶ為の手段なのだと、そう考察している。



 なので、なろう小説にはえてして、内容をかみ砕けばこういう事が書かれている。


「はっきり言って、あなたは周りから全く敬われておりません」

「現に、あなたは頭も性格も悪いです」

「おまけに怠け者ですらあり、本当に何もかもどうしようもない人間です」

「そう、あなたは間違いなくクズなのですが…」

「それでも、何というかその、本当のあなたはそういうのとは違うんです」

「そういう一面はあなたという人間の本質を捉えてはいないというか…」

「とにかく、あなたは実は凄い人間なんです」

「本当は何か特別な力が眠っていて、特別な人々に愛される資格のある人間なんです」

「世の中にはあなたの事を悪く言う人達もいますが、本当はそいつらの方がバカでアホで愚かで間違っているんです」

「だから、何というかその…」

「あなたはクズだけど、クズではないのですよ」


 そして、なろう系と聞いて集まってくる人々は、そんな言葉にどうしようもなく飢えている。

 なろうらしさとは、クズがクズ扱いされない事なのだ。







 ・クズなのにクズ扱いされないという矛盾と、それを解消する認知


 なろう系の主人公は、クズとして書かれていながらクズ扱いされない。

 それがどういう事なのか、いまいちピンとこない人もいるだろう。

 なんなら、なろう小説が好きな人達は、これに反論すらしてくるかもしれない。


 なろうへの批判として、よくこういう事が言われる。

 「なろう系小説は主人公が全肯定され過ぎていて気持ち悪い」

 そしてそれに対する反論意見として、よくこういう事が言われる。

 「いや、このなろう小説の主人公はちゃんと劇中でもクズ扱いされてるよ?」

 

 そして、それは嘘ではない。

 そのなろう小説を見てみると、確かにその主人公は、ちゃんとクズ扱いをされている事が多い。


 「俺は怠けるのが好きなだけのだらしない人間だ」

 「それなのにこんなに周りから褒められていて、どうしてこうなった?と常々思っている」

 「俺はたまたま周囲から有能だと誤解されているだけの平凡な人間だ」

 「俺は人助けが嫌いだし、善人だと思われたい気持ちもない」

 「勝手に人々に感謝される事もあるけど、それは俺の利益を優先した結果そうなったに過ぎない」

 「ああ、そんな事より、そろそろレイプをしたくなってきた」

 「他人にマウントを取って、ストレスを発散しながらチヤホヤされたくなってきた」

 「俺はサイコパスで、ナルシストだから、そろそろ意味もなく人を殺してぇ」

 

 なろう小説にはよく、こういう話が書かれている。

 なんなら、そういう話の方が多い。

 主人公は聖人で、心優しい人で、気高くありたいと常々思っていて、なんてそんな風に書かれているなろう小説の方がむしろ少ない(と思う)。

 

 「じゃあ、つまりちゃんとクズ扱いされているじゃないか」

 「そういう話は、『クズじゃない』の部分は何処に行ったんだ」

 そう思われるかもしれない。

 しかし、そういう小説を更に深く読み込んでみると、やはり得てして「俺はクズだけどクズじゃない」というテーマ性が込められているのが伝わってくる。


 それは、どういう事なのか。

 そういうなろう小説に込められているものを、それを読み書きしている彼らの認知を言葉にすると、こうである。


 「この主人公はクズとして生きています」

 「自分の事をクズだと自覚もしています」

 「でも本当は、この主人公は凄い人間なんですよ!」

 

 なろう系小説というものは基本的に、こういう認知で物語が展開されていく。



 そもそも、クズをクズのままクズ扱いしないというのは、大変ややこしくて、難しい。

 褒めなければならないのに、愚かでいさせないといけない。

 自己の利益しか追求させてはいけないのに、それで周りから感謝されないといけない。

 周りから善人だと勘違いされているだけのクズだと書かなければならないのに、そのクズを更に、本当は善人だと持ち上げなければならない。


 突き詰めれば突き詰める程、「俺はクズだけどクズじゃない」というテーマを表現する事は、難しくなっていく。


 なので、なろう小説で書かれている主人公達はよく、最終的に物語上でこういう扱いをされている事が多い。

 『この子はですね、自分の事を善人だと思われているだけのクズだと思い込んでいる善人なんですよ』


 …ややこしいが、要は3重構造である。

 まず、主人公はクズとしてクズらしく生きている。

 しかし周りはそれを見て、主人公は優しいと勝手に勘違いをしていく。

 主人公はそれを見て「おかしな奴らだなぁ」と思っているが、実は本当におかしいのは主人公の方である。

 主人公は自覚がないだけで、実は本当に心優しい性格をしている。主人公の真心によって周りの人達は救われている。

 「自分という人間を勘違いされている」と感じている主人公だけが、本当は逆に、自分という人間の真価を勘違いしている。


 …説明すればよりややこしくなったかもしれないが、なろう小説はよく、こういう多重構造を持っている。



 そして、これを更にややこしくしている「4つ目の構造」が、本当はここにはある。

 なろう系を求めている人は、クズだからクズ扱いされたくないと願っている。

 そしてなろう系を書いている作者は、クズに向けたお褒めの言葉を送っている。

 つまり、主人公が聖人扱いされている時、作者はその主人公が本当の聖人だと思っていない場合が多い。

 (あるいは天然系の作者であった場合、本当に主人公を良い人だと思っているかもしれないが、普通の人が見ればそれは全然良い人の条件を満たしていない)


