春夏秋冬

伊藤純

第1話 春

 四月が嫌いだ。

 新しい環境、新しい関係、新しい仕事に新しい自分。人々が希望を抱いて新たな道に踏み出す春。街ゆく人の顔は浮かしたばかりの蝶のように淡く、控えめに輝いている。

 くだらない。何がそんなに楽しいんだ。季節が変わるだけで生活が劇的に変化するなんてこと、あるわけないのに。

 なんでもかんでも新しくしておけばいいってもんでもない。何も変わらずに、そこにとどまり続ける人だっているんだから。

 四月が嫌いだ。

 花粉はまだまだ攻撃的だし、電車はしょっちゅう遅れる。乗り遅れないように必死な人並みに揉まれて気分が悪くなる。

 だから四月は嫌いだ。

 そう思っていたんだ。


 ***


 くあっと間延びしたあくびを噛み殺し、神永良太はレジに立っていた。

 ここは街の駅前にある本屋だ。

 政令指定都市とは名のつくものの、過疎化が進むこの街は、中心地の昼間でものんびりとした空気が流れている。そんな場所に建つここは、規模は小さめでも県内では名の知れた書店の、ターミナル駅前の店舗ということで、まあまあの集客率を誇っている。

 だが今日は四月一日。世間では新年度を迎える日だ。参考書や赤本を求めて殺到していた学生たちの姿は今やもうない。たった数ヶ月前のことなのに、あの日々が遠い過去のように店内は閑散としていた。皆新しい生活に心を躍らせているのだろう。

 時刻は十九時半。神永は腕時計に目を落とし、もう一度あくびを噛み殺した。

「神永くん。ぼーっとしてないで、そろそろ締め作業をおねがい」

「あ、はい。すみません」

 うしろから声をかけられハッと我に返る。慌てて作業を始めた神永の横に立ったのは店長だ。彼女は仕方がないなという顔で、くすくすと笑みをこぼした。

「お客様がいないからって、気が抜けた顔をしてちゃだめよ」

「はい。すみません」

 地方の店舗のいいところは営業時間が短いことだ。レジ締めをして、二十時の閉店を待って簡単に掃除と明日の準備をすれば、二十時半には帰路に着くことができる。今日はもう客は来ないだろう。その分駅前は歓迎会の酔客でうるさそうだ。小銭をトレーに移しながら神永は、そんなことをぼんやりと考えていた。

 神永が正社員として働きはじめて四年。大学生のころからアルバイトをしていたので、それを加えればもう八年もこの本屋に通っていることになる。本好きが高じて選んだ就職先だが、アルバイト時代から不満もなく続けていられるのは、環境がいいからだろう。

 給料は決して多いとは言えないが、贅沢をしない地方都市の一人暮らしなら十分に生きていける額は貰えている。県内に数店舗という規模もいい。どこの店舗も人は少ないものの、ゆるい社風のおかげである程度は自由に運営できて、それなりに居心地もいい。そのせいなのか、どこかの店舗で至急の人員補充が必要だという連絡もなく、異動もない。

 こんな安定した職場で、神永は安穏とした日々を送っていた。

「神永くん、またアンニュイになってるわよ」

「なんですかアンニュイって」

 神永は店長に胡乱な目を向けた。

 夫と子供二人、そして自身の両親と一緒に住む彼女は、「家族のサポートがあるから大丈夫なの」とずっと正社員として働いている。神永がアルバイトをしていたころからの付き合いだから、お互い気心も知れている。多少態度が崩れても関係にヒビが入ることはない。

「気だるげ? 年度末の忙しさから解放されて、一気に脱力するって感じかな。あとはなんとなく疲れてる。ちがう?」

「ああ。まあ、そんな感じかもしれません」

 神永は、四月になったとたんに人々が新しい生活に邁進する姿を見るのがいやだった。置いていかれると感じるわけでも、希望を胸にキラキラしている姿をうらやましいと思っているわけでもない。身を置いている環境には満足しているのだ。明日から異動、と言われれば退職するかもしれない、と考えるぐらいにはこの店舗が気に入っているし、人見知りの自分が新しい人間関係を築くなど、何の装備もなしにエベレストに登るぐらい困難なことだもわかっている。とても恵まれていることは自覚している。それなのにこの時期になると、どうにも不快感が込み上げてくる。

「四月は苦手ですね」

「めずらしいよね。春って前向きなイメージがあるのに」

「おれは暗いんで」

 神永の言葉を冗談と受け取った店長は、ケラケラと笑いながらバックヤードに消えていった。


 お疲れさまでしたと挨拶をして家路につく。夕飯はいつもコンビニかスーパーの惣菜だ。たまに遠回りをして弁当屋で買うこともある。つまり自炊はしない。何年か前に付き合っていた恋人が置いていった調理器具は、捨てるのも面倒でしまったまま放置してある。

 たまには人が作ったあたたかい料理が食べたい。そんなことを考えながら、神永はまだほんの少しだけ冷たさの残る夜風に当たりながらとぼとぼと歩いた。

 閉店時間ぎりぎりのスーパーで買い物を済ませ、家に帰り着いたのが二十一時。明日は早番だから夕飯を済ませてすぐに寝てしまおうと、買ってきたばかりの惣菜をレンジに突っ込んだ。それから手を洗い、上着をてきとうに脱ぎ捨てたところで、年季の入った電子レンジからチンと妙にうるさい音が鳴った。

 大学入学とともに入居したアパートは、当時まだ築浅だったが運良く角部屋が空いていた。それからずっと引っ越すこともなく居続けて、今では神永がいちばんの古株になった。とはいえアパートの住人と顔を合わすことはほとんどない。人見知りの神永にはそれがありがたく、地方特有の文化である大家との関わりも、ここでは皆無なところも気に入っていた。

「あ、トイレットペーパー切らしてたんだった」

 あたたまりすぎた惣菜のふたを開けたところで、神永は大事な買い物を忘れていたことに気づいた。朝の時点では帰りに買おうと思っていたのに、四月の空気に呑まれ知らず知らずのうちに感傷的になっていたせいで、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

