短編集

風座琴文

幻影

 昔の話をしよう。ただし虚構が多分に含まれる。


 なんの事はないよくある話だ。それとも君は世にある虚構の数を知っているとでも言うのか?



 最初にその人を見た頃……そしてその人と過ごした頃、私はとても幼かった。


 まだ五歳になるかどうか。それくらいの年齢だったように思う。今では遠すぎて思い出せないが、幾らか嘘つきな証言が残っているので書いてみよう。



 その人は当時の私と同じか、少し上くらい……まだ幼年だった。


 彼女はふらりと私の家の庭に現れて私と遊ぶ。まだそれほど、室内の娯楽が充実していない時代だった。まして私達の家があったのは田舎も田舎で、遊ぶ場所など整えられてもいなかった。


 砂利と土と毛虫を踏みながら遊んでいた私の元に彼女がきて、私は初めて知るぬくもりに戸惑いながら夢中になっていた。それは今にして思えば『愛欲』とでも呼ぶべきものだったかも知れない。


 幼稚ゆえにどんな言葉を交わすかがさほど重要ではなかった。お互いに、さほどの事を知り合う中でもなかった。たまに会って遊ぶ。彼女は私の家で好きなミルクを飲んで帰る。それだけで満たされていた素朴な時代が私にもあった。



 私の両親が二人の交流についてどのような見解を持っていたか、母は特に見咎めもしなかったが、父は内心よく思っていなかったらしい。


 ある朝、彼女が車に轢かれて死んだという話を母から聞かされた。私は葬儀に出る事も許されず、のちに母に手を引かれて彼女の墓に参った。


 その間の期間で、父は幼子を轢き殺した罪で捕まった。



 以来、私は彼女の影が離れなくなった。


 女性を見ると、無意識的に彼女の面影を探す癖がついていた。



 幼いが整った顔立ち、どこか愛嬌があり艶めかしい雰囲気と少し顔に滲ませた悲しさが混ざり合った彼女の風を他人に求める事は難しかった。


 小学校の頃、家が近い女の子とたまたま帰りのタイミングが一緒になって、二人で歩いていた。


 田舎の一つの学級しかない小学校の同級生の中に、彼女と似ている人はいなかった。


 その時歩いていた相手はどことなく狸か穴熊を思い起こさせる愛嬌の持ち主だった。たまに一緒になると話すが、それ以上のものではない……そう思っていたのは私だけだったのかも知れない。


 一緒に歩いていた彼女は私の五歩先に早足で進んで、履いていたスカートをたくし上げた。動物の絵がプリントされた下着が見えて、私は歓喜より興奮より恐怖を感じていた。


「好きだから見せるんだ」


 おぞましかった。私はただ黙ってむっつりしていたように思う。彼女はお道化ながらしばらく私に下着を見せたり隠したりしていたが、見知らぬ車が通ると黙って、すぐに「いこう」私を誘って帰り道を進んだ。


 フォルダの中のファイルを削除するように記憶を選んで消せるのならば、私はこの記憶を消してしまいたい。


 翌日も狸に似た彼女はけろっとしていて、昨日の事などなかったかのように振る舞っていた。その後二度と、彼女は私にアプローチしようとしなかった。


 小学校、中学校と一緒に過ごしたが、私が遠くの高校に進んでからは疎遠になり、今ではお互いの連絡先すら知らない。



 小学校の頃にはもう一つ奇妙な出来事があった。


 その頃は祖父母と一緒に年に一度、温泉旅行にいくのが恒例だった。


 季節すら思い出せないのだが、それほど遠くない温泉地の手頃な宿に入って、一風呂浴びた後の事だった。


 部屋に戻る途中、私は幼い頃に見たあの人の面影を持つ大人の女性を見た。彼女の母親はこんな顔をしているのではないかと思うような顔立ちで、どうしてか私に微笑みかけてくれた事を覚えている。


