鵺の煙 後
街中では両手を伸ばすスペースもなく、まして狭い店の中では足も伸ばせない。
ぐみは五時まで店番をして、一日の終わりに帳簿をつけて、シャッターを閉めた。そして着替えを持って徒歩三分のシャワー兼用コインランドリーに向かう。
町は寂れていても喧騒がある。向かいの親爺は店先で煙草を吸っていたが、ぐみを見ると軽く会釈してきた。ぐみはそれに返す。
日はまだ高く、蒸す暑さが街中に漂っていた。その暑さにうだっていると体は汗だけでなく都会の不潔に染まっていくような心地がする。不潔という言葉が似合う街だった。どこにいっても猥雑で、綺麗な人は見当たらない。規則正しく作られた建物もなく、実際の必要に迫られて急に拵えたような建物ばかり目に付く。
店の入り口横に灰皿一つと椅子三つを置いた喫煙所があり、ぐみはポケットで煙草とライターが草臥れているのを確認して、中に入った。奥に二つのコインシャワーがあり、ぐみはいつもそこで体を洗っている。
硬貨を数えて入れる。時間は限られるので最低限体と髪の毛を洗う時間しかない。お湯を流し出せばデジタル表示が減っていく。ぐみはこの後洗う服を脱いで、シャワールームに入った。
暖色灯が人ひとり立つのにぎりぎりの室内を照らす。蛇口をひねればお湯が出る。これくらい狭いシャワールームでも、ぐみにとっては至福の瞬間だった。石鹸もボディソープもシャンプーも持ち込まなければならないが、温かいお湯に体が触れると夏場でも体は回復していく。それは母の胎内にいた記憶の作用かも知れない。
ドライヤーを使うスペースもなく、ぐみは頭にタオルを巻いて湿気を取りながら外に出た。日はもう黄昏ている。洗濯乾燥機に洗濯物を入れ、洗剤を入れて回す。これも少しというのに大きい出費、まともな家に住めるのはいつか分からない。
待つ間に帰ってもいいが、いちいちシャッターを開けるのは面倒くさい。いつかなど閉店時間を過ぎたのにどこかの老人がバシバシとシャッターを叩いてぐみに労働を強いた事もある。
そんな所に帰る前に喫煙所で一服していく。喫煙所にはコインランドリーの利用者らしいしわの多いご婦人が座って、ぐったりしていた。具合が悪いようではなく、ただ焦点の定まらない目で日の光を背中に浴びている。
ぐみは気にもせず、マルボロに火をつけた。肺いっぱいに煙を吸い込んで吐く。惨めな幸福は当事者には惨めとも見えず、ただ今日も無事に一日を終えられそうだという事に安堵していた。ほとんどが若いバカ殿様の奴隷のような日々、体に手を出されないだけましなのか、それも望めないのは余計に苦しいのか、店主は親しい女性がいる。
考える事も多い筈なのにシャワー上がりの脱力感が思考を鈍らせる。煙を吐くと、ご婦人と目が合った。
ヒィン……不意に虎鶫の鳴き声のような物が喫煙所に響いた。ぐみは思わず、周りを見回した。汚らしい一室、いるのは自分と小母様の二人だけだ。猫一匹いない。ぐみは狐に化かされたような気持ちだった。
ねえ、声をかける相手は小母様しかいない。
「ライター持ってないから、火」
彼女は語りかけるでもなく、頼む調子ではましてなく、細い煙草を一本くわえて言った。
「どうぞ」
ぐみは小さな赤いライターを渡した。小母様はジッジッと何度か鳴らした。雑な格好に身を包んだ自分はこの小母さんの子分みたいに見えるだろうか。煙草についた赤い火が夕日より赤く室内に灯った。
ふぅー……はぁー……ご婦人は煙を吐き出し、何も言わずぐみにライターを返してきた。ぐみはそれを受け取り、その小母様に見惚れた。
後光を背負っているみたいに見えた。
夕日を背負って超然と煙を吸い吐きするその人は、一体どうしてこんなぼろいコインランドリーにきているのだろう。しかし、彼女からすればそれが日常なのかも知れない。ぐみは見た事がない相手だが、時間が被らないだけか……無粋かも知れない。
小母様はぐみの目になど構わず煙草を吸っている。静かな佇まいは堂々としていて、若かりし頃には数多の男たちを踏みしだいたに違いない……美しさとは、何も計算づくで作られた人為物や生まれ持った顔かたちにあるだけではない。この時ぐみはこの小母様に明確な美しさを見出していた。
ヒィン……。
不意に、得体のしれない音が響いた。さっきも聞いたあの虎鶫に似た音がぐみの感性の柔肌をそろりと撫でた。
ヒィン……ヒィン……虎鶫という鳥をぐみは知らなかった。つぶさに見れば、小母様は一息煙草を吸う度にヒィン……鵺のように鳴いている。
ぐみは何故だかご婦人を神仏の化身のように思った。それくらい、徳を積む相手のように感じた。二人とも煙草を吸い終えて灰皿に吸殻を捨てると、小母様はもう一本吸うらしく、箱を取り出した。
「これ、使ってください」
ぐみはライターを渡し、すぐに立ち上がった。
ヒィン……鵺の声がぐみを見送り、続いて火をつける音が聞こえた。
鵺は煙の中に何を思っているのか分からない。ただ、ぐみは既にそこにいてはいけない俗人の一人にすぎなかった。
美しい物はある、きっとある、それは何げなく巡り合う物なのだとぐみは知った。
生きていこう……つらくとも。ぐみは自販機でサイダーを買って、一息に飲み干した。
短編集 風座琴文 @ichinojihajime
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