春泥 二

 昼一の能楽研究は璃央にとって楽しみな一コマだった。


 古典はよく分かっていない。ただ、教授曰く『当時の娯楽の第一線』である謡曲の世界は未知の物も多くて璃央には嬉しかった。知らない物を知る事は常に最高の娯楽となっている。扱う作品は毎回変わり、今日あったのは──「熊野」だった。


 注釈つきで辞書を片手に読んでいく作業で分からない所はほぼなかった。読めなくて困るというわけではなく、読めるからこそ困る。事前にも読んだが、作品は親子の情を語った『美しい』とされる物だ。されているだけで璃央がそれを美しいと認めたわけではない。教授は淡々と講義を進めていくが、璃央の気持ちは焦燥が大きかった。


 親子愛、という物が璃央にはよく分からない。離れて親元が恋しくなるのかと思っていたが、璃央には全然その気配がない。『いつか分かる』と言われても今実感できなければ困る。


 生まれてから去年の春まで実家で過ごしてきて、璃央が親と離れたくないと思った事など一度もない。寧ろ早く離れたくてならなかった。周りに言うと年頃なのか、共感される事は多かった。あるいは上辺のつきあいか。しかしそう言う人達は親の事を話す時、愛想笑いでも人形じみていても笑っている。


 璃央は笑えない。


 そういう話題になると段々寡黙になって、最後は別の話題を振る。それが璃央のいつものパターンだった。今は話を逸らす事もできない。


『草木は雨露の恵み、養ひ得ては花の父母たり、況や人間にをひてをや、あら御心もとなや何とか御入り候らむ』


 作者によれば草木にとって雨露は己を育てた親であり尊い物と言い、また人間にとって親がどれだけ大事かは言うまでもないそうだ。


 育てたというのは、例えば本能による所ならば感謝もするのだが、中村家では法が許さなかっただけなのではないかと璃央は疑っている。雨によって野草が育つ摂理があるにせよ、人間は不条理だ。例えば若木をへし折るような強風を伴っていたならばどうなのか。あるいは長い雨に根が腐ったのを育てたと言うのか。


 雨露、その表現から璃央は根腐れを起こした草木の気持ちを想起した。それはまったく「熊野」の内容とはかけ離れた怨嗟ばかりを生み出していく。


 璃央が『人並みの見た目』を目指した理由であれば、父も母も顔が悪い事を自負していて、璃央に「お前はどんなに化粧しても美人にはなれないからな」と言い切っていた事が一つの原因、もう一つは父も母もやたらに好みが悪く外見に無頓着で、どう見ても色褪せた服を着て平気で遠出する人だから。人並みというのは惨めに見えてはいけないのだと、璃央は本能で気づいていた。


 嫌な事ばかり思い出される。嫌な心当たりもある。講義に集中できないからやめて欲しいと言う相手はここにいない。教授の言葉をひたすら書き置いて、璃央は時計ばかり眺めていた。いつもであればそんな事はないのに、この時は退屈を競う同輩か就活に追われている先輩のように時間に敏感になっていた。段々話も頭に入らなくなってくる。


「それでは最後に、作品の感想を書いて提出してください。書き終わった人から終了とします」


 最後を告げる課題は出てきた。毎回これがある。璃央はすぐにでも書き終えて出ていきたかった。しかしなかなか書けない。「親の為に宗盛を説き伏せる熊野の」そこまで書いて次が書けない。「意思の強さがある」と書いた。駄文。頓馬と言われるような気持ちが湧いてくる。書く事がない。一行で済ませていいのか。その一行もいらない。書かなければどうなるのか知らない。璃央がこれまでこの最後の感想文に手こずった事はない。


 断片的で感想と呼ぶよりもお世辞を並べた駄文じみた物を「朽木桜という表現から熊野の歌に繋がる桜を散らす春雨の表現が美しい」と結んで、璃央はもうほとんど学生が残っていない講義室の教壇に向かい、教授に一礼して外へ出た。


 築年数の割に古びた印象を与える講義棟を出ると、雨は上がって気休めの晴天が広がっていた。春の空気を胸いっぱいに吸うと、窒息寸前から回復したかのように璃央は息を吹き返した。


 今日の講義は終わり、少しだけ、部室に寄ってから帰ろう。


 璃央は広いキャンパスの中を歩き出し、構内にも関わらず道路一本を挟むサークル棟へ向かった。


 申し訳ばかりの街路樹は雨水の雫に鮮烈さを増し、草の生えた傾斜はぬかるんでいた。


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