「最悪」

 だから四月は嫌いなんだ。盛大に舌打ちをした神永は、いらだちとともに再び外へ出た。

「まだ夜は寒いな」

 パーカーのポケットに両手を突っ込み、徒歩五分のコンビニに向かう。駅から離れているため、人がいないのが幸いだ。これで駅前なんかに暮らしていたら、酔っ払いの熱気と喧騒にあてられて余計に腹が立っていただろう。

 春の夜道を煌々と照らす店内に足踏み入れたころには、いらだちも消えていた。とくに欲しいものなどないのに、カゴを持ち店内を一周する。なんとなく目についた、春らしいデザインの缶ビールを二本冷蔵庫から取り出すと、それで満足したのか神永はトイレットペーパーを持ってレジへ足を向けた。

 両手に荷物をぶら下げて歩きながら、ぼんやり霞んだ空を見上げる。夜空は季節を問わず黒い。ずっと昔からそこにあって変わらない。だから神永は夜空が好きだった。

 やはり今日は感傷的になる日らしい。だからなのかもしれない。いつも以上に空に見入っていた神永は、反対側からふらふらと歩いてくる人がいることにまったく気づかなかった。

 視線を下に戻したところですぐ目の前に人が現れて、思わず「うわっ」と大きな声を上げた神永の胸にどすんと衝撃が走った。

「いってえ……」

 足元には、神永に体当たりして弾き飛ばされたであろう男が、尻餅をついて転がっていた。どこか痛めたのか、男は顔を顰めている。

「あの、大丈夫ですか」

「んあ? あーだいじょうぶ。お兄さんは? へいき?」

 神永が差し出した手を拒否することもなく、男はへらりと笑う。自分の方が被害を被っているのに、彼に怒った様子はない。それどころか神永の方を気にかけている。

「おれは大丈夫です。すみせん。前を見ていませんでした」

「はは。いいよ、おれもあんまし、まえ、見えてなかったし」

 よいしょと言いながら立ち上がった男は、かなり酔っているのだろう。引っ張り上げられた勢いで足がふらつき、神永の胸に体が着地した。爽やかな香水と、酒の匂いがふわりと香った。

「……歩けます?」

「んー? ふふ。だいじょうぶ。家、ここだから」

 そう言って彼が指さしたのは、最近できたばかりのマンションだった。神永の家からもすぐ近くなので、ポストに入居者募集の広告が入っていた。

 ずいぶんといい部屋に住んでるんだな。そんなどうでもいいことが神永の頭をよぎる。よくよく見れば、男はサイズ感がピッタリと細身のスーツを着こなしていて、よくある量販店で買ったような安っぽさはどこにもない。左腕に光るメタリックの時計もきっと高いものだろうし、よく磨かれた革靴だって、素人目から見てもいいものだとわかる。

 きっといい会社に勤めて華やかな暮らしをしているんだろう。自分とは住む世界のちがう人種だ。そう結論づけた神永は、二度と会うこともないであろう彼の、スーツについた汚れを軽く払ってやると、「それじゃあ、おやすみなさい」と笑顔で手を振って歩き出した。

 家までの短い距離で神永は、去り際にあいさつをして笑顔まで浮かべた自分の行動を振り返っていた。いつもなら酔っ払いの相手なんてしないのに。どうしてあの人には手まで振ったんだろう。これも四月のせいなのか。だから四月は嫌なんだ。帰宅した神永は、この日二回目の舌打ちをして一日を終えた。


 神永の勤める本屋は十時が開店だ。早番の日は九時に出勤して準備を始め、昼休憩を挟んで十八時に退勤する。残業はほとんどしない。本当に恵まれている環境だ。社員であるが故にどうしてもやらなければいけない仕事が発生すれば残業するが、きちんと手当も出るし、だいたいの仕事は昼間にちょこちょこ時間を見つけて片付けられるため、残ることはめったにない。

 そんな早番の日の今日、ぽつぽつと夕方の客が増えはじめる時間に、その人は現れた。

「あ」

「あ、昨日のお兄さん?」

 レジに入っていた神永は、ふと顔を上げた瞬間に驚きの声を上げた。それに反応して真正面に顔を向けた客も、神永がだれか気づいたようで目を丸くしていた。

「こんにちは」

「まさかこんなところで再会するなんて。昨日はご迷惑をおかけしました」

 今日もまた洒落たスーツに身を包んだ彼は、照れくさそうに笑っていた。

「いえ。おれがぶつかってしまったので。怪我とか、してませんか」

「ああそれは全然大丈夫です。鍛えてるので」

 短く切り揃えられた色素のうすい髪。適度に整えられた眉毛の下にある切れ長の目。決して正統派ではないけれど、洗練された雰囲気が漂っている彼は、控えめに言ってもかっこよかった。それにたった二回、短い会話をしただけでもわかるほど、彼はコミュニケーション能力が高かった。きっとモテて、友達もたくさんいて、仕事もバリバリこなすのだろう。ますます自分とは住む世界がちがう人だ。そんなことを考えていると、下から覗き込むように神永を見る彼と目が合った。

「大丈夫ですか?」

「え、あ、すみません」

 まさかあなたのことを観察していましたなんて言えず、神永は慌てて彼が差し出した商品をスキャンしていく。この街のグルメ本二冊に文庫本。しかも文庫本は、文芸担当の神永がおすすめとして平台に積んだものだった。

「かみなが、さん?」

 自分のおすすめを手に取ってもらえた喜びで、再び目の前の人から意識がそれていた神永は、ほんの少し反応が遅れた。

「え? あ、はい」

「名前。神永さんていうんですか?」

 神永の反応のズレに気づいたのか、名札を指さしているその人は、いたずらっ子のような笑顔を向けていた。

「はい。そうです。神永良太です」

「じゃあこれ。わたくし、こういう者です」

 そう言って彼がうやうやしく差し出したのは、

「名刺、ですね」

 神永の予想のとおり、長方形の小さな紙にはだれもが知っている企業の名前が印字されていた。やたらに長い所属部署が、彼が大企業で働いていることを如実に示している。

「森本、楓さん」

「転勤でこっちに来て、昨日からこの街で働いてます」

 失礼にならないように両手で名刺を受け取ると、神永はそれをまじまじと見つめた。書店員という仕事柄、名刺を貰うような経験はほとんどない。版元の営業からたまに貰うことはあっても、それも数える程度だ。ましてやまったく関わりのない人の名刺を手にするなんて、神永にははじめての経験だった。