 私はきっと、その笑顔に魅了されていた。部屋に戻ろうとする祖母から離れてその人を追いかけた。


 その大人の女性は私を振り返り、野良猫が後をついてくるのを確かめるようにしながら先に進んだ。


 ただ、不意にその人は見えなくなって、私はきた道を帰って部屋に戻るしかなかった。


 祖母と祖父が嘲笑っている横であの人の面影を思い出しながら私は少しの熱を感じていた。


 宿にいる間、部屋の外に出るとその人を探したが、二度と見なかった。


 何故か分からないが、あの人ならば彼女を知っているような気もした。錯覚は錯覚でしかなく、宿に連泊する最後の夜に感じた陶酔は花やかな虚無に過ぎない。



 中学校、高校と彼女の面影を探して少し恋もしたが、何か嫌になって距離を置くという事を繰り返して、結果的に私は孤独になった。



 地元から離れた大学に入って、人並みにバイトなどしながら講義を受けている日々の隙間に陥穽があった。


 当時勤めていた塾の同僚で同い年のSという人がいた。その人はとても明るく茶目っ気があり、頭もよければ教えるのも上手いし合間合間の余談も面白いという、まさに生徒から好かれるタイプだった。


 バイトが遅くなると、車を持っていない講師は塾長達が車で送っていくというのがそのバイト先の慣習だった。その街も地方都市だったので、車なしに移動するのはなかなか骨が折れる。まして塾が閉じる時間は夜遅く、時に日付が変わる事もあった。


 たまたま、その日私はSと同じく塾長の車で帰る事になった……ただ、Sは塾長が他の講師と話している間にこそっと耳打ちしてきた。


「今晩一杯どうですか」


 たまにはそういう夜があってもいい……という気障な気分ではなく、私はSの愛嬌のある顔の中にあの人の面影を見出していて、一度ゆっくり話してみたいと思っていた。渡りに船の提案だった。


 すぐさまK町辺りに用があるという建前を用意して、家がある所ではない繁華街に二人で送って貰った。


 二人一緒に車を降りると、どこに入ろうかという話になった。ムーディーな店に入るのはかえって気が引けたので、学生街に一流な安い事だけが取り柄の焼き鳥屋を二人で選んだ。


 Sが生ジョッキを頼むので、私は意外なようなそうでもないような気持ちで同じものを頼んだ。カウンター席に座って乾杯して待てば焼き鳥が少し。二人ともバイトの疲れがあって、少し愚痴っぽい話をしていた。


 同じ塾で教えているので私も少しSの事情は知っていたが、彼女は少々手のかかる生徒を担当する事が多かった。人当たりがよく、陽気な性質のS(その性質は件の彼女とは似ていない)は話を聞かないやんちゃな生徒であっても面倒を見れた。


「ちょっと羨ましいわー。おとなしい子の相手が多くて」


 Sはちらっとそんなことを言った。


 私はどちらかと言えば落ち着いて話を聞く子どもの担当が多かった。私達が務めていた塾はそれほど本気で有名校を目指す生徒が集まる所ではなく、子どもの成績が不安な親がとりあえず通わせるような所だ。まったくこちらの話を聞かない生徒もいる。中には真面目な子もいて、そういう子ほど静かに話を聞いてくれる。


「Sさんは楽しそうに見えるけどね」


 そんな事を言ったのはどうしてか分からない。


「まあ楽しいけどさ。たまに疲れる」


 砂肝の串を取り、Sは食べるでもなくそれを見ている。


「塾長もお前は楽しそうだからこの仕事向いてるなんて言うけど、正直もたないなって思うわ」


 一口、砂肝を食べてSはそれを咀嚼した。その様子を見て、私はあの人がビスケットを食べている所はこれくらい可憐ではなかったかと思い返した。


「私も自分がこの仕事に合ってるとは思っていないけれどね」


 子どもに好かれるSがそうなのであれば、私のようなタイプは余程向いていないだろう。もっとも、仕事の話が本題でない事はなんとはなしに分かっていたが。


「やめちゃう? 二人で」


 Sは悪戯っぽい瞳で私を見た。


 それもいいかも知れない、などと思うのはその頃乱れていた生活習慣の所為もあったかも知れない。何せこの時の二人が焼き鳥屋にいた時間も深夜だ。そして明日は十時に講義室にいなければならない。少し不眠症の気が出ていた私は大分疲れていた。