 そこまで加味すると、なろう小説で書かれるものはこういう話になる。

 『この子はですね、自分の事を善人だと思われているだけのクズだと思い込んでいる善人なんですよ。…という扱いを物語の都合上しているだけの、ただの真性のクズなんですよねw』


 天然でなろう系小説を書けない人が、それでも本気でなろう系小説を書きたいなら。

 あるいは、「俺が好きななろう系小説の主人公はちゃんとクズ扱いされてるよ」という批判意見に何かがおかしいと思う気持ちを言語化したいなら

 この理屈を理解しなければならない。



 (一応言っておくが、ここで解説している事は何度も言うように、全て程度問題である。

  そういう側面もあるよというだけの話なので、本当に全てのなろう小説がこれに当てはまっている訳でもない。


  本当にそのままクズがクズとして書かれているなろう小説も、探せば幾らでもある。

 …というか、世の中にある程度受けているなろう小説は、つまりなろう系としての純度が低い話は、むしろこういう変な構造を持たず、シンプルに主人公は本当にダメな奴だと書かれている場合も多い。

 そしておそらくそれを見て、多くのライト層は「なろう系はこういう話なんだな」と思っている。

 大衆に露出するなろう系は本当にまともな理性を残している場合が多いので、純度の高いなろう系の複雑怪奇な構造を理解する事は、更に困難になっている)








 ・クズがクズ扱いされない事による利点と、弊害。


 クズがクズ扱いされない話。

 「俺はクズだけどクズじゃない」というテーマ性が込められた話。

 それには、圧倒的に需要がある。

 

 このテーマ性が持つ圧倒的な需要について解説すると、物凄く長くなってしまう。

 なのでその事について詳しく知りたい人は、このエッセイの1話目である「web小説はなぜ『惨めな自分の事が大好きな人以外お断り』なのか」を読んで欲しい。


 とにかく、人間というものは基本的に、クズである程承認に飢えている。

 とても褒められたような人間ではない人ほど、褒められたがる。

 例えば、世界中で最もロリコンが迫害され虐げられる場所は、極悪犯罪者が集うアメリカの刑務所の中であると言われている。

 豚箱にぶち込まれるような人間ほど、己が正義だと思われる事に飢えているものなのだ。



 しかし、その一見大きな需要があるテーマ性には、弊害もある。

 というかむしろ、大多数の人間には弊害しかない。

 何故なら、普通の人にとってそういう話は、はっきり言って、キモいのである。


 ハリウッドなどでも使われている脚本術の基礎として『SAVE THE CATの法則』というものがある。

 簡単に説明すると、「困っている猫を助けるような主人公を観客は好きになる」という法則である。


 人は基本的に、相手が良い人である程に好感を持つ。

 相手が立派な人間である程に、尊敬の念が湧いてくる。

 キャラクターの魅力とは、人間らしさの中にある恰好良さとか芯の強さとか、大抵はそういうものに集約される。


 そして、なろう系というものが目指している場所は、ここから著しく逸脱している。

 人間はクズである程その人を応援出来なくなる筈なのに、なろう系は何故か、主人公が最低のクズである事を目指さなければならない。


 その理由は、なろう系の読者が主人公に自己投影をしたいからに他ならない。

 そして、はっきり言って、なろう系の読者自身がクズだからに他ならない。

 要するに、ただの自分贔屓なのだ。

 

 なろう系の主人公に共感が出来ない人間。

 恰好付けている訳でもなく、己を誤魔化している訳でもなく、ただ本当に純粋に、己がそこまでのクズではない人間。

 そういう人達にとって、クズがチヤホヤされている話というのは、ただただ純粋に面白くない。

 