「すてきな、名前ですね」

「ありがとうございます。女っぽいと言われることはあるけど、褒められたのははじめてです」

「あ、え、なんか、すみません」

「なんで謝るんですか。神永さんておもしろいですね」

 そう言いながら森本は爽やかな笑顔を振りまく。それだけでレジ周りに溜まった澱みが浄化されるように感じた。太陽を直視してしまったときのような眩しさを感じ、神永はとっさに視線を下に向けた。これ以上見続けたらそのうち視力が失われそうだ。それだけ森本は、神永にとっては未知の生き物だった。

 森本の顔を見ることなく名刺を作業台の上にそっと置くと、神永は手早く文庫本にカバーをかけた。会計を終え本を渡す。ビニール袋を受け取った森本は、ちらりと後ろを振り返りだれも並んでいないことを確認すると、「ここ、いい本屋ですね」と微笑んだ。

「え?」

「おれ本屋が好きで、目についた本屋には入ってみるようにしてるんですけど、ここは店員さんの個性が出ていていいですね。見ていておもしろかったです」

「あ、ありがとう、ございます」

 客の大半は、近いからとか、品揃えがいいからとか、そんな理由で決まった本屋に通う。それが当たり前だと思っていたところに、まさかの担当者の個性を褒める人が現れた。神永の驚きは相当だった。

 大型とは言えないこの書店で、はじめて書店員としての仕事を褒められた気がした神永は、「やべっ。会社に戻らなきゃ」と急ぎ足で去っていく森本の背中をしばらく見つめていた。

「神永くん。またぼーっとしてる」

 背後からの店長の声も遠くに聞こえるほど、神永の意識は森本に向いていた。

「……あの人、ここはいい本屋だって言ってくれました」

「そうなの? それは嬉しいわね」

「はい」

「ちょっと、どうしたの? そんなんでレジミスされたら困るんだから、仕事中はシャキッとする!」

 背中を叩かれやっと我に返った神永だったが、めったにない客からの褒め言葉に、就業までどこかほわほわした気分が抜けなかった。

 ミスすることなく無事に退勤時刻を迎え、更衣室で着替えを済ませた神永は、人の少ない従業員通路を歩いていた。そんな彼の背中に「神永さん!」と明るくかわいらしい声がかけられた。反射的にうしろに振り返ると、そこにいたのは別フロアのアパレルショップで働くアルバイトの女の子がいた。

「お疲れさまです」

「神永さん明日お休みですよね? 私も今日はもう上がりなので、これから飲みに行きませんか」

 神永が働く書店が入っているビルには、他にもアパレルや雑貨など複数の店舗がある。従業員は全員が同じ休憩室と更衣室を使うため、長く働いていれば自然と顔見知りになる者も出てくるのだ。それに加え神永はイケメンに分類されるらしく、こうして女性から声をかけられることが今まで何度もあった。たしかによく見れば、黒々としたくせ毛はゆるやかなウェーブを描き少年のような若々しさを与えているし、アーモンド型の大きな目も魅力的だ。180近い長身はそれだけで目を引くものがあるし、運動はしていないが、重たい荷物を運ぶことが多々あるおかげで、細身ながら筋肉のついた男らしい体をしている。あまり外にも出ないため日焼けによるシミそばかすとは無縁の肌をしているのも、イケメンとささやかれる所以だろう。神永本人も、自分がそこそこの容姿をしていることにはなんとなく気づいている。だがそこはひねくれ者だけあって、やれイケメンだ、やれ芸能人のだれそれに似ている、などと言われてもまったくうれしくない。むしろ迷惑だとすら思う始末だ。だから今回のように下心のある誘いは、必ず断るようにしていた。とにかく面倒くさい。神永の頭にあるのはそれだけだった。

「用事があるので、すみません」

「もう。またそうやって断るんだから。次は絶対ですよ!」

 ぷくっと頬をふくらませる彼女は、神永への好意を隠そうともしない。男好きのしそうな容姿をしているのだからひくてあまただろうに、何度断られてもこうやってめげずに次へ繋げようとする。さっさと他の男へ乗り換えればいいのにとは思うものの、はっきり迷惑だと告げるのも面倒なので神永は彼女の好きにさせていた。

 適当に言葉を濁してその場を去れば、もう彼女のことは頭から消えていた。出会いと別れを謳うこの季節は、いつも以上に人との関わり合いを増やしたくない。そう思うものの、森本との出会いはすんなりと受け入れられた。結局は気分次第なのだろうと自嘲して、神永は帰路に着いた。


 休みの日はとくにすることがない。やることがないものだから、起きてからしばらくぼーっとする。やっと活動を始めるころには昼を迎え、昼食がわりの珈琲を飲もうとしたところで、ストックが切れていることに気づいた。まただ。また買い物を忘れた。春はどうも調子が狂う。

 ないものはしかたがないと、神永は脱ぎ散らかしたジーンズに足を突っ込み、財布だけを掴んで家を出た。

 外に出ればむわっと襲いかかる春の香り。くしゅんとひとつくしゃみをして、神永は漂う空気をすんっと吸い込んだ。

 天気がいいから駅前のデパートにでも行ってみるか。そんなふうに考えることも、春に毒されているようで嫌だった。

「神永さん?」

 神永が名前を呼ばれたのは、デパートまで足を運び、いつもよりいい珈琲とそれに合う焼き菓子、それから夕飯用にとてきとうに選んだ惣菜をぶら下げて歩いているときだった。

 だれかと思い振り返ると、そこにいたのは私服姿の森本だった。

「やっぱり神永さんだ。これで三日連続だ。よく会いますね」

 薄手のオーバーサイズニットとくるぶし丈のパンツに身を包み、足元はシンプルなスニーカーを合わせた森本は、スーツのときとはまたちがう爽やかさがあった。

「森本さん。こんにちは」

「買い物帰りですか」

「はい。森本さんは……大量ですね」

 森本が両手にぶら下げるエコバッグには、何人家族なのかと突っ込みたくなるほどの食材がパンパンに詰まっていた。

「引っ越したばかりで冷蔵庫に何もなくて。スーパーに行ったらあれもこれもと買いすぎました」

「……持ちましょうか?」

 鍛えていると言った森下だが、ニットのなかで泳ぐ体は服の上からでもわかるほど細い。多少の筋肉はついているだろうが、どう贔屓目に見ても神永より貧弱だ。だから無意識のうちに神永は、森本が持つエコバッグの、より重そうな方に手を伸ばしていた。

