鵺の煙 前
零落と言える程の高みにいた事がない……ぐみは不意にそんな事を思った。
父は田舎の自動車工、母は製靴工場が回す内職をしていてそんな家は嫌だと飛び出したぐみに非がなかったわけではない。ただ、無暗に今と違う環境に向かえば何かが開けると信じていただけだ。
学校を出る頃に知り合った人はいい人に見えた。「僕の所で働きなよ」と言われて街に向かって、案内されたのは居抜き店舗の一ヶ所だった。雑貨屋の店番を頼むと言う。ぐみは判断らしい判断がまともに効かず、ただ自分に価値を見出してくれるその人がとても親切で、誇らしい人に思えた。住む所をどうするのか尋ねると、トイレと軽くお茶を入れられるくらいのスペースしかないそこに住めばいいと言われた。それでいい、全て足りるように思えた。
ぐみの住処にあるのは雑然とした店舗、靴を脱いで店番が座るスペースと一体化した布団がしけるくらいのスペースがある。そこにシンクがあり、電子レンジがあり、トイレがある。風呂もなく、ガスも通っていない。食事は少ない稼ぎで安い物を探して買っている。風呂は近くにシャワー兼用のコインランドリーがあるのでそこに向かう。結局金がかかるので、ぐみはよく店主の家で営んでいる弁当屋の余りを貰っていた。
ぐみを雇っているのは最近できたばかりの企業で、名前は株式会社となっている。雑貨屋の他にも学習塾やバーや廃品回収などをしている全貌がつかめない所だ。儲かっているとは言えず、廃品回収の物が金になると担当している物が喜んでいたりする。
全体に貧乏暮らしで、金を使う事は少なかった。ぐみ自身あまり娯楽がなくても平気なタイプだ。スマホ一つあれば大体は足りる。最低限、月々に入っているサブスクの余裕があればいい。
その頃雑多な店がある池袋の商店街にどれくらい人が住んでいたのかぐみは知らない。ただ、住む所もない店舗に住んでいるのは自分くらいではないかとぐみは疑っていた。隣の自転車屋の老爺達は閉店時間がくると帰っていく。もう片隣の洋服直しの店も閉店からしばらくで帰っていく。直し屋は外国から稼ぎにきている人らしく、愛想はいいが日本語は不自由だ。この頃こういう外国人の出稼ぎは増えてきていて、ぐみが腹を空かせて尋ねる弁当屋も中国籍の女性が一人で切り盛りしていた。
雑貨屋の儲けはほんの少し、どちらかと言えばそこから廃品回収や学習塾の宣伝に繋げるのが本当だ。ぐみは居候している店の家賃程も稼げない。
店主は売り上げを回収する時に決まって「家賃くらいは稼ぎたいんですけどね」という。そんな事を言われてぐみにどうこうできるわけもない。売っている物は滅多な事では千円もしない安物ばかりだ。雑多な物を置いているが、一日に一万円の売り上げを出す事も滅多にない。椅子など大きな物は数千円して、これを売ればそこそこの儲けにはなる。しかし店主は素人商売も甚だしく、勝手に値札の値段を下げていく。勝手に値下げしておいて儲けろと言われても末端のぐみにどうこうできる筈もない。
店に定休日はなく、年中無休に一人で店を回す。お盆もぐみは帰れなかった。それでいいと思うくらいには実家が嫌いだった。
ただ、帰省ラッシュに当たる東京はまともに食べる物がなかった。ぐみがそれを相談すると、例の店主の家で営んでいる弁当屋の休み以外は供給がくる事になった。それもどうにもならなかったら弁当を届けると言われて、そのどうにもならなくなった日にぐみは閑古鳥が鳴く店でぼんやりしていた。
一人の女性が店を訪ねてきて、ぐみは「いらっしゃいませ」型通りに答えた。別段商品の説明などしない。彼女は店の中を見ていたが、「これなぁに?」間抜けな声を上げて一つの箱を示した。
ぐみは店に下りてそれを見た。加湿器だ。夏場に必要だろうかと思う。
「加湿器ですね」
ぐみの接客には愛想がない。誰もかれも彼女を見下して店にくるので、凡そ客と名がつく全員に対する絶望がその声には横たわっている。
「そう。つまんない」
女性客は憂鬱そうに言って、その箱を持ち上げて、ばたりと落とした。ぐみは慌てて拾おうとするが、どこかの誰かが箱を開けていたらしく、中の機械が床に転がった。
「落としちゃったじゃない。しっかり戻してね」
女性客はそれだけ言って、恨めしそうに見るぐみの視線に気づきもせで店を出ていった。
文句の一つも言ってやりたいし、できれば無理に買わせてやりたいが、鈍重そうな見た目に反して逃げ足が速いご婦人はもういなかった。ぐみは加湿器をよく見たが、傷物になっていた。すぐにマジックを持ってきて、値段を少し下げる。傷物であっても捨てては売り上げにならない。傷物でも買ってくれる人を待った方がいい。
「おーい、お弁当持ってきたよ」
店の入り口から店主の声が聞こえた。
「すみません、今きたお客さんがこれ落としていって、傷物になったので値下げしました」
値下げ自体はよくある事なので、それは店主も「仕方ないな」などと言っていた。
「はいお弁当。それにしても不景気だね」
店主は使いまわしのビニール袋に入った弁当を渡して、店の入り口側に並べた冷風機を見た。
「これ持ってくか……」
店主は新しめのそれを無造作に持ち上げた。
「売れたんですか?」
店主は顔が広い。ときたま必要な人がいると言って持っていく事があり、それは店にはありがたい売り上げだ。
「いや、うちの先生が」
先生、会社で世話になっている弁護士の人を言う。
「冷房が嫌だっていってこういうのがあるといいかと思って。持っていくから帳簿に書いておいて」
ぐみは溜息が出そうなのをなんとか堪えた。会社は関わっている人間が多い。その中で必要な物がある人がいると店主は一言言って持っていく。金はとらない。曰く、慈善の先に大きな成功があるのだそうだ。
商売としてはまったく成り立たず、ぐみは転職先を探す時間もない事にうんざりしながら帳簿に冷風機がなくなった事を書き入れ、売り上げ〇と書いた。弁当を開くと、惣菜でも入れるようなプラ容器の半分に白米が入り、半分に分けられた卵焼きとめざしを焼いたのが二三本、生の野菜が少し入っていた。
清貧を美徳だといった奴をぶん殴ってやりたい……ぐみは割り箸を割って卵焼きを食べた。塩の味しかしない。今の境遇が自業自得の果てだとしても、こんな獣の餌に毒を盛ったような物を喰わされる筋合いはない。弁護士の先生というが、弱い者の為に働く気はないらしい。あるいはぐみは弱者とも呼べない惨めな者なのか。
いつか美しい物に溢れた世界がくる……まずい飯を食べながら、ぐみはそんな事を考えた。昔から、どこかに存在する見るだけで心が満たされる美しい物が存在すると考えて、それを見つける事を求めてきた。できそうにもない黄金郷への妄想が骨までしみていた。
どこか遠くへ逃げ出したい……ぐみはつらくなって寝入りそうになったが、まだ開店時間は続く。米粒一つも残さずに食べた空き容器をゴミ箱に捨てて、誰もこない店の中でぐみは店番に励んだ。
東京の片隅にはそこかしこにこんな風景が転がっている。
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