第13話 どうあがいても

【七】


「折原君、これ」


 朔也は渡された白いたすきの端を口に挟み、左の下からぐるりと回して心臓の上できゅっと結んだ。腕を動かし、浅葱色の袂が邪魔にならないか確認する。少し短めの袴もおかしくないようだ。裸足で立つ廊下の冷たさが今は心地いい。


 廊下に並べられた墨池に今井が真剣な顔で墨汁を注いでいたが、別の部員が彼女に声をかけてたすきを渡した。第一体育館から卒業生たちが歌う校歌が聞こえてきて、パフォーマンス直前の書道部員たちの顔が引き締まる。


「皆、集まって」


 部長の声に高揚感と緊張感に包まれた十数人が小さな輪になる。部長が中央へ手を出すと、全員がそこへ手を合わせた。


「このメンバーでこのパフォーマンスを披露できるのは一回限り。泣いても笑っても二度とできないパフォーマンスよ」


 部長の凜とした声に、朔也もぐっと気持ちを引き締めた。


「先輩たちに恥ずかしくない最高のパフォーマンスにしよう!」

『はい‼』


 皆の大きな声が重なる。


 体育館のほうから別の合唱が聞こえてきた。在校生による送別の歌だ。


 卒業生は退場曲とともに体育館から校舎二階へ移動する。校庭を囲うコの字型の廊下に卒業生が並び、書道パフォーマンスを鑑賞したあとにそれぞれの教室へと帰っていく。卒業生にとっては体育館から教室に戻る隙間の時間だ。


 だが、その隙間の時間に書道部は全てをかける。


 朔也は自分の筆を握った。ぐっと中指に力を入れて持つ。大丈夫だ、違和感はない。


「さあ墨池と筆を持って。校庭に出よう!」


 部長の合図で部員たちは校庭に飛び出した。真っ白な紙の周りを二手に分かれてぐるりと回るようにスタート地点へと向かう。空を振り仰げば真っ青な快晴で、日差しの強さがそこまで来ている春を思わせる。


 ふと校舎を見て朔也は驚いた。三階や四階の窓からたくさんの在校生たちが興味津々でこちらを見ている。手を振るクラスメイトたちを見つけて、そうか、と思った。体育館にいる在校生は二年生だけ。部活や委員会の先輩たちを送る一年生は校舎内で待機しているのだ。


「書道部、整列!」


 部長の言葉に朔也は定位置で背筋を伸ばし、校舎を見上げた。太陽がそちらの方向にあって、眩しさに目を細めたくなる。


 そこへパッヘルベルのカノンと拍手が聞こえてきて、暫くすると涙に目を押さえた卒業生たちが出てきた。口元に笑みを浮かべていた彼ら彼女らが、校庭に敷かれた真っ白な紙と袴姿のこちらに気づく。「書道部だ!」と誰かの叫ぶ声がした。たちまち二階が卒業生で溢れかえる。一緒に初詣をした先輩の顔も見えた。


 ざわめきと校庭に吹き抜ける風の中、朔也は深呼吸をした。


 泣いても笑っても、これが一年の集大成。大会の選手になれずに泣いた。パフォーマンス用の字を目指して、自分の字を見失った。書道に背を向けて逃げようとしたことも、怪我に恐怖したこともあった。そうやって自分と向き合いながら、大切なものを見つけることができた。


 校庭に面した放送室のガラス窓を顧問が小さく叩く。いつもと違って灰色のカーテンが開いている。すると音楽が始まり、声が流れ出した。


「これより、書道部から卒業生へ、贈る言葉の書道パフォーマンスを行います」


 朔也はくるりと背を向け、足を広げて筆を構えた。――見てろ、山宮。おれは絶対にこのパフォーマンスを成功させる。


「参加いたします部員は、一年、今井はるか、折原朔也……」


 名前を呼ばれた瞬間、朔也は筆を紙に落とした。呼吸を整え、勢いよく、力強く。


 わああとあがる歓声と太陽を背負い、一歩ずつ下がりながら筆を動かす。左右にいる今井と先輩の袴の裾が見えた。


――躍動感がほしい。


 顧問の言葉を思い出し、朔也は体全体で筆を払った。


 もう迷わなかった。筆の入りは紙のどこか、どちらへ向かって跳ねるのか、並んだ横線のどれが一番細いのか、線のどこが強くてどこが弱いのか、全て見えている。


「三年生の皆さん、ご卒業、おめでとうございます……」


 部員紹介が終わると、贈る言葉の代読が始まる。名前を読み上げていたときの落ち着いたアナウンスからトーンがあがって明るい声になり、突然辺り一面に桜の花びらが舞い散るような空気に変わった。拍手はいつの間にか手拍子になっている。