「通り道なんで、家の前まで持ちます」

「え、いいの?」

 実は重くて手がもげそうだったと笑う森本は、私服だと少し幼く見える。ずしりと重たいエコバッグを肩に担ぎ、神永は森下の横に並ぶ。横目に森本を見ると、彼が肩から下げるエコバッグから長ネギが顔を出していた。生活感を出す食材の代表格であろうネギを持っていても、森本ならおしゃれに見えてしまうのだから不思議だ。そんなことを考えているうちに、どうやらまじまじと彼の横顔を眺めていたらしい。森本が「なに?」と小首をかしげて聞いてきた。

「いやあの、森本さんておしゃれだなと思いまして」

「ありがとうございます。まあそれなりに気を使ってますけど、休日は楽重視ですよ。この服だってもう何年も着てるからテロテロにになってますもん」

「そうですか」

 悲しいほど会話を広げるのが苦手な神永は、もう次の言葉が浮かばずに、足下に視線を落とした。土曜日だというのに、中心部から離れた住宅街は静かだ。ぴちぴちと鳴く小鳥の声に耳傾けながら、神永は今度は白いベールを纏ったような紗がかかった空を見上げた。

「今日はお休みなんですか?」

「はい」

 会話のキャッチボールとは。自他ともに認める人見知りのせいで、神永はまたしても会話を終了させてしまう。神永をよく知らない人からすれば、彼が会話を拒んでいるように感じる場面でも、森本は沈黙を気にするそぶりも見せず穏やかに会話を続ける。

「あそこにはずっといるんですか」

「そうですね。大学一年のころからなんで、もう八年になります」

「えっ」

「え?」

「あ、ごめんなさい。神永さん、落ち着いているので同い年ぐらいかなと思っていまして……」

「はあ」

「人を見る目には自信あったのになあ。そっか二十六歳か」

 それはつまり老けているということか失礼な。あんたが若作りしてるだけじゃないのか。だが森本には神永を老け顔だと馬鹿にする様子などなく、純粋に自分の勘が当たらなかったことを悔しがっているふうだ。それを見ていたら、神永に一瞬湧いた毒気がするすると抜けていく。

「森本さんはおいくつなんですか」

「おれは二十九歳。もうすぐ大台」

「三つちがいってことですね」

「だな。じゃあそういうことで、神永くん」

「どういうことですか」

「おれの方が年上だし、変にかしこまるのもアホらしいだろ。あれ実はけっこう疲れんだよね。神永くんとは出会い方も運命的だったし、もう猫かぶんなくていいよな」

「はあ」

 神永は、相手が年下だとわかった瞬間に態度を変えてくるような人間が嫌いだ。勝手に納得して勝手になれなれしくするんじゃねえ。いつもそう思う。だからそんな人とはなるべく距離を置く。それでいけば、目の前にいる森本はまさに神永の嫌いなタイプに当てはまる。それなのに、なぜか不快感は起こらなかった。それどころか、まあいいかとまで思っていた。

「ところでさ、神永くんの本屋の文芸担当ってだれ」

「文芸担当ですか」

「そう。本の選び方がおれ好みなんだよ。ああいうのって個人が出るじゃん。なんかすげえ気が合いそうなんだよね」

 おれです。それ、おれです。喉元まで迫り上がる言葉が音になって出てこない。言いたいのに、嬉しさが大きくて喉にふたをしてしまったみたいだ。

 目を丸くして固まる神永を見て、森本は何かまずい質問をしたと思ったのだろう。まさか企業秘密なのかと見当違いな質問を投げかけてきた。それがなんだがおかしくて、神永は失礼だとは思いつつもぶはっと吹き出した。

「あ、なんで笑うんだよ」

「ただの街の本屋に企業秘密なんてありませんよ。すみません、担当はおれです。いきなりで驚いてしまって答えられませんでした」

 突然笑われて不満をあらわにした森本だったが、興味を持った文芸担当が神永だとわかった瞬間に「なんだ」と破顔した。

 くるくる変わる表情が見ていて飽きないな、と感じた神永は、知り合って間もない相手にそんなことを思う自分が、春の陽気にやられているのかもしれないと恥ずかしくなってきた。だからそれをごまかすように自ら質問することにした。

「小説が好きなんですか」

「うん好き。趣味は読書と料理」

「へえ」

「意外だと思ったろ?」

 図星をつかれ口ごもったのは人見知りのなせる技か。上手なあしらい方を知らない神永は、こんなときどう返せばいいのかわからず素の反応が出てしまう。だが森本はそんな神永の態度を不快だとは捉えなかったようで、ニシシと笑うと空いた腕で神永の肩に軽くパンチをしてきた。

「いたっ」

「おれはな、ギャップ萌えを狙ってんの」

「ギャップ萌え、ですか」

「そう。おれこんな見た目と性格だからさ、チャラく見られることが多いんだけど、実は料理が好きで本もたくさん読んでますって言われたら興味湧くじゃん? しかも企業のお偉いさんて読書家とグルメが多くてさ、仕事にも活かせるわけですよ」

 そう言って森本は得意げに笑った。切れ長の目が細められ、こんなふうに笑うとかわいくなるもんだなと不覚にも思ってしまった神永は、やはり春は調子が狂うから嫌いだと、心のなかで深いため息を吐いた。

