なろう系はなぜ『流行る』のか

もちあんこ

web小説はなぜ『惨めな自分の事が大好きな人以外お断り』なのか

 このエッセイは殆どがただの愚痴です。

 web小説というものが構造上どうやってもなろう系から脱却出来ないであろう事への個人的な嘆きです。

 なろう系のノリが好きな人は見ない方が良いと思います。

 

 またこのエッセイは、朝三暮四という方がnoteにて執筆されている

 「なろう系はなぜ『人気でつまらない』のか」

 という記事を参考にしています。

 直接リンクは避けますが、マジで深くて凄い考察記事なので、見てない人はこんなエッセイよりそっちをまず見る事をお勧めします。



     <追記>

 このエッセイで考察されている内容は基本的に全部が程度問題(それが全てではないけどそういう側面もあるだろうねという話)です。

 なので書いている筆者も、この見方だけが全部だとは思っていません。

 しかし、本当になろう系について手酷い事を色々言ってしまっているので、「なろう系が好きな人は異常者だ~」みたいな言説を聞きたくない人はブラウザバックをお願いします。




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 筆者は異世界ファンタジーが好きだ。

 無双も好き。チートも好き。奴隷ハーレムも好き。

 インスタントな面白さも好き。アダルトビデオのような長文タイトルも好き。

 世界観説明を放棄させ誰でも一定の小説を書けるようになるテンプレートという概念の機能美には舌を巻く。

 「高尚なだけの文学に唾を吐きかけ、低俗さを競い合ってこそライトノベル」という界隈のヘドロみたいなスタンスにすら昔はワクワクを感じていた。

 

 しかしそれでも、筆者はなろう系が好きになれなかった。

 理由はただ一つ。

 筆者はそんな醜い自分の事があまり好きではなかったが、web小説とは上記の全てが好きで尚且つ、そんな自分の事も大大大好きな人しか楽しめないものだったからである。


 


 なろう系への批判意見としてよく

 「惨めで歪んでいる人間にしかあんなものは楽しめない」というものがある。

 それに対して、なろう系への擁護意見としてよく

 「なろう系を見ている人達はただ物語としてそれが好きなだけで、実際はそれほどおかしな人間ではない」というものがある。

 筆者はこの擁護意見を、確かに半分は合っていると思っている。

 

 「長文タイトルで強い言葉が書かれていれば、深い興味など無くても何となく目が引かれてしまう」

 「ウェブ小説の世界では簡単に目を引くものがランキングを支配する」

 「皆はそれを惰性で何となく見ている」

 「安心出来て展開も早いからチートが好まれ、見所が分かりやすいからざまあが好まれている」

 「なので、チートで周囲を見返す事に対して読者はそこまで深い渇望がある訳ではない」

 「そもそも、なろう系の読者の大半すらなろうのノリに本当はうんざりしていて、ランキング対策が徹底されただけの小説群を本気で面白いとすら感じていない」

 上で名前を出している、朝三暮四様のnoteでも言われていた意見である。

 その意見はおそらく半分は的を射ている。

 (この現象をあそこまで深い角度で考察した朝三暮四様は本当に凄いと思う)

 しかし筆者は、おそらくそれは程度問題であり、半分は正解でないのだろうとも思っている。



 何故なら筆者は、「日々の惨めさに苦しんでいる人間」も「なろう系の小説群を見て本気でコンプレックスを慰めている人間」も、実在すると考えているからである。




 「ざまあ」

 世の中には、この言葉に涎を垂らして飛びつく人達がいる。

 自分もその気持ちが分からない訳ではないので、その心理を推察する事は出来る(と思う)。


 この言葉が好きな人はおそらく、自分に自信がない。日常生活の中で他人に敬われる事が少ないせいで劣等感からコンプレックスを拗らせている。

 そしておそらく、それと同時に、自分が何故敬われないのかはあまりピンと来ていない。なのでコンプレックスの深さとは相反して、自分を悪く言う他人が悪いと考えており、そこまでの自省はしていない。


 だから、自分(のような主人公)を冷遇する人間が逆に断罪される展開を期待している。

 その断罪を通じて「俺/私の生き方は間違っていない」と思える事を期待している。

 自身の問題点から目を逸らし、幸先不安な現状から目を逸らし、怠惰な日常をこのまま続けていく為の都合の良い言い訳をウェブ小説などを通じて探している。

(彼らはおそらく何も考えておらず、ただ何となく気持ちいいからざまあ小説が好きなのだろうけれど、それを気持ちよく感じる心理を言語化するとこういう感じになると思う)