 背に当たる日差しが熱い。額から噴き出した汗が顎からしたたり、髪先にもぽたぽたと粒が連なった。筆に墨を足せば指に墨汁がつき、筆を落とすたびに足の甲にも黒い点が飛ぶ。だが、そんなことは気にならなかった。


 楽しい、楽しい、楽しい。


 朔也の心の奥から気持ちが湧き水のように溢れ出した。


 正確なおれの字が書ける。音楽の持つ躍動を感じながら筆を動かせる。これまで培ってきたものの全てから字を生み出すことができる。


 筆を動かす腕が痛い。曲げた腰が痛い。全身運動に息があがり、口からはっはっと息が漏れる。それでも筆は止まらなかった。呼吸がビートを刻み、それに合わせて紙に濃墨が駆け抜ける。


 線と線がつながって文字へ、文字と文字がつながって言葉へ、言葉と言葉がつながって文へ、そして、部員一人ひとりが書いた文がつながって一つの文章になる。真っ白だった紙に筆先から部員全員心を合わせて命を吹き込み、山宮の声が思いを伝える。


――そうだ、これこそが、おれのやりたかった書道パフォーマンス。


「整列!」


 部長の声に我に返ると、筆と墨池を手にはあはあと息を切らし、裸足の足がコンクリートの校庭を踏んでいた。目の前には、校庭を覆う白い紙と、そこに踊る黒の文字が竜のように伸びやかに遠くまで広がっている。


 さあっと風が襟元を吹き抜けて、朔也は顔をあげて振り返った。休めの姿勢をとって校舎を仰ぐ。そこには割れんばかりの拍手をする笑顔の卒業生たちがいた。


「ありがとう!」

「書道部最高‼」

「感動したよ!」

「ホントに、本当にありがとう‼」


 歓声が飛び交う中、部長の「ありがとうございました!」という声が響く。皆で「ありがとうございました!」と声を合わせ、そのまま駆け足で外廊下から校舎内へと走り込む。


 気づくと、職員室前の廊下に書道部全員が輪になって集まっていた。手足や腕だけでなく顔まで墨汁で汚れ、女子たちの結んだ髪は崩れ、たすきで結んだ袂も大きくずれている。演技をやり遂げた部員たちの様子は、ぼろぼろだった。


 突然「う……」と部長が筆を握ったまま泣き出した。すぐさまそれが伝染し、皆がそれぞれ泣き始める。目を真っ赤にさせて「頑張ったよ、頑張った」と慰める者もいて、朔也と同じく、一度もパフォーマンスに参加できていなかった一年の女子が今井に抱きついて号泣している。朔也の目にも涙が浮かびそうになったとき、校庭につながる扉が音を立てて開いた。


