第15話

 翌朝。

 私は一睡いっすいもできないまま、窓の外に広がる銀世界をぼんやりと眺めていた。そよ風が針葉樹の枝に積もった雪を吹き散らし、それに陽光が反射してキラキラと輝いている。吹雪ふぶきは夜中にやんだようで、青空が見える快晴だった。

 昨晩は成り行きでリリと同じベッドで寝ることになったのだが、お芝居の謎解きで疲れたらしいリリは、横になるとすぐにすやすやと眠ってしまった。私はこんな機会はめったにないと、リリの寝息や可愛らしい寝顔を至近距離でじっくり堪能たんのうすることにしたのだが……気がつくと夜が明けていた。楽しい時間は過ぎるのが早いものだと実感する。

 まあ、眠るリリを眺めて十二分じゅうにぶんな幸せ成分を摂取せっしゅしたので、睡眠不足がつらいとは全然思わないけど。


「おはよう、ミコ。気分はどう?」

「最高です」

「ならよかった」


 珍しく自分で目を覚まし、私を気遣ってくれたリリにおはようのキスをする。一晩中可愛らしい姿を見つめられた上に一日の始まりからいっしょにいられるなんて、最高以外の何だというのか。

 まだ少し眠そうにしながらベッドに腰掛けるリリのつやつやぽわぽわのショートボブをいていると、弥生やよいさんが朝食の準備ができたと知らせに来てくれた。私たちは手早く着替えや洗顔などのたくを済ませ、ダイニングに向かった。


「おはよう、お二人さん」


 ダイニングのテーブルにはすでに大学生一行がいて、先に食事をとっていた。

 トウカさんがひょいっと手を挙げてこっちにおいでと手招きするが、リリはそれを無視した。

 あらら、と肩をすくめ、隣のリカコさんらしき人と笑い合う。

 らしき、というのは、リカコさんが昨日とは全然違うナチュラルメイクで印象がガラっと変わっていたからだ。こうしてみると、浴場で見間違えたのもやむなしと思うくらいトウカさんに顔立ちが似ていた。成り代わりトリックに使えると思うのもよくわかる。


梁川やながわさん、おはよう」

「おはよう。那須野なすの


 先に着席していた家主にあいさつし、私は椅子を引いて座った。リリも昨夕さくゆうと同じ席につく。


「…………」


 リリはあいさつせず、黙ったままだった。

 昨日のお芝居が始まってから(私たちに容疑がかかってからはさらに)ずっと、リリは梁川さんに対して不機嫌だった。私たちを巻き込む形でお芝居をたくらんだのが他ならぬ彼女だから、それに怒っているのだろうと思う。

 一方、梁川さんもそんな態度のリリに不満を持っているのだろう。普段以上にリリに対する目つきが鋭い。

 二人が隣同士の席だからその反発がより強く作用しているような感じがして、そのうち暗黒物質ダークマターかなにかが生成されるんじゃないかと思うほどの重苦しさを漂わせている。暗黒物質ダークマターってどんなものか知らないけど。

 ……うう……気まずい。ちょっと話しかけてみるか……。


「ねえ、梁川さん」

「何?」

「今日は天気、大丈夫なのかな。ゲレンデに行けそう?」

「……さあ。行けるんじゃない? 知らないけど」

「…………」


 あからさまに『庶民しょみん小娘こむすめが私に話しかけるなオーラ』をまとわせてなく返された。

 少しでも気まずさを何とかしようと思った私の気遣いは無駄だったようだ。

 梁川さんの馬鹿。もう知らない。


「お天気は大丈夫です。お出掛けされるのでしたら私にお申し付けください。車を用意いたしますので」


 と、私とリリの前にベーコンエッグの皿を置く弥生さん。焼きたてらしい食パンの香りもあいって、ものすごく美味しそうだ。デキるメイドさんだなぁ(ただしコスプレ)。


「リリ、大丈夫だってさ。ごはん食べたら行こうよ」

「うん。ミコにスノボを教えるって約束だったからね」

「……覚えてたの?」

「僕がミコとの約束を忘れるとでも?」


 得意げに言って、パンをちぎって口に放り込む。

 リリを連れて来るための方便ほうべんだったのに、きちんと覚えていてくれたことがなんだか嬉しい。それに加えて、リリが私にまで不機嫌な顔をしなかったので安心した。

 私は晴れやかな気分で、パンに小さく切ったベーコンと目玉焼きを乗せて頬張った。



 大学生一行は、朝食が終わるとあいさつを済ませて別荘を出て行った。これから大学に戻って今回の芝居に使ったシナリオの見直しと撮影準備をするらしい。

 彼らと梁川さんとのつながりは、梁川さんの従兄いとこが映研サークルのOBで、ロケ場所を探しているときに紹介された――と別れぎわにトウカさんが教えてくれた。完成したら見に来てね、としっかり宣伝せんでんも忘れずに。

