最終話

 結局、私はリフトで頂上に行くほどには上達しなかったので、ロッジの前でリリと梁川やながわさんが滑るところをずっと眺めていた。単純に体力が尽きたとも言うけれど。


 私は、先ほどの謝罪で少し混乱している。

 いくら考えても、謝られるような心当たりがないのだ。

 それなのに梁川さんは心から謝った。

 あの態度が虚仮こけではないのはよくわかる。彼女は案外そういう裏表うらおもての使い分けができるほど器用ではないと例の件で知ったから。

 だから、謝罪は本心なのだろう。

 そう――

 大学生を呼んで事件を演じさせたことで私が不快な思いをしたと彼女は言うが、私自身、そうは思っていない……はずだ。そうでなければ混乱などしない。

 ただ……それがあってから、少しだけ。

 少しだけ、リリの機嫌がよくなった気がするのだ。梁川さんに対する態度も柔らかくなっているし。

 リリに何かあった……いや、。それは間違いないだろう。

 でも、多分、リリは教えてくれない。

 そんな気がする。



 正午が近くなり、さすがに疲れが出てきたリリは、私の隣に座ってゲレンデを眺めていた。

 中天ちゅうてんの太陽がゲレンデの銀面にまぶしく反射して、目が痛くなるような白で世界を満たそうとしているかのようだった。雲一つなく、風は穏やかで、凍えた空気は身を切るよう。

 私の日常にはない、非日常の光景。

 でも、隣にリリがいるから現実離れしている実感はない。


「リリが教えてくれたのに、私、あんまり上手くならなかったね。ごめんね、にぶくて」

「初めてならしかたないさ。もっと練習すればできるようになるよ」

「そうだね。そのときはまた教えてくれる?」

「もちろん」


 満面の笑みで、リリはうなずいた。

 その顔がなんだか妙に嬉しくて、可愛くて――思わずキスをした。

 少し乾燥した唇に、ほのかな香りが残っていて。


「……アップルティー飲んだでしょ」

「キスだけでわかるの?」

「リリも同じことしたじゃない」

「そうだったね」


 ふふっ、とリリが笑う。

 そして、正解のごほうびだよ、なんて言いながら、リリのほうからキスしてきた。


「あー……そういうのはあとにしてもらえるかしら」


 と、背後から梁川さんの声。

 振り向くと、あきれ果てたような表情の女王様と、あらあらまあまあ、と微笑ましげに口元を手で隠す弥生メイドさんが立っていた。


「そろそろお昼だから、別荘に戻るわよ。昼食が済んだら帰るたくをお願いね」

「了解です、ゆきお嬢様」

「気安く名前を呼ばないでくれるかしら、那須野なすのサン?」


 言って、梁川さんはそっぽを向いた。

 照れている……ということはミジンコのクチバシの先っちょほどもなく、本気で嫌がっていた。

 ごめんなさい調子に乗りました。



 別荘に戻り、昼食の前に温泉に入ることになった。

 今度こそ私とリリの二人きり。ただし、小浴場のほうだ。『小』と言っても私のような庶民しょみんの感覚では十二分に広いけど。単純に十人はゆったりつかれるくらいはある。しかもヒノキ造りですごくいいかおりがする。

 その広い浴槽よくそうで、私はリリを背中側からっこするような格好で温かな湯に心を溶かされていた。


極楽ごくらく極楽……」

「ミコ、おばあちゃんみたいだよ」

「えぇ? 気持ちのいい温泉に肩までたっぷりつかって、大好きなリリを抱っこして……これが極楽でなくて何なのか、と問いたいね」

「おばあちゃん呼ばわりはスルーか……」


 ふにゃ、と呆れたように笑うリリの体から力が抜け、少しだけ私の胸に体重がかかる。お湯の中だし、リリはちっちゃいから全然重くない。


「……リリ」

「ん?」

「ごめんね」

「なんでミコが謝るのさ?」


 胸元の黒髪ショートボブがこてんとかしげる。


「梁川さんにこの別荘に誘われたとき、あまり興味ないって言ってたでしょ。なのに私が行こうよって言ったから、しかたなく来てくれたんだよね。そのせいでリリに嫌な思いをさせたから……ごめん」

「嫌な思い? 何のこと?」

「ずっと不機嫌だったじゃない」

「ああ……ミコのせいじゃないよ。それに。気にしないで」

「でも……」


 仏頂面ぶっちょうづらのリリを思い出すと、そんな簡単に「そうなんだ、それならよかった」とは割り切れない。嫌がるリリに無理強むりじいしたのはまぎれもない事実だから。


「……確かに、いろいろあったけどさ」


 言葉が続かない私の手を取って、ぽつりとリリが呟く。


「僕は来てよかったと思ってるよ。ずっとミコといっしょだったから、余計にね。だから、ミコはいいことをしたんだ」

「リリは優しいから、そう言ってくれると思ってた。でも、それじゃダメなの」

「……ああ、なるほど、。わかったよ」


 言って、リリは体ごと反転してこちらを向いた。生まれたままの姿をさらしながら、鼻が接する距離まで顔を近づけてくる。


「僕が許す気になるまでミコにキスするから。これは罰だ。拒否権はないよ」


 宣言するなり、リリは抱き着いてきて有無うむを言わさず私の唇をふさいだ。いつもと違って服を着ていない今は直接肌が触れ合って、キスしている唇だけでなく全身でリリの体温や柔らかさを感じてしまう。体の奥底から神経を直接そっと撫でるような感覚が湧き上がってきて、頭の芯までしびれるようだった。