 二人でだらだらと歩けばもう森本の住むマンションの前だった。

「ありがとう。まじで助かった。意外に力持ちだね」

「仕事で重たいものはよく持つので慣れてますから」

「そっそっか。じゃあまた本屋で。おれあそこ通うよ」

「はい。お待ちしています」

 森本と別れたあとは、苦手な春爛漫の陽気だというのに、踏み出す足がこころなしか軽く感じた。帰ったら珈琲ではなく惣菜をつまみにビールでも飲んでみようか。ほんの少しうきうきしている自分に気づいたが、このときは嫌だとは思わなかった。やはり気分次第で好き嫌いは変わるらしいと、神永はこの時期の低迷感にそう結論づけた。


 あれから森本は、宣言どおり書店に通うようになった。週に一回か二回、出先の帰りという平日の中途半端な時間か、忙しいときは土日のどちらかに顔を出し、そのたびに本を買っていく。神永の手が空いているときはおすすめを聞き、混雑時にはポップやオビを見て直感で決めるのが彼のやり方だ。持って生まれた人懐っこさで、神永以外の書店員とも会話を交わすようになると、森本の知名度は一気に上がり、通いはじめて三週間ですでに常連扱いされるようになっていた。

「おつかれ」

「いらっしゃいませ森本さん」

 季節は進み気温も高くなっていくなかで、今日の森本はジャケットを腕にかけ、爽やかなライトブルーのシャツの首元をゆるめた姿で現れた。まくった袖から伸びる腕は細く、神永はいまだに森本が鍛えているという言葉は嘘だと思っている。

 森本が隣に立った。ふわりと香ったのは出会った日にかいだ香水だ。主張するでもなく、かと言って周囲のにおいに消されるわけでもなく、森本が動くたびにほどよく空気に溶けていく。モテる男は香水の付け方もかっこいいんだな。神永は本の整理をしながらそんなことを考えていた。

「なあ。この前の本、めっちゃよかった。あれはさ、恋愛ものと思わせておいて実は主人公の成長をテーマにしてるだろ? 爽やかな文章なのに裏切りや欺瞞がこれでもかとあって、読んでてゾクゾクしたわ」

「そうなんです。あれは男性にこそ読んでほしい作品なんです」

「いやほんと、神永のおすすめは外れないな」

 このころにはもう、森本は神永を呼び捨てにしていた。「くんづけってリズムが悪いよな」というよくわからない理由で、ある日突然「神永」や「おまえ」と呼ばれるようになった。そしてこれが全然嫌ではなかった。ぐいぐい距離を詰めてくる人間が嫌いなはずなのに、なぜだ、と神永自身が困惑するほど、呼び捨てに対する抵抗感はなかった。とはいえ神永は人をいきなり呼び捨てにする度胸はないので、相変わらずさんづけで呼んでいる。

「森本さんて読むのはやいですよね」

「そうか? 一週間に一冊か、多くて二冊だぞ。休憩時間とか休みの日に読んでればすぐじゃん」

「え……休みの日はどこにも出かけず家に閉じこもって読書……」

「おい。ぼっち扱いすんな。友達ぐらいいるわ」

 ジト目でにらむ森本だが、本気で怒っているわけではない。短い付き合いのなかで知ったことだが、森本は実はインドア派で、家で過ごす時間を大切にしている。明るくだれとでも仲良くなれるし誘われればどこにでも行くが、ひとりでいても苦にならない性格で、家がいちばん落ち着くのだそうだ。だから住む部屋にはかなりこだわると言っていた。

「わかってますよ。森本さんは家大好きっ子ですもんね」

「なんかその言い方うざい」

 森本の性格がそうさせるのか、気づけばこうして軽口をたたけるようになっていた。人見知りの神永が、短期間で他人と距離を詰めるなんて考えられなかったことで、あの神永を手懐けた男として、森本の株は現在急成長を遂げている。

 そんな日々を過ごしている間に時は過ぎ、明日から大型連休が始まるというその日、閉店間際に書店にやってきた森本は、スーツに不釣り合いな大きなビニール袋を下げていた。

 たまたま接客中で神永は手が離せなかったため、森本は別の店員と話しはじめた。ビニール袋の中身を見せ、楽しそうに会話している姿を見ると、あらためて彼のコミュニケーション能力の高さに驚く。たったひと月で、彼はもうこの店の全員と話すようになっていた。

「こんばんは森本さん」

 対応を終えた足で森本の元へ向かう。だれとでも仲良く話すとはいえ、森本担当は神永だと暗黙の了解ができあがっているのだ。それは神永自身もそう思っている。

「こんな時間に来るのめずらしいですね」

「おう。見てよこれ。これを神永に見せたくてさあ、会社帰りに寄ってみた」

 にやにやしながら森本が掲げたビニール袋には、なにやら茶色い物体が入っていた。

「それは……」

 地方出身の神永はひと目でわかった。中身は間違いなくあれだ。この時期になると客やスタッフ同士の会話で必ず登場する、

「たけのこ、ですか」

「そう。掘りたてのたけのこ。出勤したら会議室に置いてあった。おみやげにお菓子はよく見るけど、たけのこをどうぞなんて職場はじめてで興奮しちゃった。ごんぎつねみたいで最高だよな。で、すかさず欲しいって手をあげたわけ」

 森本は興奮で目を輝かせている。いつもより早口なのも高揚しているからだろう。まるで宝物を見つけた少年のようだ。

「これ、どうするんですか」

「そんなの料理するに決まってんじゃん」

「……森本さんて、本当に料理するんですね」

「おまえ信じてなかったの?」

「なんかこう、もっとおしゃれな、横文字系の料理を作るのかなと思ってました。まさか、たけのこを下ごしらえから調理するなんて思いませんよ」

 しどろもどろになる神永に対して、森本は「ははーん」とうさんくさい返しをする。そして得意のにやにや顔だ。

「ギャップ萌えだよ神永くん」

「これが、あの?」

「そう。なにこいつ、こんな見た目でたけのこのアク抜きなんかしちゃうわけ? って興味出たでしょ?」

「まあ、はい。そうですね」

 森本は「それが狙いなんだよ」とくふくふ笑っている。男相手にギャップ萌えを狙っても意味がないだろうとは思いつつも、楽しそうな森本を前にそれを言葉にするのはやめておいた。