 いろいろあったけど、リリのやったことが映画のクオリティアップにつながればいいなと思う。



 五十里いかりさんが用意してくれたスノボウェアに着替えると、私たちと梁川さんは弥生さんが運転する車でゲレンデに向かった。

 ゲレンデは山のふもとから別荘までの山道より雪深いところを通って行くらしいが、車は四輪駆動のSUVだったし、運転手やよいさんはこの近辺で生まれ育った人なので雪道のドライブはお手の物とのこと。実際、乗っていて不安はなかった。

 到着したゲレンデは営業用に比べれば小規模だったが、私たちだけの貸し切り状態で使うなら持て余す広さだ。しかもリフトやロッジも完備している。個人使用のために造られたにしては立派過ぎるだろう。

 梁川家の底知れなさに、寒さとはまた違った震えが出そうだ。


「ミコ、ボードのかたはわかる?」


 ロッジで借りたボードをかついで外に出ると、待っていたリリが言った。

 もちろん私は初めてなのでわからない。


「ううん。私……初めてだから、優しく教えてね……?」

「もちろん。まずはここに足を入れて、しっかり締めるんだ」

「ああっ、そんなにキツく締められると……!」

ゆるいと危ないんだ。我慢して」

「やだ、そんな……リリ……っ!」

「ちょっと。その小芝居やめてくれないかしら? いかがわしいニオイがするわ」

「そう見える梁川さんが変なのでは?」

「……っ! 勝手にすればいいわ!」


 付き合ってられないとばかりに深いため息をつき、梁川さんはスキー板を担いでリフトのほうへ歩いて行った。

 付き合って一週間で彼女をベッドに引きずり込んだ人に、この程度のことで「いかがわしい」と言われる筋合いはないと思う。……いや、わざと小芝居したのは事実だし、昨日のことを考えると他人ひとのことは言えないか。

 ともあれ、リリの指示通りにボードに片足を固定して立ち上がる。もちろん傾斜けいしゃのない場所なので滑り出したりしない。

 片足だけで滑る練習を少しして、なんとなく感覚がつかめたところで両足を乗せる。ガッチリ固定されているのですごく不自由な感じだ。こんなので自由自在に滑るなんて本当にできるのだろうか。


左足が前レギュラースタイルのときは、つま先に体重を乗せると右に、かかとに乗せると左に曲がる。軽く膝を曲げて重心に気をつけて、倒れないように。僕が手を引いてあげるから、ちょっとやってみようか」

「うん」


 リリに引っ張られると、じわじわとボードが滑り出した。足を動かしていないのに移動しているという未体験の感覚に背筋が震える。もちろん寒いからではない。どちらかと言うと興奮だろう。

 しばらくまっすぐに進み、言われたとおりに重心移動すると、少しずつだが思ったほうに曲がっていく。ただ、バランスを取るのが難しい。リリと手をつないでいなければすぐに転んでしまいそうだ。


「慣れてきたら、膝や腰のひねりを使ってボードの向きを変えてやるんだ。そうすると鋭く曲がれるようになる」

「えぇ? 上手くできないんだけど……」

「焦らなくていいよ。僕はミコができるようになるまで付き合うから」

「リリ……ありがと。頑張る」


 ちいさくて頼りになる彼女に手を引かれながら、私はやる気をあらたにした。



 一時間ほど練習すると、一人で緩斜面かんしゃめんを滑るくらいはできるようになった。ボードを外して十メートルほど斜面を歩いて登り、ボードを履いて下りてくる。それを繰り返すだけだが、上手く曲がれたり転ばなかったりすると上達しているのかもと嬉しくなってくる。