 いわゆる「テンプレのなろう系小説」を好きな人達は、ざまあ好きに限らずおそらく大抵は、そういう劣等感の裏返しから来る歪な自己愛を有している。

 そして、そんな彼らの精神的欲求は、たぶん大勢の人にも何となく共感自体は出来ると思う。

 人は常に自分と向き合って生きている訳ではないし、醜く浅ましいような一面は本当は誰だって持ち合わせている筈だ。

 

 しかしおそらく、多数派のいわゆる普通の人は、その浅ましさだけで生きている訳でもない。

 ざまあを願っても我に返れば落ち込むし、醜い自分の事が嫌いになる。

 楽しさより虚しさが勝り、もっと気高く心優しい人間でありたいと自然と願ってしまう。

 

 中身のないナルシズムに酔う事を何処までも楽しめる人間。

 コンプレックスを抱えるほど何かが上手くいっていないのに、自分の醜さに虚しくならず、心から自己逃避の為の言い訳を探しているような人間。

 そこまで振り切れている者の総数はおそらく決して多くはない。

 多くはないが、しかし、そんな彼らが集まってくる力は凄まじい。


 なんせそういう人間は、そうである程、常にイライラしている。

 他人から認められない惨めさに苦しみ、漠然とした将来への不安に苛まれ続けている。

 そしてそういう人間は、それでも自分は悪くないと思っているので、常に心待ちにしている。

 「君は間違っていない」「君は本当は凄い」「おかしいのは君ではなく、君を認めない世界の方だ」

 誰かからそう言って貰える事を。



 コンプレックスを煽れば、そんな彼らは一斉に振り向く。

 「おっさんうぜえんだよと言われた俺ですが」

 タイトルにこう書くだけで、彼らはもう他のどんなものも目に入らない。

 そしてその上で、「本当はパーティに必要な人材でした」

 こう書けば、熱中してその小説をクリックする。

 都合の良い自己肯定感の獲得によるコンプレックスからの安易な脱却を求めて、その小説を読み耽る。



 筆者はなろう系の本質は、ただのエンタメ小説ではなく「バカの哲学書」だと思っている。

 なろう系はチートで無双をするような話が好まれるが、それを読んでいる人達の大半はおそらく、ただチートのワクワク感や無双の爽快感だけを楽しんでいるのではない。

 それを通じて彼らは、「自分は本当は凄い」という物の考え方自体を得ているように思う。


 自分は本当は他人よりも優れている。

 自分はきっかけさえあれば無双出来る。

 自分はちょっとした能力さえ与えられれば、本当は誰よりも上手くそれを使いこなせる。

 自分を見下している人達は本当は間違っている。

 自分には美しい王子様やお姫様に愛される資格がある。

 自分には本当は秘められた力や魅力があり、自分は本当は特別な人間である。

 なろう系を読んでいる時、その人は物語を通じてそういう薫陶を受け取っている。

 

 要は、テーマ性である。

 「あなたは周りからクズ扱いをされているし、確かに自堕落で自己中心的な生き方に快感を見出していますけれど、それでもあなたは本当はクズなどではなく誰よりも優れた変えの効かない立派な人間なのですよ」

 そういう作者からのありがたいお言葉を、そういう物の考え方(哲学)を、異世界のチート無双劇という寓話を通じて受け取っているのである。

 (一応言っておくが、このなろう的なテーマは「君はヒーローになれる」のような一般社会でも受け入れられる前向きな向上心とは全く性質が異なる)


 世の中にある殆どのなろう小説は、(これも一元的な話ではなくあくまで程度問題なのだが、)本当の見所はエンターテイメント性だけではなくこのテーマ性にもあるのだろうと、筆者はそう思っている。


 そして、彼らが何故そんな「バカの哲学書」を読みたがるのかというと、結局はただの自己弁護なのだと思う。

 頑張る理由ではなく、頑張らなくてもいい理由を。

 ありのままの自分を誤魔化し、偽りの自分を愛する気持ちを。

 ダメダメでどうしようもない自分を、それでも虚飾と虚栄で上手く誤魔化し、劣等感から目を逸らす為の方便を、彼らは探しているのであろう。



 そういう物を求め、イナゴのように集まってくる彼らは、それを与えてくれる小説に大量に点を付けていく。

 創〇学会や統〇教会の組織票が選挙で強いのと同じ。

 世間全体を見れば少数派である彼らだが、それでも素人小説の集客力では、熱量を持った集団というものには太刀打ち出来ない。

 