 というか、なんなら、無性に苛立ちすら湧いてくる。

 犯罪者が法廷で全く悪びれていないような様は、まともな倫理観を持つ人間ならば、見るに堪えない。



 そして、主人公がクズなだけならばまだいい。

 チェーンソーマンの主人公とかだってクズだ。

 アイアンマンはクズだからこそ魅力がある。

 人間的欠陥が何もないキャラクターなんて、むしろ、そちらの方が魅力はないという側面も確かにある。


 しかし、なろう系で書かれるクズは、これらの「普通の人から見て魅力のあるクズ」とは明確に違う。

 違わざるを得ない。

 何故なら、なろう主人公はクズ扱いをされてはいけないのだ。


 なろう主人公は敬われなければならない。褒められなければならない。

 それが醜く愚かである程、無条件で、その存在を肯定されなければならない。

 まともな人がクズにも魅力を感じるのは、そこに人間らしさを、「その人なりのダメさ」を感じてそこに愛着を抱くからだ。

 しかし、なろう主人公は、「ダメダメだがダメな人間ではない」。

 そういう風にしか描かれてはいけない。

 だって、怒られる。

 「俺はクズなんかじゃない」という話が、なろう系の読者は見たい。

 だから、なろう系の主人公はどうしようもないクズなのに、普通の人がそれを見て期待するような、しかるべき報いなどは絶対に受けない。


 「いやでも、俺が好きななろう小説の主人公はちゃんと劇中でクズ扱いされてるよ!」という反論については、既に先程解説し、否定した。

 せいぜい、人を殺してその報いとして石ころに躓く程度が、彼らが出来る言い訳の限界である。



 また、問題はこれだけではない。

 クズがクズ扱いされない話というものには、ただ客観的に見ればキモいという事以外にも、大いなる問題点がある。

 というかむしろ、筆者的には、今から述べる事の方が真の問題点であるとすら思っている。


 なろう系を面白いと思う人は、なろう系を面白いと思えない。

 何を言っているのか分からないかもしれないが、筆者は常々そう感じている。

 「なろう系を面白いと思えてしまうような感性の人ほど、本質的にはなろう系に存在意義を見出せない」



 「あなたは本当は凄い人間ですよ」

 この言葉を通じて、読者が得たいもの。それは、自尊心だ。

 自分を特別な人間だと思える事で、コンプレックスから解放され、日々を安寧に過ごしたいのだ。

 

 しかし、本当の自尊心というものは、そんな事をしていても手に入らない。

 嘘の言葉で自分を偽り、自分で自分に言い訳を重ね、妄想の中でのみ都合よく湧いてくるチートで無双する。

 そんな事をしても、自尊心というものの本質は満たされない。


 人が自尊心を獲得する為には、頑張らなければならない。

 それは「スライムを100万匹倒しました」とか「何もない空間で5億年剣の修行に励みました」とかそういう話ではない。

 自分という人間と向き合い、己の本当の醜さを自覚し、何度も失敗を重ね、その度に落ち込み、悶え、苦しみ、それでもそれらを日々改善し、レベルやステータスが高いだけではない本当の立派な人間にならなければならない。


 なろう系の読者は最終的に、人間としての尊厳を獲得する事を理想としている。

 しかし人間の尊厳とは、異世界でチートを振り回したり、ざまあをしたり、王子様から都合よく溺愛されるだけでは、手に入らない。


 なので、なろう系を読みたくなってしまう人ほど、なろう系というものは本質的には面白くない。

「あなたは本当は凄い人間なのですよ」

この言葉は結局は、何処まで行っても、バカを騙して小銭を巻き上げる為の甘言にしかならない。



 なろう系を読んでいる人は大勢いる。

 しかし、俺はなろう系が好きだと公言する人は多くない。

 なろう系の信者達がなろう小説を好きになった時、彼らはこぞってこう言う。

 「この小説はなろう系じゃない」


 筆者はそれを、ただ叩かれたくないからだけではないと思っている。

 世間でなろう系というもののイメージが悪いから、バカにされるのが嫌だから、他の低俗なものと一緒にするなと言っているだけではない。


 彼らは、何となく、本能で、感じたくないのだと思う。

 自分が救われている気持ちが嘘でしかない事を。






・なろう系が背負っている呪われた宿命


 「俺はクズだけどクズじゃない」

 このテーマには、それ自体に問題がある。

 気味が悪く、破綻しており、面白くもなく、本質的には何も価値が無い。


 しかし、なろう系は絶対に、このテーマからは逃れられない。

 何故なら、このテーマこそがなろう系が評価される理由だからだ。


 なろう系の読者は、このテーマを求めている。

 だから、逆張りをしようが、ちょっとおしゃれな雰囲気を出してみようが、他の転生者を全部殺してみせようが、このテーマからだけは逃れられない。

 このテーマを完全に外してしまったなろう小説は、人気が出ず、なろう小説になれない。

 このテーマがなければそれこそもう、本当に、「これはなろう系ではない」なのだ。



 そして、このテーマは極めれば極める程、世間からは疎まれる。

 気持ち悪くなり、エンターテイメント性も薄れ、「これだからなろうは…」というだけの話になっていく。



 「なろう系は面白くない」というのは偏見ではない。

 そしてそれは、web小説出身である事のレベルの低さや、インスタントな面白さが求められているが故の創造性の低さなどが原因ではあるのだが、それだけではない。

 なろう系にはそもそも、なろう系という概念そのものに、根本的な問題を抱えている。



「俺はクズだけどクズじゃない」


web小説というジャンルは、この言葉によって生まれてきて、今も生かされ続けていて、そして永遠に呪われ続けている。

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