 しかし、何度もボードを抱えて雪の上を歩いて登るのは結構疲れるものだ。慣れない体の使い方をしていることも手伝って、かなり息が上がっていた。


「ちょっと休憩……」


 足を投げ出して座り込み、大きく息をついた。

 弥生さんからもらった温かいペットボトルの紅茶を一気に半分ほど飲み、ふたをする。

 周囲は一面冷たい雪に覆われて真っ白で、気温もかなり低いはずなのに、じわじわと頬に汗が浮かんでは流れている。風を通さず保温性の高いウェアがサウナスーツのようだ。でも、その汗と熱さをさらっていく風もあるので心地いい。


「おお……」


 ゲレンデの一番高いところに動く人影が二つ見える。

 一つは梁川さん、もう一つはリリだ。私の練習に付き合わせてばかりだとリリが楽しめないだろうと、私が休んでいるあいだに上へ行っておいでと勧めたのだ。ちょうど下りてきた梁川さんがリフトに乗るところだったのでそれに同行し、二人同時に滑り始めたのだろう。

 慣れているというだけあって、リリは自由自在にゲレンデを駆けまわっている。梁川さんのスキーもそれに負けじと美しいシュプールを描いている。あんな風にできるようになったら楽しいだろうな、と少しうらやましくなった。


「……?」


 リリが急にS字走行スラロームをやめてゲレンデの右のほうに寄ると、直滑降ちょっかっこうを始めた。どうしたんだろう、と思う間もなく――


 


 え? と目を見開くと、リリがくるりんと後方宙返りバックフリップを決めて着地し、そのまままっすぐこちらに向かって滑り始めた。

 ……何だ、今の……?

 運動神経は抜群に良いリリだけど、あんな芸当げいとうまでできるとは驚くばかりだ。すごすぎて気絶しそう。

 ぽかんとしているうちにリリが戻ってきて、「見てた?」と嬉しそうに訊いてきた。私は言葉にならず馬鹿みたいにこくこくとうなずくことしかできなかったが、リリは満足そうに笑った。


「本当に飛ぶとは思わなかったわ」


 遅れて下りてきた梁川さんは信じられないと言いたげに呟き、スキー板を外した。

 リフトに乗っているときに梁川さんから「ゲレンデの端にジャンプ台があるから気をつけなさい」と言われ、ちょっと飛んでみるかと思ったらしい。恐ろしい子だ。


「ミコにかっこいいところを見せたくてね」


 そう言って笑うリリを、私は思わず抱き寄せてロシア帽ウシャンカの上から頭を撫で回した。

 これ以上ないほどかっこいい彼女だよ。最高。

 そんなリリといっしょに滑ってみたい気持ちが湧き上がってきて、もっと練習しないとと気合がみなぎる。

 そう思ってウェアについた雪を払い落としていると――


那須野なすの


 梁川さんが私を呼んだ。スキー板を置き、ストックも置いて、まっすぐ真剣な目でじっとこちらを見ている。

 え? 私、なんか悪いことした……?

 そんな風に見つめられる心当たりがなく戸惑っていると。


「ごめんなさい。昨日あなたに不快な思いをさせたことを謝ります。申し訳ありませんでした」

「うぇ……? なんで……? どういうこと……?」


 クラスどころか学年の女王様ボスのような梁川さんが深々と頭を下げた。

 それも、私に向かって。

 いや、悪いことをしたと謝る彼女を見たことがないわけじゃないから、その行為自体は別に珍しくもないんだけど、それが私に向けられているというのはレアだ。異常だ。天変地異の前触れだ。スノボを続けられなくなっちゃう。

 どうなってるの、とリリにヘルプを求めるも、リリはちょっと怖い顔をして黙ったまま何も言わなかった。

 いや、本当に何が起きてるのさ……?


「私、梁川さんに謝ってもらうようなことされたっけ……?」

「芝居のことよ。中学生に見せていいような内容ではなかったわ。りょが足りなくて、あなたに不快な思いをさせたことを謝罪させてください」

「えぇ……? 別に私、唐突なことで驚きはしたけど、不快だとか思ってないんだけど。だから梁川さんに謝ってもらうようなことは何もないよ?」

「本当に……?」


 伏し目がちに梁川さんが言う。

 ウソを言って何になるんだ。


「本当に。むしろ立派な別荘に招待してもらって、美味しいごはんを食べて、ゆっくり温泉に入って、初めてのスノボを楽しめたことを感謝したいくらいなんだけど」

「…………」

「梁川さん?」

「……そう。なら、よかったわ」

「……?」


 私の反応に心底安心したというように、梁川さんはこわっていた表情を緩めた。


 本当になんだったんだ……?

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