 こうなると、ランキングというものは簡単にハックされる。

 本当は1%の人しか興味が無い、ただ訳の分からない癇癪のような何かが書いてあるだけの、エンタメとしては3流以下のような小説でも、面白さなんて関係ない。

 素人小説の中に圧倒的な熱量を持たれた小説群が突然混じれば、ランキングはそればかりになる。

 そしてランキングがそればかりになれば、興味のない人達は離れていく。

 他の人が離れれば、その人達はますます強い影響力を持ってしまう。




 ビジネスの世界では、客を蝶で例える事がある。

 蝶は追いかけると逃げてしまう。

 逃げていく蝶を虫取り網で無理やり捕まえても、捕まえられる総数は決して多くなく、明日には更に捕まえる事が難しくなってしまう。

 しかし、庭を綺麗にすれば蝶は自然と集まってくる。

 綺麗な花を庭に沢山咲かせる事が出来れば、大勢の蝶達を苦労せず捕まえられ、その蝶達は明日も明後日も勝手に集まってきてくれる。


 なので普通に考えれば、蝶は無理に追いかけない方が良い。

 虫取り網を振り回すより、庭を綺麗にして向こうから来てくれる事を待った方がいい。

 しかしweb小説の世界では、庭を綺麗にしようとする人間は全員がバカを見る。


 1000匹の蝶ではなく1匹の蝶だけ捕まればいい場合は、虫取り網を振り回した方が圧倒的に効率が良い。

 元々が綺麗な庭を作るノウハウのない、素人の集まりなら尚更である。

 そして、それでも頑張って綺麗な庭を作ろうとする人がいても、法のない場所では周囲が自動的に邪魔をしてくる。

 虫取り網を振り回す人達によって、自分が作ろうとする綺麗な庭は簡単に汚されて、本来なら大勢集まる筈の蝶達はどれだけ頑張っても集まってこない。


 一般の価値観を持つ人達は、庭を綺麗にしないと集まってこない蝶。

 ざまあと鳴くだけで捕まえられる人達は、虫取り網で簡単に捕まる蝶。

 例え皆で庭を綺麗にした方が総合的には沢山蝶が集まるのだとしても、企業でもない個人の集まりに協力し合う義理はない。

 蝶集めはなりふり構わず追いかけたものの一人勝ちになる。

 web小説界隈にはこの「綺麗な庭を作れない性質」のせいで、無双やチートと書かれているだけで涎を垂らすような感性の人達しか集まらない。



 そしてその上で、web小説というものには更にどうしようもない構造がある。

 このエッセイでは、ここまで散々に、「なろう系が好きな人のチョロさ」を書き連ねてきた。

 しかし、これもweb小説界隈を知っている人なら分かるだろうが、テンプレ小説の世界も実はただテンプレをなぞるだけでは100点は取れない。

 

 テンプレが好きな人も、結局は人間である。

 ざまあと鳴くだけで興奮する人達にも、彼らなりに楽しい事と楽しくない事があり、彼らなりの人としての哲学がある。

 なので、恐ろしい事にweb小説は、おかしな話を書かないと人が集まらないのにおかしな話さえ書いていればその中で何をしてもいいという訳でもない。


 全員がこぞってなろう系を書く世界の中で、他人よりも多くPVを稼ぎたいなら、結局は工夫をしなければならない。

 そしてその工夫とは、文章を見やすくしたり物語を面白くしたりする事でもあるのだが、それだけではない。


 頑張って、なろう系を見たがるような人達に対して感性を合わせなければならない。

 承認に飢え切っている、底抜けに性格の悪い人だけが楽しいと思う事を追求しなければならない。

 承認に飢え切っている、底抜けに頭の悪い人だけが共感出来る責任転嫁や自己弁護の理屈を考えなければならない。

 それらは、世間一般的な面白さを追求する行為とはおおよそ関係がない。

 しかし、それらの作業と向き合い続けた人間である程、この界隈では高く評価されてしまう。

 そして、根がまともな人は例え恥を忍んでテンプレを書いても、上に書いた「バカの哲学」を上手く理解出来なかっただけで誰からも相手をされない。


 そんな独特過ぎる感性と根気の必要さが、本当は面白い話が作れる筈だった人達を更に遠ざけ、より純粋に頭のおかしい人だけを選別していく。

 