「どうせなら、塾長のシャツに卵でも投げつけるか」


「なんだっけそれ」


「坊っちゃん」


「いいんじゃない? 私は君の所為にするけどね」


 Sは笑いながらビールを一息に飲み干した。すぐに、店員に次の一杯を頼む。私よりSの方が酒には強そうだった。口が達者なのもSの方。どうせならば私が粉々になるくらいのジョークを飛ばして欲しいが、高望みが過ぎたか。


「Jさんの家ってどの辺?」


 不意に自分の事を聞かれて、私はSの瞳を見た。飲んでいる割にクッキリした色が灯っている。


「A町の――」


 手が、ふらりと触れ合った。


「……治安がよくない所だよ」


 私は火照った温度を感じながら、酒臭い息を吐くSを見ていた。その瞳には少しの期待と、自堕落を求める渇望が存在していた。こんな飲み屋で見つめあうような仲になった覚えもないが、どことなく、そして何気なく二人でいてもいい気がした。


「これからいってもいい?」


「酒が飲みたいならないぞ」


「別にいいよ。飲み過ぎて心臓止まってもやだし」


 Sはすぐに、鞄から財布を取り出した。私もそれに倣う。当時、キャッシュレスはそれほど普及していなかったし、学生が気軽に作れるカードもあまり認知されていなかった。


 結果、会計を済ませて二人でタクシーに乗って帰っても大丈夫だという事になり、私達はテーブルの上の物を片付けて店を出た。


 何か破れかぶれな衝動が私の中にあったのは何故なのか、酒の所為にはしたくない。


 その夜からしばしば、Sは私の家にくるようになった。



 私とSは同じ大学の同じキャンパスに通っているが、学部が違った。私は当時の文学部で、Sは教育学部だ。お互いにどんな事を学んでいるのか妙に興味を持つのは、恐らくたまに話が日本文学の古典で合致するからだろう。


 初めてSが私の家にきてから半年が経って、私達の関係もなんだか成熟してきた。Sの家は私の家からバス停二つほどの距離で、会おうと思えばどこでも会えた。


 ただ、私と関係を持つ前のSはとても健康的だったのに、その半年間で大分不健康になっていた。


 お互いに講義とバイトがないタイミングがあるとどちらかの家で二人会う。Sの家にはどこに食品を入れるのかというほどのビールが常備してある。彼女が私の家にくる時は一ダースのビールを持ってきて一人で飲み干して帰っていく。


 どことなくあの人に似ていた顔もその頃には暗い色が満ちてきて、私は彼女というよりは能面にある小面などの面影を見た。二人の大学がある土地は能楽に熱心で、二人で見にいったりもした。狂言はともかく能の方はさっぱりで、それを肴に酒が弾んだ余録もある。


 仲はよかった。恋人同士でするような事も随分した。それだけの関係で終わりそうな気配を感じていたのが私だけなのか、二人共なのか、私は未だに知らない。


 ただ、私の心は一つの切っ掛けでSから離れ始めていた。



 ほんの少しの悪戯心だったのだろうと思うが、こんな事があった。



 Sが私の部屋に泊まる事はそれほど珍しくはなくなっていた。彼女の私物も大分置いてあった。それで私はまるでSが家族になったような錯覚を覚えていたのかも知れない。つまり、油断であり、自惚れの錯覚――恋でもしていたのだろう。随分と暢気に。


