なろう系を真に擁護してくれる人は誰もいない



 この世には、エロゲーというものがある。

 成人向けのアダルトゲーム。えっちな気分になって、致す事を目的としたゲームである。


 エロゲーは昔、オタク界隈の中でかなり大きな勢力を誇っていた。

 そしてそこには、様々な作品があり、さまざまな文化があった。



 「CLANNADは人生」

 エロゲー界隈の中で(正確にはCLANNADはエロゲではないのだが)、そんな名言が生まれた事がある。


 エロゲー文化の中で生まれたクラナドという作品があまりにも素晴らしく、それに感動したオタクが残した言葉である。

 この名言は、大いにバカにされている。

 そしてそれと同じくらい、大いに愛されている。


 バカにされている理由は、クラナドは所詮ただのギャルゲであるからである。

 ただ女の子とイチャイチャする為の話というのがベースなのに、それをここまで壮大に褒める事に、大いなる痛々しさを人々から感じられている。


 愛されている理由は、クラナドという作品の良さを伝えているからである。

 クラナドはただのギャルゲーであるにも関わらず、本当に岡崎棚也という人間の一つの人生を描いており、そこには数えきれない程の涙や感動があり、見る者の心を本気で震わせてくる。


 クラナドが好きな人は、この言葉が笑われる事に(そこまで本気で)怒らない。

 彼ら自身が、クラナドは別に世間的に見て、そこまで大げさに立派なものではないと感じているから。

 しかし、それでもクラナドが好きな人は、この言葉を愛し続ける。

 彼ら自身が、世の中からは認められないだろうが、それでもクラナドという作品にはそのくらいの中身もあったと感じているから。


 エロゲーが好きな人は、「俺はエロゲーが好きだ」とよく言っていたように思う。

 彼らはきっと、心からエロゲーというものが好きだった。

 だからこそ、それが世間的にはアレな趣味なのであろう事も、彼らは受け入れ認める事が出来ていた。

 

 エロゲーが趣味だという事は、恥ずかしい事であって、情けない事であって、しかしそれでも何処か誇らしい事でもあった。





 それを知っているからなのか。

 筆者は、昔からずっとこう思ってしまう。


「なろう系が好きな人達は何故、自分の趣味を、あそこまで後ろめたく思ってしまうのだろう?」


 なろう系が好きな人は、一言目にはこう言う。

 「これは普通の話だ」

 そして二言目には、こう言う。

 「俺が好きなものはなろう系じゃない」


 なろう系は、普通の作品ではない。

 普通の作品ではないから、需要があり、面白さがある。

 しかし、なろう系が好きな人ほど、不思議とそれを誇らない。

 


 筆者は、スマホ太郎の事がそれ程嫌いではない。

 真っすぐになろう系というものと向き合い、愚直な程になろうらしさを体現し、誰からもバカにされてもなお、中身の無い自分を貫いている。

 そんな姿には何処か好感を覚え、愛らしさすら湧いてくる。


 しかし、スマホ太郎という作品はおそらく、なろう系が好きな人の大半にも叩かれている。

 「これは最低のなろう系だ」

 「俺が好きななろう系はこれよりはマシだ」

 「なろう出身というだけで全ての作品をこれと一緒にされて貰っては困る」

 そういう言説を、非常に多く耳にする。

 

 なろう系が好きな人は、なろうらしさを誇らない。

 スマホ太郎をバカにする。

 〇〇太郎だと呼ばれたがらない。

 なろう系自体が世間から張られているレッテルから、自分だけは逃れようとする。

 中にはもはや、どう見てもなろう系にどっぷり嵌っている癖に、「俺はただバカにする為にこれを見ているだけだ」なんて事を言ってのける人すらいる。


 なろう系の事が好きな人程、本質的な所で、なろう系の事を好きだと言ってはくれない。



 理屈は、分かる。

 このエッセイの前話で話した通り、なろう系の面白さの本質は「惨めさの誤魔化し」だ。

 そして「惨めさの誤魔化し」とは、自身がそれをしていると認めてしまった瞬間に意味を無くしてしまうという性質を持つ。

 

 だから、彼らは認められない。 

 なろう系のなろうらしさに救われている人程、自分が抱いている感動の正体を、受け入れる事が出来ない。


 しかし、それでも筆者は思ってしまう。

 なろう系を好きな人にも、もっとなろうらしさを誇って欲しかったと。



 このエッセイでは今まで散々、なろう系を否定してきた。

 自分への言い訳というものを否定してきて、惨めさを誤魔化す事を悪だクズだと論じてきた。

 

 しかし、それも結局は、全ては程度問題だとも思う。

 人は常に自分と向き合って生きていける訳ではない。

 自分を誤魔化し、言い訳をし、無力感から目を逸らさなければ正気を保てない場面というのは確かにある。


 誰かを叩く事によって、明日を生きられる事。

 目先の欲に突き動かされる事で、思わぬものに巡り合える事。

 自分がどれだけ醜い人間か分からない事で、逆に、勇気を持って前に踏み出せる事。

 そういう事も、全くない事はない筈だ。


 本当に、世の中の色んな事は結局は、程度の問題だと思う。

 お酒を飲むのは確かにダメな事だ。

 しかし、お酒はただ禁止すればいいというものではない。

 禁酒法なんて制定しても何も意味がないのは歴史が証明しているし、今現在もお酒によって正しく救われている人なんて、きっと幾らでもいる。

 ゴミは汚くても、ゴミ箱のある公園は綺麗なのだ。



 なろうの最初期に、『無職転生~異世界行ったら本気出す~』という作品があった。

 今も絶賛アニメ化中だから、あの作品の事を知っている人は多いだろう。

 そして筆者は、あの作品を、まだ第1章しか投稿されていなかった時から知っている。


 そして、まだあの作品が全然有名ですらなかった時に、作者が言っていた言葉がある。

 それにとても感動した事を、今でもまだ覚えている。

 

 「何故、こんなに恥ずかしいタイトルを付けたのか?」

 活動報告欄で読者にそう聞かれた作者は、こんな事を答えていた。

 「変なタイトルの話が、読んでみれば以外と面白い事もある。だから自分もそういう話を作りたかった」


 …たぶんああいうものを見たから、自分も昔、なろう系小説を書いてみたいと思ったのだと思う。

 (そして全く花開かず、人生を浪費させられ、今では怨霊のようになってしまっている。どうしてこうなった…)



 筆者は、ほどほどであって欲しかったんだと思う。

 なろう系の読者に、なろう系のなろうらしさを、自覚的に、自虐的に、ほどほどに楽しんで欲しかった。

 理性を残したまま自分への言い訳に浸って欲しかった。

 そして、クラナドは人生だという言葉を恥ずかしくも誇らしそうに言う人達のように、「俺が好きなものはなろう系だ」と言ってほしかった。

 そうしたらきっと、自分も全然、それを愛せた。



 惨めさを誤魔化していると分かりながら、惨めさを誤魔化す。

 それがどれくらい無茶な事なのかは、考えれば考える程理解出来てしまう。

 だから、あの人達がそれを出来なかった理由も、今なら何となく分かる。


 けれど、それでも当時は心からこう思っていた。

 そして、今でもこう思っている。



 なろう系が好きだと言う人は、何故いてくれないのだろう。

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