妖鳥 二

 一体、どうしてあの鳥の人の事を思い出したのか、加納はよく分からないなりに何か手掛かりがないか家の中を探したのだが、それらしき物はなかった。


 もっとも、田舎の広い家を一日で全て探しきる事もできない。大きな物置はまだ見ていない。家族に聞くのはなんとなく憚られる。それはきっと、夢の中で見た鳥の人を自分だけの秘密にしておきたかったからに違いない。


 翌日は酷い雨だった。


 学校に向かうにもスクールバスではとても桔梗坂を上れないので、加納は傘をさしてバスがくるのを待った。


 もう一度、小さな水路に飛び込めば……不埒な気持ちが湧きあがるのを赤面の記憶で抑えて、加納はバスに乗り、学校にいった。


 友達相手の無難な会話は酷く疲れる。他愛もない回答ばかり返す加納はあまりクラスに溶け込めていない。部活もこの中学では少ない。加納は美術部にいる。放課後がくれば勝手に帰られる地域と違い、ここはバスが出るのを待たなければならない。加納は一日の授業を気もそぞろに聞いて、美術室で少し絵を描いて、やがていつもより早くきたバスに乗った。


 教師が今日は酷い雨だから、外に出ないようにと言って、生徒がバスに乗り込む。加納はなんとなく憂鬱になって、ただ鳥の人の事を考えていた。


 外に出られないなりに楽しみ方は知っている。ただ、今日は昨日の探し物の続きをしようと思っていた。


 家に帰ると、見知らぬ車が停まっていた。加納は玄関を潜るのを躊躇しながら、そっと「ただいま」の挨拶をして中に入った。居間から話し声がする。一人は祖母で、もう二人は知らない大人の男性だった。


「おばあちゃん、帰ったよ」


 加納が居間の引き戸を開けると、中にはきっちりした格好の男が二人、掘り炬燵を囲んでいた。


「ああ、加納、帰る途中でじいちゃん見なかったか」


 祖母の発言に、加納は嫌な予感に背筋が汗ばむのを感じた。


「見なかった……」


 加納はおずおずと答える。ただ、事実を伝えるしかない。祖父の靴はなかったように思う。


「お孫さんですか」


 二人の男の内、片方が祖母にとも加納にともなく尋ねる。


「ええ、もう、加納には心配をかけまいと思ったのに」


「落ち着いてくださいね、加納さん、お爺さんが今現在、行方不明です。捜索に当たっています。この雨の中で素人は捜索に参加できませんから、落ち着いて、家にいてください」


 その大人の人に言われた事で、加納は眩暈を覚えた。


「おばあちゃん、おじいちゃんはどうしたの」


「田圃にいくって言って、そのままだ。加納、これ持ってておくれ」


 祖母は手元に置いていた一つの、薄く細長い箱を取って、加納に差し出した。加納はそれを受け取り、開けてみた。


 見た事がある物だった。祖父が誰かのお葬式にいく時に必ず持っていく紫色の細い数珠だ。


「加納が寝込んだ時でも、じいちゃんはそれを握って無事を祈ってたんだ。だから今は加納がじいちゃんに祈ってやって」


 一体、それはどれだけの重さを伴うのだろうと加納には分からない。ただ「うん」と答えて二階の自室に向かった。


 課題はあるが、それどころの心境ではない。加納は制服のまま机に向かって数珠を取り出した。祖父の無事を祈る、父と母はどうしているのか分からないが、二人とも離れた所で働いているので、すぐに帰ってはこられないのかも知れない。


