第8話 居心地のいい放送室

【四】


 翌早朝、あくびをかみ殺して朔也は学校へ向かった。


 夜、山宮に連絡しようとも思ったのだが、過去が邪魔してメッセージの送信や電話といった行動をとることはできなかった。メッセージを無視されたら、電話で突き放されたら――怖い。そう思うと指が止まってしまう。すぐに謝るのが正解だと分かっているのに、自分をコントロールするのはひどく難しい。


 結局そのまま模試対策もせず、スマホ片手にベッドでうつらうつらしてしまった。今も冷たい風に吹かれているのに、頭がどこかぼんやりしている。


 が、学校の校舎が見えてくると朔也の心臓がどきどきと音を立て始めた。


 そもそも、山宮に謝るチャンスももらえないかもしれない。話すことすら拒絶されるかもしれない。そう思うと胸がざわざわして、心が落ち着かないまま校門をくぐって放送室に足を向けた。


 教室よりも放送室のほうが静かで二人きりで話せる。山宮が今放送室にいるとは限らないが――そう思った朔也の足が止まった。


 おれは、山宮が普段何時頃に教室に来るのか覚えていない。だから、今、山宮が教室にいるのかいないのか、そもそも登校しているのか、見当もつかない。おれはどうして山宮のことをこんなに知らないんだろう。……山宮は、そんなおれをどうして好きだと思ったんだろう。


 と、そこへなんの偶然だろうか、朔也の目が職員室から飛び出してきた山宮の姿を捉えた。外廊下を放送室のほうへと慌てたように走っていく。


 今しかない。


 朔也も次の瞬間にはその背を追って駆け出した。放送室前でようやく彼を捕まえる。


「お、おはよう」


 朔也は緊張して声をかけたが、彼はそれどころではないらしい。こちらも見ずに「はよ」とだけ答えると、ガチャガチャと鍵穴に鍵を差し込んで回そうとした。が、どうやら違ったらしい。チッと舌打ちすると、キーリングにもう一つ下がっている鍵を掴む。


「どうかしたの?」

「チャイムだよ」


 焦りを含んだ口調で山宮が言い放った。


「今日、全校模試だろ。チャイムの時間を変えねえと」


 早口でそう言い、放送室の扉をぐっと引っ張って開け放つ。いつぞや静かに閉めろと言っていたのはどこへやら、上履きを脱ぎ捨て肩に提げていた鞄を放ると黒いデッキのところへしゃがみ込んだ。朔也は重さで閉まりかけた扉を手で押さえ、自分も中に入ってそっと閉じた。だが、山宮はそれを指摘することなくデッキのボタンを操作する。


「七時半、八時、二十分、三十分……」


 眉間にしわを寄せた山宮がぶつぶつと時間を呟く。その隣に朔也も膝をついて覗いた。白い指がボタンを押すごとに時間が表示され、ときに別のボタンを連打して数字を変える。


「山宮、なにしてるの?」

「煩え。分かんなくなるから黙ってろ」


 ぴしゃりと言われて朔也は口を閉じた。


 デッキの数字が次々に変わり、最後に18:00:00が表示された。山宮がやれやれといったように息をつき、パチンと音を立てて小さな黒いつまみをあげた。暑いのかマスクを外して手で額の汗を拭い、鞄から出したペットボトルの水を口に流し込む。朔也はもう一度尋ねた。


「ねえ、今なにしてたの?」


 すると山宮がペットボトル片手にかがみ込んでいた姿勢を崩す。


「チャイムの時間設定。今日は一年も二年も授業じゃなくて模擬試験だろ。試験時間に合うように、普段とは違う時間にチャイムが鳴るように設定したわけ」


 ギリ間に合ったわ。


 そんなふうに言って再び水を飲む山宮の台詞に朔也は驚いた。が、口を開く前にキーンコーンカーンコーンとチャイムが放送室内に鳴り響く。ひしめき合う機械群に囲まれた空間は、チャイムが鳴り終わると同時に時間がぴたりと止まったように静まりかえった。


