復活

@qwegat

本文

 灰色の障子に染み渡った黒が、狐の頭部の輪郭を結ぶ。

 僕は掛け布団にくるまって、柔らかい枕に頭をうずめながらそれを見る。黒の塊は現在進行形でその形状を変じていき、例えば耳が傾いたり、口の形が変わったりする。しかしそのような些細な変化以前の話として、碁盤目状に張り巡らされた木枠の狭間にいるのは、一貫して一匹の狐だ。どれだけ細部が変わっても、犬や兎になったりはしない。

 天窓からさらさらと射し込んでくる月光を遮り、母の右手が空中で動く。

 母の人差し指が折り曲がるのに合わさって、影の狐がしょんぼりする。母の親指が力を込められるのに合わさって、影の狐が激怒する。テンポよく進んでいく感情の変遷は面白おかしくて、僕としてはかなり気に入っている。かつて抱いた幽霊への恐怖など、今は欠片も残っていない。

 だんだん眠くなってくる。

 名前を知らない虫の切なげな鳴き声、月桂が白く染めた母の二の腕、蛍光灯から垂れ下がったゆらゆらと揺れる紐、狐のべらぼうに長い首、肺の中にまで浸透しきった暗闇。

 そういうものたちが大挙して、徹底して僕を寝かしつけようとしてくる。

 意識が軽やかに飛び去り始めて、反対に瞼の重みは際限なく増していく。狐と障子の境界線がどんどんどんどんぼやかされていき、最後にはのっぺりとした鼠色だけが残るだろうと予測できる。

 自分が起きているのか寝ているのかわからないまま、僕は寝た。



 そういう記憶を持っていたので、ディスプレイに浮かぶ『第五〇九二問:〈復活者〉は回答者の恐怖を頻繁に沈めていた』という文字列の下にある三つのラジオボタンの中から、僕は『はい』のラベルがついたものを選んだ。マウスカーソルを合わせてクリックし、第五〇九三問に移る。

 〈復活機関〉が送り付けてきたアンケート・ソフトウェアには、生前の母に関する質問がだいたい一万問収録されている。なかなか骨が折れる数字ではあるけど、別に完答することが不可能なわけでもない。現に、既に全体の半分は片付いている。

 収録質問数は〈復活〉対象との関係の深さによって決まるらしい。「実の息子」より関係が深い人間なんてなかなかいないだろうし、僕の一万問という数字は、ほとんど上限値に近いといっていいだろう。

 自由記述ならともかく、「はい・いいえ・わからない」の三択問題だけで一万問というのは、死者を〈復活〉するにしては少なすぎるような気もする。もちろんアンケートに答えるのは僕だけでなく、生前の母とある程度関わった人々――同僚、友人、行きつけの喫茶店の従業員――でもあるわけだけど、それを全部ひっくるめてもまず十万問には届かないだろう。人間の性格って「はい・いいえ・わからない」十万個程度で表せるものなのだろうか? 疑念は尽きないのだが、〈復活機関〉が言っている以上従うしかない。

 このアンケート・ソフトウェアはインターフェースがあまりモダンではなくて、正直言って使いやすいものではない。一問答えるたびに数秒のローディングが挟まれるのは流石に何とかできなかったのかと思う。とはいえ僕にはどうしようもなく、実際に起こったローディングのあとには、次なる質問が表示されている。

『第五〇九三問:被〈復活者〉は回答者をよく叱った』

「『いいえ』だなあ」

 僕はすばやくラジオボタンをクリックし、アンケートはまたローディングに入る。

 画面内でのろのろと進むプログレスバーを見ながら、あさっての出勤日までに片付くと良いな、と思った。



 母が〈復活〉した。

 〈復活機関〉が全国各地に構える〈復活〉施設は、一つの例外もなくすべて巨大だ。横に、縦に、奥にまんべんなく大きい。僕が今立っている廊下もまた同様に広大であり、高い天井と広い横幅と長い道筋で見る者を圧倒する。照明の光も妙に強く、床に落ちる影たちの輪郭は、ピントを合わされたみたいにくっきりしている。

 廊下の左右を走る白い壁には、部屋番号を示すプレートたちが並んでいる。僕はそのうち用のある一つを探し、見つける。プレートの前に歩いていって、そのちょうど真下にある灰色のボタンを押す。このボタンはチャイムのようなもので、普通の家の玄関なんかにあるやつと違うのは、押した人間にはチャイム音が聞こえないことだ。

 プレートとボタンの左、磨りガラスでできた扉の向こうで、解像度を下げられた影が動くのが見える。影は見るからに扉の取っ手に手を伸ばしている。扉が開く。磨りガラスの表面を、青白い蛍光灯の光が撫ぜる。

 そこには母が立っていた。

 この年齢の女性にしては高く、しかし僕には及ばない程度の背丈。睥睨とも微睡とも違う独特のまなざし。〈復活者〉用らしい水色の服に身を包んでいることさえ除いてしまえば、その外見は死の直前とまるで変わらない。