 さほどの広さはない部屋の中、狭く安いベッドが壊れそうな行為の後、私が何気なく薄い灯りの中で部屋の扉を見ると、誰かいた。


 私のアパートは玄関をくぐるとキッチンと洗濯物置き場・風呂・トイレがあり、その奥に居室兼寝室があるというその辺りではよくある造りだった。


 知らない間に誰かが玄関から入って、私達の行為を覗き見していた? そんな警戒心が沸き上がって、私は半裸でSを庇うように立った。


 その時――気づくと同時に、けだものが乱心したような笑い声が室内に響き渡った。


 なんの事はない、その影をよく見ると壁に何かの液体をかけてできた染みでしかなく、それを仕掛けたSは私をはめる事ができて高笑い、というわけだ。


 心臓に悪い事をしてくれる……私が落ち着きを取り戻して彼女を見ると、Sはにやりと笑った。


 私の頭の中にいるSという存在が抱えているガラスの塊が、その瞬間に砕けた。


「引っかかったー」


 子どものように残虐に、Sは笑った。


「驚かすな」


 私は恐らく、つまらなそうな顔をしていたと思う。


 その反応を見たSの顔は小面だった。あの人の面影はどこかに消えていて、Sという人間の白けた顔が灯りに映し出されていた。


「ごめんごめん」


 すぐに、Sは能面のような表情を消して、愛嬌の中にクッキリした影が浮かぶ顔で謝ってきた。私は特に責めるでもなかった。壁に悪戯されたくらいはどうでもよかった。


 ただ、どことなく気まずいのは、私自身がSを愛撫しながらあの人の面影をなぞっているだけだと自覚してしまったからだ。それが明確になると、私は彼女と同じ部屋にいるのもとんでもない罪悪であるように思えていたたまれなかった。


 その日、Sは恐らく私が機嫌を悪くしたと思ったらしく、いつになく低姿勢で謝ってきた。私はなんと答えたのかよく覚えていない。


 いつも通りに二人で眠り、翌朝、Sは先に講義に向かった。



 壁の染みの一件は私の心の中で明確にSへの距離を作った。


 誘われてもあまり乗らなくなり、Sの方でも私が一線を引いている事が分かったのか、次第に疎遠になっていった。


 最初に二人で安い焼き鳥屋に入ったちょうど一年後、私達はいつもより少し背伸びしたバーの中にいた。


 あやふやな関係を続けても仕方がないだろう? 恐らくSも拒まないだろうから、私はしっかりと別れを告げるつもりでいた。同じバイト先で会って気まずくなるのは避けたいので、バイトも辞めるつもりだった。


 幼い頃のあの人の面影を見ていたから――そんな話をするつもりだったのだが。


「死ぬほど飲んだらどうなるのかな。ま、死なないだろうけど」


 お互い、この頃めっきり減った口数を少しずつ消費していく中で、不意にSはそんな事を言って、テキーラを頼んだ。そして出てきたロックグラスを一気に飲み干す。


 どうしたのか、いつもと様子が違う。私が声をかける間もなくSはマスターに次々に酒を頼んでいく。マスターは心配していたが、出さないわけにもいかないのか、言われるがままだった。


「あんな事、しなけりゃよかったかな」


 何杯目かの酒をあおって、一言言って、Sはとろんと溶けた目をその場の誰にも向けず、寧ろ混濁を感じさせる瞳で「少し横になりたい」と言った。


 私達以外に客がいなかったのが幸いして、Sはテーブル席の椅子に横たわる事ができた。


 マスターは私に誰か頼れる人はいないか尋ねてきた。あまり酷いと救急車を呼ぶ必要があると言われても、私の心は特に動揺しなかった。


 Sの地元は県外だし、夜中だ。何かあれば自分が付き添うと言って、私はSの鞄から携帯電話を取り出して家族の連絡先を見た。


 ただ――恐らく私はSと親しくする事が二度とない。マスターに言い訳の手伝いを頼み、友達という体にして私はメールを送り、その後、トイレで嘔吐するSを介抱した。


 幸いSは肩を貸せば歩けるという状態まで回復したので私は彼女の家に送り届け、その後自宅に帰った。


 その日を最後に、Sと私の仲は完全に終わり、ただ会ったら挨拶する程度に変わった。私は別のバイト先を見つけ、Sも同じくらいに元のバイト先を辞めたと共通の友人を通して聞いた。


 何かと楽しく悲しい一年が過ぎて次の年、Sが入院するという話を聞いた。


 聞いた話を簡単にまとめると、過剰な飲酒が原因で健康を失したとの事で、私は入院前のSにお見舞いの言葉をかけて、以来会う事なく卒業した。


 最後に会った時の笑顔はあの人に似ていた。



 種明かしをしようか。


 ただの子猫の話だ。私が拾って少しの時間溺愛し、私の父親に轢き殺された子猫を懐かしんで、その頃の気分を取り戻したかっただけの話だ。


 それでも、幻影は幻影でしかなかった。


 今、Sの連絡先にかけて、彼女ではない誰かが出たならばどうすればいいのか分からない。過去に置いてきた恐怖が後ろから睨みつけていて、実行はできない。


 現実という物は幻影を超えると、そろそろ理解するべきかも知れない。

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