「なあ神永。明日の予定は?」

「明日は早番なので十八時上がりです」

「そのあとの予定は?」

「家に帰ります」

「よし。じゃあ十九時におれの家に集合」

「へ?」

「へ? じゃなくて。たけのこ料理ごちそうするから食いにおいでって言ってんの。さすがにおれひとりじゃ食いきれないし冷凍庫がパンクする」

「いいんですか?」

「いいよ。たくさん作るから楽しみにしといて」

 実は神永は春の食材が好きだ。大地を味わっているような素朴で力強い味わいがいい。春は嫌いなのに春の食材は好きだなんて皮肉もいいところだ。だからこれはだれにも言ったことがないし言うつもりもない、神永の秘密だった。


 翌日、定時に上がり着替えを済ませ、神永はワクワクした気分で従業員出口に向かって歩いていた。駅前のデパートで手土産を買って、家に着いてシャワーを浴びたらちょうどいい時間だろう。森本の住むマンションは目と鼻の先だ。五分前に家を出てもまだ余裕があるぐらい近い。

 時間を逆算し予定を立てていた神永は、頭のなかは今夜の筍のことでいっぱいで、自分の名前を呼ばれていることに気づかなかった。だから背後からぐいっと腕を引かれたときは、驚きのあまり勢いよく振り払ってしまった。

「きゃっ!」

「あ、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

 まずいと思い振り返ると、そこには神永に好意を寄せるあのバイトの女の子が、胸の前で手を握りしめて立っていた。

「こめんなさい、ぼーっとしてて。怪我、してないですか」

「手が、痛いです」

 そう言って上目遣いに見つめてくる彼女の手の甲は、神永の手が当たった部分がうっすら赤くなっていた。

「本当にごめんなさい。冷やした方がいいと思います。食堂で保冷剤を貰ってくるので、休憩室にいてください」

 たかが手が当たっただけだ。赤みだってすぐに引くだろう。だからそこまで心配する必要はないとは思うが、男女の力の差は予想以上に大きいかもしれない。それに、いきなりうしろから腕を掴まれたとはいえ、結果的には彼女が被害者だ。放置して帰るなんてできない。神永は念のためという意味を込めて、自分ができることを提案した。

 ひと足先に食道に向かい、保冷剤と清潔な布巾を貰った神永は、休憩室にぽつんと座る彼女のもとへ駆け寄った。

「これどうぞ。返さなくていいそうなので、使い終わったら捨ててください、だそうです」

「ありがとうございます」

「すみませんが、これから用事があるので帰ります。もし病院に行くなら治療費は出しますので、言ってください」

「まって!」

 立ち去ろうとする神永を呼び止めた彼女は、涙を溜めた瞳で神永を見上げると、「連絡先を教えてもらえますか? 何かあったらすぐに連絡するので」と言った。神永のことを狙い、何度断られても食らいついてくる肉食獣的な獰猛さを持つ彼女が、この好機を逃すはずがない。

 痛みを我慢するうるんだ瞳でそう言われたら、断るという選択肢はなくなるわけで、神永は面倒なことになったと内心うんざりしつつもスマホを取り出した。

 思わぬ事態に時間を取られた神永は、とにかく手土産だけは絶対に買わなければいけないと、謎の使命感を持ってデパートへ走った。連絡先を交換し終わったとたん笑顔になった彼女に出口まで一緒に行こうと誘われたが、それをなかば遮るような形で神永はその場を離れた。もう一分一秒たりとも時間をむだにできないと思ったのだ。森本が甘いものが好きかどうかわからないため、無難なくだものにしておこうといちごを選び、それから大急ぎで帰宅した。

 家に入るや否や風呂場に急行し、ざっとシャワーを浴びて出たところで時刻は十八時五十分。なんとか遅刻しないですみそうだと息を吐いた。てきとうに髪を乾かして、洗ったばかりのTシャツと、部屋着にも大活躍のジョガーパンツを穿けば準備は完了だ。

「あ、そうだ」

 ふと冷蔵庫に入れっぱなしだったビールを思い出した。森本と二回目の邂逅をしたあの日は、家に帰った瞬間に浮かれ気分はどこかに消え失せ、結局ビールは飲まずにいつもどおりの休日を過ごした。それからずっと手に取ることなく、二本のビールは冷蔵庫の主に成り果てた。今夜こそ日の目を見るときなのではないかと、とっさに思いついたのだ。

 我ながらいいアイデアだ。神永は雑誌の付録だったトートバッグにビールを入れ、イチゴを持って森本の家に向かった。

 森本の部屋は五階建てマンションの最上階、角部屋という好条件だ。駅から徒歩十五分という微妙な立地とそのわりに高めの家賃がネックになり、ターゲットであるDINKS世帯の食いつきがあまりよくなかったようだ。一方の森本は、静かな環境を望み、かつコンビニとスーパーがすぐ近くにあるという立地がいたく気に入った。本数は少ないが駅までバスも走っているので、雨の日でも問題なしと判断するには十分だった。それに加え部屋の条件も文句なしで、内見したその日のうちに契約したそうだ。

「たしかにこの辺は静かですよね」

「前に住んでたところはにぎやかでさ。それはそれで遊びに出るには便利でよかったけど、こっちではのんびり暮らしたかったんだよな」

 出汁の香りが漂うキッチンで、ぱちぱちいい音をあげて爆ぜる油を真剣な表情で覗き込みながら、森本は器用に手と口を動かしている。今日の森本はだるっとしたTシャツとスウェットというラフな格好をしている。いつもと印象がちがうと言った神永に対し、「朝からずっと料理をする日は汚れてもいい楽な服に限る」と得意げに言っていた。

「前はどこにいたんですか」

「東京」

「シティーボーイですね」

「なんだそれ。年齢ごまかしてるだろおまえ」

 あははと笑いながらも、森本はペースを崩さず天ぷらを揚げていく。とろりとした衣をまとったたけのこが黄金色の油にするりと落とされる。じゅわっと音がするたびに、神永の空腹も限界に近づいていく。