 そこには、透明なケースに入ったCDと台本を握りしめた山宮がいた。


「書道部の皆さん、お疲れのところすみません。この音源をお返ししたくて」


 すると今井が「山宮君!」と声を遮って側に駆け寄った。


「音楽と放送をありがとう! パフォーマンスができたのは山宮君のおかげだよ!」


 笑顔の今井の言葉にすぐに他の部員たちも山宮を取り囲んだ。


「アナウンス、きれいな声だった!」

「原稿を間違えずに読んでくれてありがとう」

「名前を呼ばれてすっごく嬉しかった!」


 口々に飛び出す賞賛と感謝の嵐に、袴に囲まれた山宮が慌てたように首と手を振った。


「い、いや、俺は、そんな、全然」


 照れたように口元に手をやり、マスクがないことに気づいた彼が照れたように俯く。その様子に、つい声が出た。


「山宮!」


 朔也の声に弾けるように彼がこちらを見た。声が大きかったからか、その周りの女子たちがお喋りをやめて朔也を見る。


 山宮。言いたいことがたくさんあるんだ。ありがとうと言いたいことがあるんだ。山宮がいなかったら今日のおれはいなかった。


「山宮のパフォーマンス最高だった! ありがとな‼」


 朔也が両手を掲げると、山宮の顔が花が咲きほころぶように満面の笑みになった。ハイタッチにパンッと爽やかな音が鳴る。


「折原、お前もな!」


 再びわっと沸きかえった輪の中で、朔也は目尻に浮かぶ涙を拭った。



「現代文は」

「59」

「おれ、94。次、数学ね」

「44」

「お、少しあがったじゃん。92。次、家庭科」

「53」

「95。さあ、有終の美を飾る保健は?」

「……61」

「六十点台おめでとう! おれ、98」

「ああああクソ‼」


 山宮がばっと答案用紙を宙に放った。放送室内にひらひらと舞い落ちる答案用紙を朔也が拾い集めていると、山宮が悔しそうに頭を抱えた。


「なんで俺は勉強ができねえんだ。マジで意味分かんね……」

「放送部なら原稿を読むじゃん。国語関係はもっとできるんじゃない?」

「形容詞形容動詞が登場したときに俺は思った。国語はもう俺の知る国語じゃねえ」


 くしゅん、と山宮が何回目かのくしゃみをした。花粉症がつらいと言ってマスクはつけっぱなしだ。あまり扉の開閉を行わない放送室内にも彼の敵は入り込んでしまっているらしい。


 朔也は拾った古典の答案を眺めた。冬休みに教えた問題は全問正解だったが、三学期に習った部分は全滅している。他の答案用紙もぱらぱらと捲ったが、途中から真っ白になっている教科もあった。


「山宮って、納得するまで問題文を理解しようとして時間が足りなくなるんじゃ? 数学は明らかに時間配分を間違えてるよ。あとは暗記の仕方に問題があるな。exの単語を何度書いても、文章と一緒に覚えないとどう使うのか分からないだろ。つまり、山宮は勉強ができないんじゃなくて要領がよくないタイプね」


 すると前髪とマスクに挟まれた目がじとっと非難するようにこちらを見た。


「そこまで分かってんなら試験前にアドバイスしてくれてもよくね」

「分かったのは今だから。冬休みからの様子と今回の結果を見て考察しただけ」

「春休み花粉アンド宿題注意報。各教科から出されたプリントの量がやべえ」

「ん、頑張って」

「頑張って、じゃねえよ。誰かに教えてもらわねえとできねえわ。ちゃんと教えろよな」


 それを聞いた朔也の心がぽかぽかとした。明日の終業式で同じ教室で過ごした一年D組は終わる。だが、自分たちの関係は終わらない。


 そこでまた山宮がくしゃみをした。


「健康祈願のお守り、効かねえな……」


 山宮が鞄に揺れる紺色のお守りをつつく。

「花粉は守備範囲外じゃない? 薬は?」

「アレルギー科の姉貴に処方してもらったけど、眠くなるから飲みづれえんだわ」


 突然、山宮が足を向こう側に投げ出してカーペットの床にごろんと転がった。やれやれと言わんばかりにため息をつく。


「ようやく一年が終わった……赤点をとらずに終えられて気抜けたわ」

「赤点をとると家族に怒られるの?」

「家じゃなんも言われねえけど、この学校じゃ赤点とったら部活停止だろ」

「下校放送の一分ちょっとのために放課後放送室に残って、朝もなにかあったときのために待機して、その間に宿題や課題をやってたんだもんね。部活と勉強の両立を地で行ってるよ」

「朝で思い出した。明日の朝、俺ここにいねえから」

「えっなんで?」

「終業式だろ。マイクの準備やら式中の音響関連やんなきゃなんねえんだわ」

「そうか、それで十二月の終業式のときもクラスにいなかったのか」

「舞台の内側に小部屋があるから見てみ。出席番号順に並ぶなら折原からも見えるんじゃね」


 へえ、と朔也は思った。放送部のことも山宮のこともまだまだ知らないことがたくさんある。


 朔也が山宮に「はい」と答案を渡すと彼は無造作に床に置いた。こちらを見上げる顔が、ふとなにかに気づいた表情になる。


「折原って、睫毛も茶色なんだな」


 今気づいたわ、そんなふうに言う彼の言葉に口端が緩んだ。寝転がる山宮が目の奥を覗くようにこちらを見ている。


「目の色も山宮とは違うよ。ヘーゼルってやつ」

「いろんな色に見えるな? 緑っていうか、灰色っていうか、茶色っていうか」

「それがヘーゼルの特徴。母親がそうだから、遺伝だね。姉ちゃんは違うんだけど、おれだけ母親の遺伝で髪も茶髪で天パ」


 すると山宮がふっと息をついた。


「そういや、委員長が言ってたな。見た目のせいで昔いろいろあったって」


 山宮の言葉に昔のことが頭をよぎる。だが、いつものように澱が沈殿するような気持ちにはならなかった。前髪を一つまみつまんで見る。ずっと嫌っていた色も、今は素直に受け入れられる気がした。


「……先生たちには内緒にしてもらってるから今井以外誰も知らないんだけど、おれ、ハーフなんだよね。母親がヨーロッパ出身でさ。書道に惚れて来日したって言うから、そこも似たんだと思うんだけど」