 すこし唾をのむ。

 僕は〈復活〉という技術にほとんど触れてこなかった。父はこの技術が確立される前に死んだ。きょうだいはおらず、親しい知り合いが〈復活〉したこともない。二、三度会話したくらいの人のアンケートが回ってきたことは何度かあるけど、どれも五十問に満たない程度の簡単なものだった。僕の目の前にいるのは人生初の、本格的な〈復活者〉なのだ。

 母が口を開く。

「なんだか変な感じね」

 その言葉選びとか発音とか声質とか抑揚とかのあらゆる要素は、どれも完膚なきまでに母のものだった。



 〈復活〉は記憶によって行われる。

 ある故人がいるとして、周囲の人々がそれを〈復活〉させようとしたとする。〈復活機関〉はその故人とある程度関わったあらゆる人間にアンケートを送り、故人への印象について述べさせる。

 故人の性格は述べられた印象を元に再現される。優しいと答えられれば優しくなるし、厳しいと答えられれば厳しくなる。そしてロジック・トゥ・シナプスのモデリング・コンバーションを挟んだのちセル・プリントとクァーム・ニューラル・コネクションを経てバイオート・マトンをプルヴィードされる。要するに電子的な性格データをもとに新しく脳を作るということだ。

 重要なのが、アンケートの回答者は主観的にものを述べるという点だ。ある学生が死んだとして、その先輩は「親切だった」と、その後輩は「意地悪だった」と答えるような例がある。この場合「親切だった」派と「意地悪だった」派はクラスタリングされ、〈復活者〉は相手によって両者を使い分けるようになる。

 故人に対する恨みとかでアンケートで嘘を吐くことを試みる人もいるけど、回答はすべて「回答者がされたこと」として処理されるから、個別事案としての域は出ず、大量の質問によって構成される全体には影響を及ぼせないのだ。

 まあ、嘘や間違いによる多少の影響がないとは言えない。

 しかし無視できる範囲だ。



「そうそう、ここが私の家だったわね」

 日溜りと日陰の境界線に立って、母は見上げた我が家に言った。

 〈復活者〉は生前の記憶を持たないけど、最初期だけだ。〈復活機関〉が主張するところには、性格というのは記憶という計算過程を経て導出される解のようなものだから、答えを盗み見ることができている以上、計算過程が「思い出される」のも時間の問題になる、という理屈らしい。

 三日もすれば元通りになりますよ、と、これでもかってくらい白い服を着た担当者は言っていた。

 実際、その通りになった。

「キャッチボールをしましょう」

 五日目になって母は言い、「昨日思い出したの」なんて言いながらグローブとボールを押し入れから取り出して、僕の腕を引き近所の公園へ向かった。そうだよなと僕は思った。母はこういう感じに、急な思い付きで周囲を引っ張っていくタイプなんだ。母はスライダーを投げ、僕は捕球に失敗して芝生に倒れた。

「しりとりをしましょう」

 七日目になって母は言い、大辞林を片手に僕と対戦した。そうだよなと僕は思った。母はこういう感じに、二つの意味で大人気ないタイプなんだ。僕は渾身の「類別詞」を「質量スペクトル」に粉砕され、投了した。

「映画を観ましょう」

 十日目になって母は言った。



 母が選んだのはファンタジー映画だった。これについてはそうだよなも何もなくて、何故なら母はそもそも観る映画に一貫性がないタイプだからだ。

 上映前のコマーシャルが終わって制作会社のロゴがスクリーンを埋め尽くした辺りで、すでになんだか変な感じはしていた。押し寄せるロゴたちのうしろでは青い空の下をドラゴンとかが飛翔しているカットが同時進行しているわけなんだけど、何か、おかしかった。簡単な言葉に逃げるなら、チープだった。

 いざ振り返ってみると、脚本については悪くなかった。いや良かった。かなり良かったと言ってもいいかもしれない。しかし明らかな予算不足を感じさせる映像はノイズとなって、脚本の良さを見えづらくした。

 だから屈指の名セリフが飛び出したシーンでも、僕は笑った。主人公が乗っているドラゴンがたわしにしか見えなくなったからだ。

 ――母も笑っているだろう。

 僕はそう確信していたので、母が座って、こみあげてくる笑いを必死にこらえているはずの左の席を見た。改めて考えると当然なのだがシアターはがらがらで、周囲への配慮みたいなのはぜんぜん必要なかった。