「東京にいたら、こっちはつまらないんじゃないですか? 刺激がないでしょう」

「そんなこともないかな。そりゃ東京に比べたら娯楽は少ないけど、ここは穏やかでいいよ。しかもこんなに立派なたけのこが貰えるし。おれはもうここに骨を埋めてもいいと思ってる」

「簡単に釣られすぎじゃないですか?」

「あはは。チョロいってよく言われる」

 ぽんぽんと飛び交う会話が心地いい。こんなにもだれかと一緒にいて楽しいと感じるのは久しぶりのことだった。

 神永とて友人はいるが、社会人になり生活が変わり、自然と会う機会は減っていった。今では一年に一回会えればいい方だが、寂しいとは思わない。それが大人になることだと受け入れているし、そうやってそれぞれの日々を生きていくのだと思っていた。

 だがこうして大人になってから新しくできた関係が、こうも居心地がいいことには不思議な感じがする。友人ともちがう、かといって知り合いと括るほどのよそよそしさもない。そんな森本との名前の付けられない関係が、今の自分にしっくりきていることが意外だと感じていた。

「そろそろできるから手伝って」

 森本とのことに思いを馳せていた神永は、自分を呼ぶ声にハッとして立ち上がった。カウンターから離れキッチンのなかへ移動する。

「ごはんよそって。おれは少なめ。神永は好きなだけどうぞ」

「うわ。いいにおい」

「な。春って感じ」

 炊飯器のふたをあけたとたんに舞い上がる炊き込みごはんの香りは、森本の言ったとおり、春のにおいがした。

「今日はたけのこ祭りだからな。たっぷり入れてやったぜ」

「最高です」

「なに? たけのこ好きなの?」

「はい」

「そうかそうか。好きなだけ食っていいからな。余った分はおみやげにすればしばらく楽しめる」

「ありがとうございます。森本さんが神様に見えました」

 真剣な表情でそんなことを言う神永にぶはっと吹き出した森本は、この発言が気に入ったらしく「おれはたけのこの神だ!」と大はしゃぎだった。

「それじゃあ、いただきます」

「いただきます」

 テーブルの上には森本が腕をふるったたけのこ料理がところ狭しと並べられている。若竹煮とたけのこの天ぷらに、香ばしいにおいを放つバター醤油焼き。さらには炊き込みごはん、まさにたけのこ尽くしだ。

「おすましもあるけど飲む? おれは酒飲むから、神永のタイミングでどうぞ」

「おれもまずビール飲みたいんで、あとでいただきます」

「了解」

 ん。と森本が持ち上げたビール缶に、神永は自分の缶をこつんとぶつけた。桜の花がプリントされた銀色の缶は、自宅から持ってきてすぐに森本宅の冷蔵庫に移したおかげでよく冷えていた。

 森本はごくごくと喉を鳴らしながらビールをおいしそうに飲んでいる。料理には並々ならぬこだわりを見せるのに、ビールは面倒だから缶のまま飲むらしい。そんなバランス感覚はむしろ好ましいと思う。神永も負けじとビールを流し込み、炭酸の刺激を楽しんだ。

 まずはあたたかいうちに、と天ぷらに箸をのばす。噛んだ瞬間、衣のさくっとした歯ざわりを感じ、そのすぐあとに絶妙に火の通ったたけのこのシャキほく感が追いかけてきた。森本おすすめの藻塩をぱらりと散らしただけなのに、こんなにも素材の味とうまみを感じられるのかと、神永はしみじみと感動していた。

「すごくうまいです」

「な。たけのこ最高」

 バター醤油焼きを飲み込んだ森永は満足そうに頷いている。こんがり焼けたたけのこはつやつやと光り、箸で持ち上げただけで焦げたバターと醤油の香りがぷわんと漂う。厚めに切ってあるおかげで食感もいい。

「森本さんすごいです」

「おれ天才だろ?」

「はい。というか、神です」

「おまえなあ、そういうのは真顔で言うなよ。冗談か本気かわかんないじゃん」

 一本目のビールを飲み終えた森本は立ち上がり、ぱたぱたとスリッパを鳴らして冷蔵庫に向かう。二本目いる? と振り返った彼の手には当たり前のように缶が二本握られていた。戻ってきた森本からよく冷えたビール缶を受け取ったところで、そういえばと前置きして神永は言った。

「表情筋が死んでるとよく言われます」

「ん? ああさっきのね。たしかに、だいたい眠そうだもんな」

「え」

「え?」

 あまり感情が表に出ない神永は、クールだとかミステリアスだとか言われることが多い。ただそれは彼と接点がない人の意見であり、神永のことをよく知る人は、今の森本のように眠そうだと表現する。知り合って間もないのに、森本が自分のことを眠そうだと思っていたことに、少なからず衝撃を受けていた。

「会って間もない人に眠そうだと言われたことがないので、びっくりしました」

「そうなん? あれか、クールとか言われちゃうタイプか。まあたしかにイケメンだもんなおまえ。初見じゃクール系に間違われるよな。でもおれは人を見る目がありますから? おまえのエセイケメンムーブは通じませんねえ」

 そのわりには年齢を間違えていたくせに。とは言わなかった。神永は純粋に感動していた。

「森永さんてやっぱり神なんですかね」

「んふふ。だから真顔で言うなっての。じゃあそんな神様のおれから神永くんにお知らせ。さっきからスマホ鳴ってる」

 森本に言われて耳をすませば、リビングの床に置いたトートバッグからたしかに振動音がする。メッセージであれば無視するが、ブブッと鳴り続けているのはきっと電話だ。仕事の連絡もあり得るのでさすがに電話を無視するのは気が引ける。神永はひと言ことわってから席を立った。