 web小説界隈はカルト教団「俺は本当は凄い教」に支配されている。

 (それはweb小説という媒体そのものの性質によって自然とそうなってしまう事なので、なろうであろうがカクヨムであろうが本質は変わらない)

 web小説の読者というものは、なろう系特有のあの何とも言えないノリを異常に高く評価する。

 己の非を謝らず、己以上の他人を許さず、クズがクズとして扱われない。それが彼らにとっての理想の物語となる。

 そして、そんな自己中心的かつ鈍感な感性を持つ彼らは、世間の平均よりも遥かに心の機敏というものを評価が出来ない。

 それは「素人小説にはインスタントな面白さしか求められていないから」「小説は自己投影した主人公を特別に贔屓して見るものだから」なんていう浅い理由だけではない。

 例え媒体がアニメでも漫画でも関係ない。濃縮された変な人である彼らは本当に、それの良さを根本的に理解出来ない。

 自己が客観視された物語の面白さを。人として人らしく生きているキャラクター達の愛らしさを。他人が悪いだなんて割り切れない、繊細な悩みを抱えて生きる人間の心の美しさを。


 自分が面白いと思ったものが評価されない場所。

 そんな所に心から居心地の良さを感じられる人間は、いない。



 筆者も、今はこんなエッセイを書いているけれど

 もし自分が小説投稿サイトで小説を書くなら、なろう系のノリに尻尾を振って迎合すると思う。

 そしてなんならこのエッセイは都合が悪いので消していると思う。

 だって、絶対に無理だから。

 web小説というものは構造上(よほどの天才でなければ)どうやっても、人に見て貰いたいなら、一部の人達がおかしい程に熱量を持っているだけの「俺は本当は凄い教」に入信して自分も異常者になるしかないから。



 そんな訳なので、web小説界隈では「異常者ではないがチョロくもない人」には人権はない。

 ナルシストでもなく、サイコパスでもなく、その代わり周囲を見返す事を渇望してもくれない

 『惨めな自分の事が大好きな人』ではない人は、web小説というものを楽しめない。

 少なくとも、大手を振っては。



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 …と、ここまで散々なろう系をコケにするような事を書いたが

 筆者も本当は高尚な人間などではなく、むしろ醜いよりの人間であると思う。

 だからこそ、惨めさを誤魔化したい気持ちなどもある程度は分かってしまう。

 そして、タイトルに強い言葉が書かれている小説を見ると、ついそちらに目がいってしまう。

 そして、それを読む事もある。

 そして、その内容を心地よいと感じる事もある。

 なろう系が好きな奴はバカだアホだとこれだけ喚いても、自分がそれに付いていけない理由も結局はただの程度問題であり、本当に深い所では自分も同じ穴の貉だと思わされる事は多い。


 だから筆者は、なろう系に屈していないweb小説を見るとそれだけで凄いと思う。

 10万文字以上あるのに誰も見ていないような小説があっても、それが小説として劣っているとは思わないし、むしろ創作というものを純粋に愛する本物の精鋭だとすら思う。

 そして、そんな小説を読んでみて実際に面白かった度に、「でもこれも結局は評価されないんだろうなぁ…」という虚しい気持ちになる。

 絶対に受けない事が分かってしまう話にそれでも「面白かったです」なんて感想を残す事には、もはや罪悪感すら湧いてくる。

 web小説界隈この場所では、普通の面白さなんてものには何の価値もないと、自分もまた心の何処かではそう思ってしまっているから。




   <追記>

 …このエッセイを書き終えた後にふと思ったけど

 滅茶苦茶しっかりした文章力の人とかが、どう考えても誰にも読まれないような謎の小説を投稿してたりするのは

 小説投稿サイトすら無かった時代に個人ホームページに小説を投稿してた人らと同じような事をしてるのかもしれん。

 本当にただ身内とかに読んで貰えたらそれでよくて、ここは場所を借りてるだけみたいな。


 10万文字超えの構成とかもすげえしっかりしたような小説をそんなノリで書いてるんだったら、マジで本当に尊敬する。

 「面白いけど意味なくて可哀そう」とか考えてる自分が逆に浅ましくて惨めになる。

 そうなのだったら凄い。あまりにも尊い。

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