 すると案の定山宮が「え?」と目を見開いた。口からははっと笑い声が出る。


「分かんないよな? おれ、顔が目立たないから。昔から身長や髪のことは言われてきたけど、中学になるとひどくなってさ。髪が校則違反だ、英語ができてずるい、背が高いなら運動部に入れ、とか。でも髪は変えられないし、母親の母国語は英語じゃないし、部活は好みじゃん。外見のことを言われるなら中身でカバーしようと思って勉強も運動も部活も頑張ってたんだけど、ある日ぷつんって糸が切れちゃったわけ。あとは山宮の想像の通り」


 朔也が話す間、山宮は一言も口を挟まなかった。


「髪が茶色なのは染めてるからだ、ハーフなら英語が話せるはずだ、身長が高いなら運動部だ。そうやって皆が自分の『普通』を押しつけてくる。だから高校では絶対に失敗しないようにって、最初に書道好きをアピールしたり、髪が悪目立ちしない色のカーディガンを着たりしてたんだ。クラスでは皆に合わせてれば無難に過ごせたから、これが『普通』で正しい振る舞い方なんだって思ってたんだけど」


 朔也は歯を見せて笑った。


「それが山宮にはバレバレだったってわけ。自分らしく振る舞えて、堂々と自分を表現できる山宮が羨ましいよ」


 すると、山宮は眉根を寄せて頭を掻いた。


「前にチャラい髪っつったのは撤回する」

「あれ、そんなこと言われたっけ」

「気にしてねえならいいわ。お前、あとなに隠してんだ」

「なにも隠してないよ。山宮はなにか隠してるの?」


 朔也が笑いながらつけ加えると、彼が急に苦虫を噛み潰したような表情になった。


「先に言っとくが、委員長は悪くねえからな」

「……なんで今井の名前が?」

「……実は委員長と付き合ってた……」

「え、ええええ⁉」


 初めて聞く話に朔也は仰け反った。


「山宮と今井⁉ いつ? 全然気づかなかった」

「五月の罰ゲームのあと。お前に玉砕したことを報告しに行ったらそのまま流れで」

「ええっ? 流れってどういうこと⁉」


 思わず大声を出すと、山宮がびしっと下から指をさしてくる。


「委員長は本当に折原が好きだったんだぞ」

「……本人から聞いたよ」

「お前が鈍いからあいつもキツかったんじゃね。『あたしたち二人共つらいね』『つらい者同士で付き合えばあたしも諦められるのかな』って言ってたわ。このクソ鈍チンめ。気づいてやれよ」

「ええ……それ、おれつながりで付き合ったってこと?」

「最初は断ったぞ。けどよ、泣きそうな顔で『好きな人が同じなら話が合うかもしれないでしょ』なんて言われたらどうしていいか分かんねえわ。もしかしたら別のやつを好きになれるかもって打算的にオーケーした俺も悪りいけどよ。結局お互い気持ち変わんねえなってことで終了したわ。ったく、あんな分かりやすいやつの気持ちに気づかねえとか、お前の頭はお飾りか」


 朔ちゃんは鈍いと言った今井の表情を思い出し、う、と言葉に詰まる。


「この話、おれが聞いてよかったの?」

「委員長が俺から言ったほうがいいんじゃねっつったんだわ。『朔ちゃんは気づかないだろうけど、あとから知ったら嫌だろうし、山宮君はきっかけがないと言わないでしょ』ってよ。あいつはお前のことを考えて言ったんだぞ。お前は食事ごとに委員長に感謝の祈りを捧げろ」

「今井はいい子なんだよ……」

「委員長がいいやつなことくらい知ってるわ。そんなやつを分かってやらなかったのは誰だよ」

「……面目ない……」


 言うことを言ってすっきりしたのか、山宮は起き上がって壁に凭れて座った。鞄からティッシュを取り出し、マスクを外して鼻をかむ。一方の朔也は背中がむずむずとしてきた。


「ねえ、どれくらい付き合ってたの?」

「はあ? 覚えてねえよ。たいした期間じゃねえわ」

「そのたいした期間じゃないって何日の話? 数週間? 数ヶ月?」

「んなことどうでもよくね。お互い好きにならねえなって確認するだけの日数だわ」

「いや、気になるでしょ。まさかキスとかした?」


 すると山宮が面食らった顔つきになった。


「……してねえけど」

「その間、なに⁉」

「いや、お前の食いつきよ。急にどうした」

「答えになってない! ちゃんと教えろ!」


 朔也が身を乗り出して詰め寄ると山宮は額に手をやってため息をつく。


「なんで突然スイッチが入ったのか分かんねえ……」

「教えない気なんだ⁉」

「してたらどうすんだよ。俺を殴って委員長を慰めに行くのか?」


 まあお前は一度感謝の気持ちを伝えたほうがいいぞ。言っておくがこの件に関して俺は委員長の味方だからな。


 ぶつぶつと続ける山宮の肩に朔也は手を置いた。


「山宮」


 呼びかけにこちらを見た山宮の頬に手を当てると、そのまま肩を抱き寄せてキスをした。少し開いたままのくちびるがぽてっとしている。一度離れたが、ぽかんとした山宮が微動だにしないので、同じようにもう一度口を重ねた。