 山宮の操作していた機械を改めて見れば07:30:21と現在時刻が表示されている。部長の号令がかかり、朝練を始める部活の様子が浮かぶ。


 朔也は第二体育館に向いたカーテンを見た。きっとその向こうでも生徒たちがウォーミングアップを開始しているだろう。


 改めて白い数字が浮かび上がるデッキを指さして尋ねる。


「この時間に合わせてチャイムが鳴るの?」

「そう。定期試験だと休み時間が十分から十五分に変わってチャイムの時間がずれるだろ。それもここで時間を設定してるってこと」


 事もなげに言った山宮の言葉に朔也は驚いた。


「じゃあいつも山宮が時間を指定してチャイムを鳴らしてるの⁉」

「チャイムを鳴らしてるのは機器で俺じゃねえわ」

「でも、山宮が操作した時間に鳴るんだろ? それってすごい大仕事じゃん!」


 朔也がすごいと繰り返すと、彼はふっと小さく笑って声を和らげた。


「いや、普段は顧問の先生がやる仕事なんだわ。ただ今日は朝に会議があるからって急遽頼まれただけ。ここの機械の操作を知ってるのって放送部員だけだからさ」


 それを聞いた朔也はますますへえと思った。生徒の一日を決めるチャイムの操作ができる山宮が眩しい。


 皆はなにも知らないのだ。今日チャイムがいつもと違う時間に鳴っても、「そういうものだ」と誰も疑問に思わないだろう。実際これまでの朔也もそうだったのだから。


「放送部って本当にすごいんだな……」

「すげえのは書道部じゃね。パフォーマンス甲子園に出たりしてんだから」


 校舎の外に垂れ幕かかってるもんな。山宮はそう言うと、もう一度喉を潤すようにペットボトルの水を飲んだ。それに合わせて喉仏が上下する。と、そこで朔也の視線に気づいたように山宮がこちらを見た。


「で?」

「え?」

「なんか用?」


 言われてはっとする。昨日の謝罪をするはずが、いつものように話してしまった。


「え、えっと」


 途端に背に汗が噴き出した。


 昨日、呼び出したのはプレゼントしたいものがあっただけなんだ。本当にごめん。それに、今井と喋ってるのを聞いちゃったんだ。罰ゲームで好きって言うの、あれ、本気だったんだ。全然分からなかったよ。


 いろいろと言いたい言葉は浮かんでくるが、言葉にならない。朔也を見る彼は真顔で、自分に好意を寄せているようには見えなかった。


「あー……」


 朔也は頬を掻いて無理矢理言葉を捻り出した。


「山宮がすごく慌ててたから、なにかあったのかなと思っただけ」

「ああそう」


 山宮が飲み干したペットボトルを鞄に戻しながら言う。


「折原、模試に向けて勉強すんじゃねえの。教室で単語帳でも見てろよ」


 いつも通りの山宮の口調が今日はなんだか突き放すように聞こえる。だが、ここで逃げ出したら二度と山宮と向き合えないような気がした。腹をくくった朔也は唾を呑み込むと、思い切って「ここで見てもいい?」と尋ねた。


「あ? なんで」

「ええっと、ここ、静かで集中できそうだから」


 すると山宮が少し考えるふうな表情をし、「ま、いっか」と呟いた。


「折原、放送室で勉強したって誰にも言うなよ」

「え? うん、分かった、言わない」

「放送室っていろいろ高い機材があるからさ、部外者をあんまり入れないようにってことになってるから」


 そこで小さく山宮が笑った。


「だから、内緒な。俺とお前だけの秘密」


 俺とお前だけの。山宮の言葉に何故か顔が火照りそうになり、朔也は慌てて鞄を引き寄せた。その一方で安堵する。山宮が教室へ戻れと言ったのは、話したくないという意味ではなかったのだ。


「そ、そうなんだ。うん、分かった」

「……で? 模試、どこを対策しておけばいいわけ。ついでに教えろよ」

「模試の範囲なんてあってないようなもんだし、自分の苦手なところを見ておいたらいいんじゃない?」

「お前、俺の成績を知りながらよくもそんなことが言えんな。苦手だらけでどこから手をつけたらいいのか分かんねえわ」

「あはは、確かに」

「今のは否定するところじゃね」


 会話が順調に滑り出し、朔也は英単語帳を取り出そうと鞄を覗き込んでそれを思い出した。神社で買った、お守りの入った白い紙袋。


「……山宮、これ、あげる」


 驚いた表情で袋を受け取った山宮に、朔也は顔の前でぱんっと手を合わせた。


「昨日はふざけてごめん。ただそれを渡したかっただけなんだ」


 朔也の言葉に山宮が黙って袋からお守りを取り出した。その手の中に収まる紺色のお守りは、彼に似合っているように見えた。


「……健康祈願?」

「書道部で筆供養のために初詣に行ったんだ。そのときに買ったお守り」

「……なんで俺に?」

「それ見たときにマスクしてる山宮のこと思い出して。先生もインフルにかかってたし、ちょうどいいかなって思って買っちゃったんだ」


 とってつけたような理由だったが、お守りをじっと見つめた山宮が「サンキュ」と言った。その声が心なしかいつもよりも浮ついていて、朔也はちらりと覗く彼の耳が少し赤くなってることに気づいた。


――もしかして、照れてる?