 祖父は元々無鉄砲な所があるが、こんな雨の日に出かけるとは思わなかった。この辺りの家に備え付けられた防災無線から加納の祖父の事が語られる。


 窓の外は酷い雨だった。この中でもしも水の中に落ちたりしたら……加納は想像するのもつらかった。


 数珠を手に巻いてそっと窓からの薄い光に空かすと、一つの珠の中に見えるものがある。


 全体として観音像に近い。ただ、普通の観音像ではなく、金色の翼が生えていた。加納はその美しい顔に鳥の人の面影を見た。


 これだ、きっとこれだ。祖父が無事を祈ってくれた観音様が鳥の人として加納の所に現れたに違いない。加納の豊かな空想はそんな迷信じみた事を信じた。そして今、祖父をこの怪鳥観音が救ってくれる事を祈って、鈍色から変わる調子のない空に向けて両手を合わせた。


 少し前、加納の向かいの家にいた、父と同年代の男性が自殺した。祖父も式には向かい、その時もこの数珠を持っていた。


 帰ってきた祖父に数珠の事を聞くと、とても大切な物なのだと言っていた。


「俺ももう長くねえからよ、俺が死んだら加納が貰ってくれ」


 どうしてそんな悲しい事を言うのか、加納は泣きそうな顔で頷いた事を覚えている。そして、その祖父の言葉が早すぎる現実にならないように祈るしかない。


 加納が数珠をすり合わせていると、鈍色の空に僅か、金色の日光が射した。その光は丁度、山間の田園の中、加納の家で持っている田圃を照らした。


 あそこにおじいちゃんがいる――加納が思ったのは思い込みではなく、事実だった。雨合羽を着た丁度祖父と同じくらいの身長の男が立ち、すぐに倒れた。


 矢も楯もたまらず、加納は部屋を出て一階に下りた。


「おばあちゃん!」


 祖母はまだ二人の男性と話していた。


「加納、どうした」


「二階からお祖父ちゃんが見えた! セタの田圃にいた!」


 ここらの通称でセタという所に見えたのは、間違いなく祖父だったと思う。


「セタというのはどこですか?」


 二人の男の片方が祖母に尋ねる。


「あのほれ、ここにくる途中にある……」


「この家から見て南にまっすぐに見える田圃の辺りです!」


 祖母は上手く説明できていないので、加納はすぐに横から会話に割って入った。


「ありがとうございます。いこう」


「はい。少し見てきます」


 二人は足早に出ていった。加納は何も言えずに見送った。


 祖父は一度立ち上がり、そのまま倒れたように見えた。あの辺りには田圃に水を回す為に水路がある。そこに落ちていなければいいが……加納は嫌な予感を感じながら、ただ数珠を握って祖母と二人、知らせを待った。


 願い事は大体叶わない事を加納は知っている。もしかすると、あの光はせめてものサインだったのかも知れない。もう、空は淀んでいる。


 少しして母が職場から帰ってきた。連絡はいっていたらしい。


「すぐいかなきゃいけないから、夕飯は二人で食べて」


 仕事先の制服を着た母は、忙しなく言った。


「待って、おじいちゃんは見つかったの?」


「見つかった。もうすぐ救急車がくる」


 この集落に救急車を呼ぶならば、どうしても時間がかかる。加納は祖父が無事なのか気がかりで気がかりで、震えと汗が止まらなかった。


「待って……私もいく……」


「加納はここにいなさい」


 母はあっさりと加納の願望を踏み潰して、いってしまった。


 祖母を見ると、諦めたように項垂れていた。顔に刻まれた深い皴は嘆きを彫り込んだようで、見ていてつらかった。


「夕飯の支度しような」


 少しして、祖母は腰が重そうに立ち上がった。


「手伝うよ」


 加納は何もしていないとかえって落ち着かない気持ちになるので、祖母の手伝いをする事にした。


 台所に立った時、外から雨音に混じって救急車のサイレンが聞こえ、加納は無事を祈るしかなかった。


 状況が状況だから、祖母は夕飯の支度など何もしていなかった。加納は冷蔵庫の豆腐と野菜でサラダを作り、祖母は魚を焼いて味噌汁を作った。


 ご飯をよそって、二人で食卓につくと、電話が鳴った。加納が出た。


 祖父の死を知らされて、加納と祖母は二人で泣き落ちた。


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