 無視すればよかった。画面に表示されている名前を見た瞬間、神永は激しい後悔に襲われた。無意識のうちに舌打ちがもれる。

「なんだよ神永くん。怖い顔しちゃって、彼女がしつこいの?」

 背後から森本のからかう声がする。神永は大きく息を吐くと、くるりと振り返った。

「彼女じゃないです。でもしつこいのは当たってます」

 数時間前に連絡先を交換した、あの彼女からの電話だった。電話の前にも何通かメッセージが届いており、神永のスマホの画面は彼女に支配されていた。

 一通目は「家に帰ったら連絡していいですか」。二通目は「これから帰ります」。三通目は「お風呂から上がったら電話しますね」。そして今だ。一度止まった振動は、数秒あけて再開した。

 正直言って気持ち悪い。万が一のときのために連絡先を交換しただけであって、これではまるで恋人のようではないか。

 この気味の悪い状況をひとりで抱えていたくなくて、神永はスマホを掴んだままテーブルに戻り、森本にメッセージを読むように促した。

「不慮の事故で連絡先を交換したらこれです。緊急連絡先のはずなのに、こんなことされたら、おれが喜んで向こうに番号を教えたみたいじゃないですか」

「……これは、やべえやつだ」

「やべえですよね」

「うん。おまえにその気がないなら迷惑だってピシャッと言え。放っておいたら面倒なことになる」

「やっぱりそう思いますか」

「おまえを狙ってなきゃ、わざわざ風呂上がりの姿を想像させるようなことは言わない。この子はおまえが好きだし、かなり強引なタイプっぽいから、明日になったら職場中におまえのことを言いふらすかもな」

「うわ」

 またしても舌打ちが出る。せっかくの楽しい気分が台無しだ。おれの時間を返せ。おいしい食事の記憶をこんな気持ち悪い行動で消してくれるな。

「彼女がいるとか言えばいいじゃん。てかさ、今さらだけど彼女いないの?」

 スマホを返した森本は、ほら食えよと食事を再開するように促してくる。スマホの電源を落とし、重たい手つきで箸を取る。もやもやした気分を抱えてもなお、森本の作った料理はおいしかった。

 炊き込みごはんの優しい出汁の香りが神永のささくれだった心を丸く整えていく。もくもくと咀嚼して、飲み込んで、だんだんと心が穏やかになっていく。

「彼女はいません。そういうの面倒なんで」

「若いのに枯れてんなあ」

「そういう森本さんはどうなんですか。三つしかちがわないんだから、森本さんだって若いでしょう」

「彼女がいたらおまえを呼ぶわけないだろうが」

「森本さんだって枯れてるじゃないですか」

「おれは面倒とかそんな理由でいないんじゃございません」

「じゃあなんですか」

「ヒミツ」

 わざとらしくしなを作られても不快感はない。ぶすくれたままの神永の気分を上げるために茶化してくれているのだとわかるから、腹が立つなんてことはありえない。事実、神永の機嫌はもうすっかり下に戻っていた。ただあと少しだけ、森本の優しさに甘えていたかったのだ。

「ほら元気出せよ」

「森本さんがおかわりをよそってくれたら元気出ます」

「はあ? わがままかよ」

「いいんですか。このままだとおいしいごはんが台無しですよ」

「なんでおまえが言うんだよ」

 不満げに言う森本だが顔は笑っている。しょうがないなあと言いながらも鼻歌まじりで席を立ち、「どれぐらい?」と確認してくれる優しさが嬉しい。

「大盛りでおねがいします」

「はいよ」

 しばらくして戻ってきた森本の手には、神永のリクエストどおり、茶碗にこんもりと盛られた炊き込みごはんが鎮座していた。

「もしかしてたくさん食べる人?」

「コンビニ弁当とか惣菜は味が濃いのでひとり分でいいんですけど、森本さんの作るものはとてもおいしいのでたくさん食べたいです」

「うれしいこと言ってくれんね」

 豪快に食べ進める神永を見ながら、森本はゆっくりと食事を楽しむ。二人のペースはまるでちがうが、それを気にする様子もなく、お互いにこにことご機嫌で箸を進めていく。料理がまったくできない神永は、いつもひとりで出来合いのものを食べてきた。だから、だれかが作ってくれたあたたかい食事を、そのだれかと食べることが、こんなにも楽しいことなのだと忘れていた。

 気づけば神永はほとんどの料理をたいらげていた。これには作った森本も「すごいな」と目を丸くしていた。

「おいしかったです。ごちそうさまでした」

「これだけ食べてもらえたら作ったかいがあったわ。こちらこそありがとう」

 ぺこりと頭を下げられ、神永はいやいやと両手を振った。お礼を言うのはこちらの方だ。いちごと缶ビール二本だけで、こんなに豪華でおいしい料理をたくさん食べさせてもらった。これでは需要と供給のバランスが悪すぎないか。とうせならひと粒五百円ぐらいのいちごにすればよかった。なんてことを考えていたせいで、「次はおれが材料費を出します」なんて、さも次を期待しているようなことを口走ってしまった。

「ん? また来る?」

「あ、いや、あの、べつに催促しているわけでは……」

「あはは。おれの料理気に入ってくれたんだ。いいよ。またおいでよ」

「……いいんですか?」

「うん。おまえの食いっぷりは見てて気持ちいいし、毎回こんな豪華なもんは作れないけど、たまに一緒にご飯食べられたら楽しいじゃん」

「うれしいです」

「それじゃ連絡先の交換をしよう」

 テーブルに伏せたままのスマホをいそいそと持ち上げ起動する。電源が入った瞬間に、複数回の着信履歴と「連絡待ってます」のメッセージが飛び込んできたが、もう動揺はしなかった。無言で森本に画面を見せると、森本はからかうような目を神永に向けた。

「毎日連絡しちゃおうかしら」

「森本さんなら毎日でも大丈夫です」

 神永はただ思ったことを言ったまでだ。それなのに森本は、呆れたように息を吐いた。

「おい神永。おまえそういうとこだぞ。そうやって期待させるようなことを言うから相手がつけあがるんだ」

「え、いきなりダメ出しですか」

「とにかく、その子にはちゃんと言えよ。自分の身を守るためにも、意思表示はすること」

 真面目な顔をしてそう言った森本の口調は、彼にしてはめずらしく硬かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春夏秋冬 伊藤純 @uzuguruguru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