妖鳥 三

 南無釈迦牟尼仏南無釈迦牟尼仏、幾らかお経を唱えて、祖父の葬儀は終わった。加納は納骨の時、その骨片の一つでも貰えたらどんなにか救われるか知れないと思った。


 姉も帰ってきて、暗い食卓が終わってのち、加納は苦しい気持ちで入浴を済ませて、部屋に戻った。形見分けで貰った物を見る。例の怪鳥観音を彫り込んだ数珠は祖父を救ってはくれなかった。それでも加納自身の命を救ってくれた物だと彼女は信じる事にして、そっと枕元に置いた。


 これを枕元に置いておけば、鳥の人の夢が見られるかも知れない。だから悲しみに枕を濡らして寝てしまうのがいいのだろうと思った。体がだるく、何もする気が起きない。時間ももう夜だし、眠ってしまっても文句を言う人もいないだろう。


 不意の別れにどれだけ悲しんでいても、明日には学校にいかなければならない。クラスメイトの小さな喧騒の中で小さく悲しみを愛でて過ごす一日を思うだけで涙が出てくる。


 とうとうと流れる涙はもしかすると、鳥の人への呼び水であったのかも知れない。


 淡い金色の空間を感じた。そこには暑くはない、ぬるい、しかし心地いい温度が満ちていた。風が全方位から優しく吹いているようで、加納はそこにどうやって立っているのか不思議だった。


 五感は正常に機能した。遠くに一つの光があり、首を動かして下を見ると何もない。どこまでも淡い金色の空間が広がっていて、そこに加納は浮いていた。


 夢である事を自覚した。甘い香りがする。耳に聞こえる物は僅かな羽搏きの音だった。


 きっとあの人がくる――加納が待ち遠しい心地で目を閉じると、そっとその体が抱かれ、柔らかい感触に触れる。


 少し、目を開ける。


 整った顔容は加納より年上で、母よりも母らしかった。加納を赤子を抱くように抱く彼女の吐息は、ミルクに砂糖を混ぜたような甘い匂いを持っていた。体温は心地よく低く、加納はその肉付きのいい腕に抱かれるだけで天国に昇る心地がした。


「どうしてここにきたの」


 加納は少しも迷わずに尋ねた。


「理想郷から迷っていたら、悲しみを見つけたから」


 鳥の人は加納の頬を撫で、美しい声で答えた。


 その声は最高級の楽器を達人が奏でるように、聞きやすく美しかった。


 ちらと加納が視線を鳥の人の顔から外すと、極彩色の翼が見えた。


 この人こそ、私が会いたかった鳥の人だ――加納は確信と共に、鳥の人の首に腕を回した。


「とても悲しい事があったの」


「けれど、それだけじゃあないのでしょう」


「そう。私はいつも悲しい」


「悲しくなっても、貴女は生きてきたから」


 鳥の人の言葉に、加納は眦から涙が溢れるのを抑えきれなかった。


 そう、悲しみながら生きてきた。


 本当はずっとこの家にいたい、そして生きていきたい、けれど人は人と繋がっていないと生きてはいけない。人と人の繋がりで生きていく術が、この地にいてはない。


 子どもみたいな空想ばかり膨らんで、被害妄想に似たそれが加納の将来を不安にさせる。


「みんな、みんな嫌い。先生も、クラスの誰も、おばあちゃんも、お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも」


 ほとんど縋るように、加納は鳥の人の首筋に甘えていた。鳥の人は加納に回している腕を変え、赤子をあやすように抱いた。大きな翼が加納を包み込む。そこには独特の甘い香りがして、加納は嗅いだ事のない香りに眩きそうになった。


「だから、貴女がいればいいから」


 つ、と加納の額に柔らかい感触が触れる。それは唇のより低い温度であるに違いなかった。


「悲しまなくてもいいから」


 慰められていても、加納は利かん坊のように涙を垂れ流してその首筋にしがみついた。


「ねえ、理想郷を知っているなら連れていって。そこで悲しみみたいな翼で、愛しさみたいに抱いてよ」


 加納は自分の心がどこにあるのか分からなかった。この一つの神秘体験によって、その神秘の側に引き寄せられている事が理解できていなかった。だから悲しい事を言った。


「いつでもここにきていいから、そんな悲しい事を言わないで」


 鳥の人は加納の顔を抱いて、そっと視線を合わせる。瑠璃色の瞳は、加納にとってとても魅惑的に見えた。


「それなら、ぬくもりだけでも頂戴」


 加納は少し熱っぽく言った。


 鳥の人は答えてくれた。


 甘い香りが加納の口内を満たす。僅かな湿度はいつまでも味わっていたい陶酔をもたらした。それでも、それが終わりの合図なのだと、頭のどこかで分かっている。


「生きていく力がなくなったら、いつでも会いにきて」


 鳥の人は加納を抱いたまま、徐々に空間の下方に向けて失墜していく――一つ、彩雲を見た。その香りに包まれた次の瞬間、目の前から鳥の人はいなくなって、加納はぽつんと一人、荒野に立っているだけだった。


 深呼吸をしようと思えば、口が開いて慣れ親しんだ自分の部屋の香りをもたらした。


 目が覚めて、加納は天井を見詰めた。いつもと変わらない朝だった。少し暑い。夏の足音が聞こえる気がした。


 枕元に置いた紫の数珠を見ると、何も変わらずにそこにあった。


 一時でも、夢で鳥の人に会えた事は、加納にとって少しだけありがたかった。


 そうでなければ、朝がきて仕方なく目覚めて、悲しみを片付ける事はできなかっただろうから。


 一つの体験が何を意味するかなど、その時その時に分かれば苦労はしない。


 ただ、未来で振り返れば何か分かるのだろう。


 加納は紫の数珠をしまい、机の上に置いた。そして、便箋を一つ出した。


「世界が酷く悲しいから、あなたに会いたかった。


 抱きしめたまま最果てまで連れていって欲しかった。


 でも無理だから、今はぬくもりに溺れていたい。


 冷たい世界の中であなたの温度を頼りに生きていく」


 書き終えると、加納はそれを数珠と一緒にしまって、小さく手を合わせた。


 祖父が遺した桔梗坂を、自分が手入れしようと決めた。


 もうすぐ、桔梗の季節。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る