 そこでようやく朔也は彼が自分を好きなのだということを少しだけ実感した。が、すぐに山宮の口がへの字に曲がった。すぐにこちら側の手が頭を掻き、学ランの袖で顔が隠れる。


「理由も聞かずに引っぱたいたのに、俺も謝ってなかったわ。悪りい」

「ああいうこと嫌だったんだもんね? それなのにふざけたおれが悪いって分かってるから」


 朔也の言葉に山宮の腕が下におりた。隠れていた顔が心なしかほっとしたような表情に変わる。


 マスクがないから、表情を読まれたくなくて隠したのか。山宮って、案外分かりやすいのかも。


「……で、フデクヨウってなに」


 山宮が再び顔を腕で隠すようにして頭を掻く。その口調もいつもより心なしかぶっきらぼうだ。


「使い終わった筆を神社に持っていって供養してもらうんだ。お札供養とかと同じ。書道部では毎年使い終わったのを初詣に行って供養してもらってるんだって」

「へえ。わざわざ行くなんて面倒じゃね」

「そう? 神社に行くと気分いいよ。初詣は混んでたけど、普段は静謐で、霊験あらたかって感じでおれは好き」


 そう言って少し笑うと、山宮が呆れ顔になる。


「折原ってジジくさ……。高校生で神社好きって、あんまいなくね」

「そう? 委員長も神社は好きって言ってたな」


 すると山宮が「確かに好きそう」と呟く。


「委員長はパタパタするノートに筆で書くやつ……あれを集めてそうじゃね」

「御朱印のこと? おれも書いてもらうよ。季節限定のものがあったりして、始めるとはまっちゃうんだよね」


 結局朝会直前まで朔也たちはお喋りをして過ごした。放送室を出るとき、彼がそっとお守りの入った袋をしまうのを見、心に爽やかな風が通り抜けるのを感じた。



 新学期の慌ただしさがなくなってきた日の放課後、朔也が「やっほ」と放送室の扉を開けると、床に座り椅子を机代わりにしてなにかを書いていた山宮が「ん」と手をあげた。だが、その右手がマスクを外すと怪訝そうな表情が表れる。


「お前、今日書道部は?」

「自主練だから大丈夫」

「珍し。先週は放課後一度も来なかったろ。自主練も皆勤賞狙いかと思ったわ」 

「今日はちょっと気分転換しようかなって」


 笑いながら言った朔也の言葉に彼がじとっとした目つきになった。


「朝も来たくせに気分転換にここを使ってんじゃねえよ」

「だって、防音で静かだし、図書室よりも集中できるし。おれがいたら邪魔?」


 すると山宮がシャーペンを置き、深いため息をつく。


「それ、邪魔じゃねえって言わせようとしてね?」

「バレた?」

「ったく……まあ、いいけど。邪魔じゃねえわ。好きにすれば」

「ではお邪魔しまーす。嬉しいなあ、山宮君って優しいんだなあ」


 朔也は明るくそう言ってさっさと上履きを脱いだ。山宮と鞄一つ分空けて、定位置になったカーペットの床にどさっと腰を下ろす。一方の山宮は膝に肘をつき、そこに顔を載せた。


「折原って、案外わがままっていうか、甘ったれっていうか……」

「山宮君の寛大さに感謝してます! 頼れる人には頼ろうと思ってさ」


 急に山宮が口を噤んだ。ちらりと彼を見やると、頬杖をついた顔が照れたように赤らんで、不自然にきゅうっと結んだ口を誤魔化すように手でこすっている。こちらの目線に気づくと「ズリいやつ」と朔也の腕にぽすっと右ストレートを打ち込んだ。


「折原っていい性格してんな。教室でバラしてやりてえわ」

「それはこっちの台詞。山宮だって教室では大人しそうなのに、結構口悪いよ」


 朔也はそう言いながら数学の教科書とノートを取り出した。出席番号を考えれば明日当たるのは確実だ。その様子を見た彼も、「あ」と慌てたような顔になった。


「数学、俺も当たるわ。今日習ったとこ、至急解説要求」


 案の定の流れに朔也は内心笑い、彼の復習に付き合った。冬休みの経験から彼の躓きそうなところは分かっている。




 冬休み明けに二人で話して以来、放送室で過ごす時間が増えた。チャイムの一件等、朝早くから山宮は放送室にいることが多く、朔也が朝訪れるようになってもう何日にもなる。放送室に部員以外が入ってはいけないという言葉も覚えているが、入るなと言われたことは一度もない。