 キスなんてごほうびじゃないかと思っていたけど、これは確かに私の罪悪感が溶けて消えるまで続く、耐えがたい罰だ。

 とんでもなく恐ろしい、しかし酷く甘い刑罰おしおき


「……リリ、ちょっと待って……これ以上されたら……」

「僕はまだミコを許していないよ? というか、許す気はないよ」

「どうして……」

「許さなければいつまでもミコとキスしていられるからね」


 にっ、と紅潮こうちょうした顔に意地悪な笑みを浮かべて、リリは言った。

 さすがに私の理性がもたないので勘弁してください……。



 なかなか温泉から出てこない私たちを心配して様子を見に来た梁川さんがいちゃつく私たちにガチ切れしたりしなかったりしつつ、昼食もつつがなく終了し、帰路につくことになった。

 お世話になった五十里いかりさんご夫妻(奥さんを初めて見たが、ちゃんと存在する人だった。しかも美人)と弥生やよいさんにお礼のあいさつをして、私たちと梁川さんは送迎の車に乗り込んだ。細い山道をくねくねと下って行き(もちろん途中のトンネルで雪崩なだれなど起きていない)、広い道路に出るころには別荘は見えなくなっていた。

 やはりというかなんというか、出発して五分も経たずにリリは私の膝枕で眠っていた。梁川さんがあきれたようにしながらもブランケットをかけてくれたのでお礼を言っておく。


「本当に自由というかマイペースというか……とらえどころがない子よね。神前かんざきって」


 妙に達観たっかんしたような口調で言って、梁川さんは小さく笑う。


「周りなんて気にしない、どうでもいい、面倒くさい――いつもそんな感じかと思うと、誰かのために本気で怒ったりするし」

「え……? リリが梁川さんに怒ったの……?」

「ええ。それはもう、烈火のごとく怒って、この私が泣かされそうになりましたわ」

「ウソでしょ……?」


 信じられない。

 と言っても、リリが怒らないわけじゃない。

 ただそれをほとんど表に出さないからちょっと機嫌が悪そうに見える程度だし、怒ること自体を面倒くさいと思っているので長続きしない。

 そんなリリが他人にわかるほど感情をあらわにして怒るなんて……私でも見たことがないというのに。


「梁川さん、何をしたの……?」

「私が勘違いをしていた。それだけよ」

「……?」


 よくわからない。

 それが顔に出たらしく、梁川さんはぽつぽつと話を始めた。

 ゲレンデで梁川さんとリリが同じリフトに乗ったときの話らしい。



       ◇



「神前」

「…………」

「昨日のことは悪かったわ。あなたを巻き込むような形でお芝居をして、無理に探偵役をさせたことを怒っているんでしょう? 本当にごめんなさい。あなたがこういうのを嫌がることはわかっていたつもりなんだけど、無理を言って来てもらったから楽しんでもらいたくて、余興よきょうのつもりで計画したの。それが逆効果になるなんて……なんとお詫びをすればいいか」

「わかってた? 何を?」

「こういうことをしたらあなたが怒るかもしれないってこと」

「……何もわかっちゃいない。何もだ。どうして僕が怒っているのか、君は全然理解していない」

「え……」

「僕は別に、この別荘に連れてこられたことも、芝居に付き合わされたことも、無理矢理探偵役をさせられたことも、全然気にしていないんだ。大したことじゃないんだ、そんなことは」

「じゃあ、いったい何に……」

。本当に事件が起こったようによそおって、人が死んだと思わせたことだ。そのせいでミコは、深く傷ついたんだ」

「そ……そんな風には見えなかったけど……」

「それはそうだろう。自分でも気づいてなかったくらいだから。でも、間違いなくそれでミコの心に何かが刻まれた。それが……ミコをおかしくしたんだ」

「…………」

「僕たちが部屋に引っ込んだとき、ミコは僕にキス以上のことを求めてきたんだ。僕を傷つけないようにと、キス以上は、だ。もし、それがミコの本心で、心底それを求めているなら、僕はそれを受け入れるよ。でもね……あのときのミコは。自分の意志じゃなかった。人の死を目の当たりにして、心のどこかが傷ついて、。その事実を無意識で理解していたから、ミコは寸前で手を止めた。そのときミコは――泣いていたんだ」

「…………」

「わかるかい? 君のりょな余興が、僕の大切なミコを泣かせたんだ。傷つけたんだ! それが許せなくて、僕は君に怒っているんだよ!」

「そう……だったの……」

「ミコは純粋で優しい子なんだ。僕みたいな面倒で寝ぼすけな変わり者のことを大好きだって言ってくれる、本当に素直で素晴らしい子なんだ。きっと昨日の芝居も、だまされてくやしいと思うより先に、トウカさんが生きていてよかったと思う子だ。僕はそんなミコが大好きだ。だからこそ――」