「うあっ」


 次の瞬間、山宮が全力で朔也を引き剥がした。その手がばしばしとキャメル色のカーディガンを叩く。覗いたうなじが真っ赤に染まっていて、つい笑ってしまった。


「おかしい。山宮が照れてる」

「お前、マジ、なにしてくれてんだよ!」

「山宮が教えてくれないからちょっとムカついた」


 山宮が顔を手で覆って「あああ」と変な声を出す。


「その口腐ってもげろ! 距離感の壁を崩壊させやがって!」

「前のマスク越しにしてきたのは山宮なりの距離の空け方だったってこと?」

「これで上書き保存できるわけねえだろ!」

「やっぱり今井としたの⁉」

「ただのたとえだわ! ……マジで、こっちの気持ち、考えろ……」

「じゃあ考えるから、山宮の気持ち教えて」


 するとようやく山宮が真っ赤になった顔をあげた。


「お前卑怯だぞ! お前ってやつは、マジで、ほんと」


 そこでぷつんと山宮の声が途切れた。耳まで赤くさせてカーペットに目線を落とし、口をぎゅうっと引き結んでいる。


 耳、かわいい。


 両耳を両手できゅっと握ると山宮の体が跳ねるように飛び上がる。その耳を包むように手を添えて額にキスすると、山宮は膝を抱えて突っ伏してしまった。


「こんなに感情がころころ変わる山宮を見るのは初めて」

「……ぜんぶ、おまえのせいだ……」

「いちいち反応しちゃうのかわいい」

「……おとこにかわいいは、いらねえ……」

「普段はかっこいいと思ってるよ。イケメンだよね」

「……いけめんくない……」

「あ、日本語が壊れた。照れてるの?」

「てれてるてれてる、うっせえ……」

「なるほど、充分照れていらっしゃる」

「…………」


 無言になった彼を見て朔也は心から笑った。


「ねえ、もう一回する?」

「……もう心臓が持たねえ……」

「でも、する流れじゃん」

「流れはともかく心臓がもたねえ……」

「じゃあ、抱きしめてもいい?」

「……全部俺に聞くのやめろ……」

「それはしていいってこと?」

「だから、やめろ……」

「山宮」


 小さな山宮をぎゅっと抱きしめると朔也は目を瞑った。どくどくという鼓動が伝わってくる。頭を抱えるとやわらかい髪が朔也の指に絡まった。


 結局、おれの気持ちはここへたどり着く。今井に言われても、山宮に拒絶されても、どうあがいてもこの想いは恋だった。


「おれ、山宮が好きだ」


 腕の中の山宮が掠れた声を出す。


「……前も言ったけど、今の状態はお前のほしかった普通とは違うんじゃね」

「分かったんだ。おれ、普通になりたかったんじゃない。おれを普通だって言ってくれる人に会いたかったんだ」

「……委員長もお前を普通だって言うだろ」

「伝わってないのかな。山宮がいいって言ってるんだよ」


 すると山宮の手がぎゅっと朔也のカーディガンの袖を掴んだ。


「……やべえわ」


 山宮が消え入りそうな声で呟く。


「幸せすぎて、おかしくなるわ。信じらんね……」

「書道しか頭にないおれに興味を示す時点で山宮も変わってる」

「なにかに熱心に取り組んでるやつなら部活に夢中な俺をバカにしねえと思った。多分、俺は自分をさらけ出せる人がほしかったんだわ。それが折原だったら、マジで幸せ……」

「じゃ、キスしていい……?」


 山宮が緊張した様子でぎゅっと目を瞑る。朔也はそんな彼を眺めた。


 黒いストレートの髪に黒い睫毛。自分を豊かに表現でき、つらい経験から人に優しくできる心の強さ。山宮はおれがほしかったものを全部持っている。


 機械に囲まれ、しんとした小部屋に囁くような息遣いだけが聞こえる。中庭では木々が春を迎える準備をしていた。




【了】

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どうあがいても恋でした。 タリ イズミ @tari_izumi

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