 完全に効いた夜目が母を捉えた。

 無表情だった。

 母は無表情で、笑いも怒りも泣きもせず、ただスクリーンの方を見て、眼球を反射光で明滅させていた。

 そこで僕は気付いたのだが、映画は一人で見るもので、他者の主観が介入する余地を持たないのだった。



「ねえ、お父さんを〈復活〉させることにしない?」

 母は夕食の席でそう言った。

 その日の献立は母がよく作るセットの一つで、それだけに僕は余計に驚いた。口にこそ出さなかったけど、エビフライを掴んだまま、箸を空中で止めてしまった。

「……どうして今?」

 僕はとりあえず聞き返した。「今さら」と「今」で迷ったけど、たぶん後者の方がいいと思った。

「お父さんが死んだのって」

「確かに二十年くらい前ね」

「だったら……」

 僕は自分の声が焦りを帯びていることに気付いた。変だった。僕は父についてほとんど記憶を持っていないけれど、母が求めるなら〈復活〉させてもいいんじゃないかと、少なくとも母がいちど死ぬより前はそう思っていた。どうして〈復活〉させないんだろう、とも。それがどうして変わったのか。原因はたぶん分かっていて、脳のどこかがそれをせき止めていた。

「でも、自分が〈復活〉して考えがちょっと変わったの」

 母は、言いかけた僕を遮った。

 エビフライから熱が失われていくのがわかった。



 父が〈復活〉した。

 僕は例の白い廊下を歩く。右足と左足を繰り返し踏み出して、単調な壁が視界の両脇を流れていくのを見る。たまに、足音をわざと強くしてみる。つかつかをかつんかつんにしてみたり、あるいはどすどすにしてみたりする。別に、大した理由はない。なんとなく、どこにも変化がないのが嫌だったのだ。

 壁のプレートに彫り込まれた数字以外の全てが変化せず、ただ単調に繰り返すこの廊下が、怖かったからだ。

 廊下の左右を走る白い壁には、部屋番号を示すプレートたちが並んでいる。僕はそのうち用のある一つを探し、見つける。プレートの前に歩いていって、そのちょうど真下にある灰色のボタンを押そうと右手の人差し指を伸ばす。そして、止める。

「……」

 そこには影が落ちていた。

 廊下の照明は前回来たときとまったく同じで、それによって生まれる影の輪郭もまったく同じだ。僕の人差し指が生んだ黒は、ピントを合わされたみたいにくっきりと、壁の一部を塗りつぶしている。

 なんとなく、いつかの夜に母がそうしたように、右手で狐をつくってみる。中指と薬指をくっつけて親指で抑え、人差し指と小指を立てる。完成した狐は、いつかの夜にそうなったように、照明を受けて壁に模様を描く。月明かりより蛍光灯の方が強いから、壁に映ったその影は、障子に映ったあの影よりずっとはっきりしている。

 でも、壁に映し出されたのは狐じゃなかった。

 母は片手で狐を作ったあと、その側面から光を当てた。しかし僕は手首を捻っていたので、後ろから――手の甲のほうから光を当てることになった。中指と薬指と親指の先端は隠されて、指先に力を込めたところで、表情が変化したりもしなくなった。

 その影は、狐というより兎に似ていた。あるいはこちらを睨みつける猟犬かもしれず、どちらにせよ、狐ではなかった。

 狐ではなかった。

 僕ははっとして、はっとした自分に更にはっとした。嫌な考えを拭い去りたくて、接触させた中指と薬指と親指で、そのまま灰色のボタンを押す。自分に聞こえないチャイムが響く間も、安心が訪れることはなかった。

 狐が兎でも犬でもありうることを僕は知らなかった。

 他の誰かは知っていたかもしれないけれど、その誰かなら狐の姿をすべて知っているかというと、そうでもない気がする。狐は猿だったり亀だったりパラボラ・アンテナだったりするかもしれなくて、しかし、十万個の「はい・いいえ・わからない」はその姿を知らない。それじゃあ、本来猿や亀やパラボラ・アンテナがあるべき場所には、いったい何が入るのか?

 プレートとボタンの左、磨りガラスでできた扉の向こうで、解像度を下げられた影が動くのが見える。影は見るからに扉の取っ手に手を伸ばしている。逆に言うならそれしかわからない。磨りガラスのふるまいはモザイクフィルターに似ている。

 ――このまま扉が開いて、磨りガラスの表面を青白い蛍光灯の光が撫ぜたとして、それでも父の影の解像度が戻らなかったら、どうしよう。

 そんな感じのありえない不安がいくらでも湧き出して、僕はいよいよ逃げたくなる。しかしそれは許されず、蝶番は軋んで傾いて、父が扉を開けていく。たぶん彼も誰かを〈復活〉させたがるんだろうと直感的に思い、それじゃあその誰かもやっぱり誰かを〈復活〉させたがるのかなと思い、最後に何が残るのか考えかけて、やめた。

 僕は自分の右手が狐のままなことに気付いて、とりあえず背中に隠しておいた。狐であり兎であり犬であり猿であり亀でありパラボラ・アンテナであるそれを、解像度を下げていく世界から隠しておいた。

 ほとんど同時に扉が開いた。

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