「…………」




       ◇



 梁川さんの話を聞いて、私はふと膝の上で眠るリリを見た。気持ち良さそうに寝息を立てる彼女が、たまらなくいとおしくなった。

 リリがそんなにも私のことで怒ってくれたなんて。

 そんなにも私を想っていてくれたなんて。


うらやましいわ。そこまでこの子に愛されている那須野あなたが」


 ぽつりとそう呟く梁川さん。その表情は今まで見たことがないほど寂しそうだった。女王様らしい強気な彼女はそこにはいなかった。


「……意外。望むものは何でも手に入れてしまう梁川さんが『羨ましい』だなんて」

「私を何だと思っているの? 私にだって手に入らないものはあるし、それを手にしている他人を羨むことはあるわ。……手に入れようとして、嫌われることも」


 自嘲じちょう気味に笑い、うつむく。

 ……ひょっとして、梁川さんって……。


「あの。勘違いだったら笑い飛ばしてほしいんだけど」

「何なの?」

「梁川さん、リリのこと好きだったりする?」

「……。嫌な子だと思うけど、嫌いではないわね」


 どっちなんだ。


「グループの子たちのように私の家にびることなく、成績も運動もいつも私の一歩前にいて、届きそうで届かないところにいる神前はとてもざわりだけど……追いつくべき目標でもある。だから、嫌いではないわ。いえ、むしろ私のグループに欲しい逸材いつざいだと思ってる」

「そうなの?」


 普段の態度を見ていると、とてもそうは思えないんですが。ツンデレさんなのか?


「今回、神前を別荘に招いたのはね……例の件のお礼もあったけれど、本当は神前と仲良くなりたかったから。そしてあわよくばグループに引き込みたいと思ったから。お芝居も、楽しんでもらいたくて用意したのよ」

「そうなの?」


 意外すぎて同じ相槌あいづちを打ってしまった。しかし、それならなんとしてもリリを招待したいと食い下がったのも道理だ。


「でも、それが理由で怒らせて、嫌われてしまった。もう、仲良くはしてくれないわね」

「しかたないね。君はそれだけのことをしたんだから」


 と、その声は私の膝から聞こえた。


「リリ、起きてたの?」

「二つ、梁川さんに言い忘れていたことがあったのを思い出したからね」

「……?」


 起き上がってあくびをして、リリは梁川さんに向き合った。寝起きとは思えないほどしっかりとした目つきでじっと見つめる。


「このたびは別荘に招いてくれてありがとう。いろいろあったけど、来てよかったと思うよ。お礼を言うのが遅れたのは申し訳ない」

「い、いいのよ、そんなことは」


 失礼があったと謝罪するリリに、梁川さんはなく返した。

 激しく怒らせた相手からのそんな言葉にどう応えていいものかと戸惑っているのだろう。

 あるいは、何を言われるのかという不安におびえていたのかもしれない。


「もう一つ。ミコが君の謝罪を受け入れたから、僕にはもう、君に対して思うところはないんだ。許さないと言ったのは撤回てっかいする」

「じゃあ……」

「君とは、


 一瞬、期待するようにぱっと表情を明るくした梁川さんだったが、続くリリの言葉で撃沈した。それでも無視され続けるよりは、と無理に自身を納得させるようにうなずいた。


「クラスメイト、ね……。友人にはなれないのかしら?」

「無理だね。もちろん、

「……っ!」


 付け加えたその一言で表情が一変する。

 ……ああ、やっぱりそうだった。梁川さんはリリが――


「僕はミコの彼女カノジョだ。君のものになることはないよ」


 消沈しょうちんする女王様に追撃ついげきを入れるように宣言し、リリは私に抱き着いて見せつけるようにキスをした。すると、梁川さんの顔が見る見るうちに真っ赤になっていく。

 もちろんキスシーンを見て照れているわけではない。完全無欠にフラれた上に思い切り当てつけられてなのだ。


「ええ! ええ! そうでしょうとも! 何よ、見せつけてくれちゃって! 神前アンタなんかいつまでも那須野そいつとバカップルをやっていればいいわ! もう知らないから!」

「そうかい? じゃあ遠慮なくミコといちゃいちゃするよ」


 ヒスを起こしつつわめく梁川さんをニヤニヤと横目で見つめながら、リリは私をぎゅっと抱き締めてきた。


 ……ある意味、この二人はこの距離感でいるのが一番自然でちょうどいいのかもしれない。


 私はリリのちっちゃな体に抱っこされながらそんなことを思いつつ、高速道路に入って速度を上げた車窓に流れる雪山の風景を眺めるのだった。





       終



※この作品はフィクションです。

 登場する人物・団体等は現実のものと一切関係ありません。

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可愛いリリが雪山別荘で頑張る理由 南村知深 @tomo_mina

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