 今日、朔也が放課後に放送室にやって来たのには明確な理由がある。部活に行きたくないからだ。


 卒業式パフォーマンスに向けて、今、朔也はスランプに陥っていた。


 形を整えようとすると筆の勢いが落ちてもたつく。気持ちのままに筆を走らすとバランスが崩れる。立って書く練習になると、周りとの連携ばかりが気になって字に集中できない。


 顧問にはそういった心の迷いを指摘され、ますます体が強張って字が縮こまる。初心に立ち返ろうと自主練では臨書に取り組んだが、手本とは似ても似つかない字になった。得意分野である字を真似ることすらできないのだ。


 一週間前の新一年生の推薦入試が終わった日、書道部は放送部の協力のもと、パフォーマンス甲子園の予選演技の撮影に臨んだ。人数の減った一、二年生だけで行う演技で、朔也は今井と共に選手として参加する予定だった。だが、急遽顧問は朔也を補員、別の一年を選手に変更した。振りつけ等もしっかり叩き込んでいたのだが、字が書けなければ足手まといでしかない。


 そうやってあからさまな形で選手を外され、畳敷きの部屋の隅で一人筆を振るう朔也に、部員たちもなにも言わなかった。だが、朔也にはそれが一番怖かった。部長に、先輩に、同学年の女子たちにどう思われているのか分からない。


 墨のにおいを感じ取れなくなり、畳のささくれに心が落ち着かなくなる。文鎮についた墨の汚れも筆先の小さな割れ目も、お前はここにいるべきじゃないと抗議しているようで、朔也は道具入れにつけていた「心願成就」のお守りを外した。


 その点、放送室は居心地がよかった。


 学校のどこよりも静かで人目を気にしなくてもいい。今井との話を聞いてしまったことには触れておらず、相変わらず関係はクラスメイト止まりではあるが、距離は縮まっている。無条件で自分を受け入れてくれる山宮は、書道に行き詰まっている今なくてはならない存在だった。




「……で、こことここをかける。オーケー?」


 練習問題を一緒に解きながら説明すると、分かった、と山宮が頷いた。朔也もすぐに計算を始め、応用問題に移った。そこへ暫く黙って手を動かしていた山宮が朔也に話しかけてきた。


「てかよ、そもそも、なんでマイナスとマイナスをかけるとプラス?」

「それ、中一の範囲だよ」

「そういうもんって覚えただけで、実際のところは理解してねえんだわ」


 そこでパキッと音がして、山宮のシャーペンの芯が折れた。ペンケースから消しゴムを取り出してノートをごしごしとこする。そのペンケースの中に定規を見つけた朔也はそれを手にした。都合のいいことに目盛りの中央にゼロがある定規だ。


「山宮、これ見て」


 山宮がノートから顔をあげると、朔也はその定規を掲げた。自分のシャーペンの先で目盛りを指す。


「この定規、真ん中にゼロがあるだろ。このゼロ地点に自分がいるとする。分かりやすく地図と同じように右のプラス方向を『東』、左のマイナス方向を『西』とする」

「? ああ」

「例えば『山宮君は一分間に西方向へ二センチ歩きます。五分前はどこにいたでしょう』という問題があったとする。西に動く山宮君の速さは、定規で考えると分速 -2センチメートル。で、五分前ってことは -5分。-2×-5=+10。今ゼロ地点にいる山宮君は、五分前には東のプラス十センチの地点にいたってわけ。マイナスとマイナスをかければプラスになるだろ」


 すすすっと十の目盛りまでシャーペンを動かして「な?」と言うと、彼は「うわ」と眉尻を下げた。


「悪りい、すげえ分かりやすかったけど、理解できなかったわ」

「どういうこと?」

「折原の解説には納得できたけど、俺には説明できねえ。手品を見せられた気分だわ。お前だけ人生二回目なんじゃね」

「疑問があるならどんどん調べればいいのに」

「世界の疑問の数と俺のフル稼働領域が合ってねえ。多分、俺の脳ミソの一部、小せえ頃に家出したきり戻ってきてねえんだわ」


 山宮はときに自虐的なことを口にする。そういうときの彼の顔は決まってどこか諦めや苛立ちを含んでおり、今もきれいな顔に似合わず眉をきゅっと寄せている。


 もったいないな、そう思った朔也の人差し指がぐぐっとその眉間を押した。


「ここに力を入れない! 納得できるんだから、家出なんてしてないだろ」


 うぜえ、触んな。そう言って自分の手を振り払うはず。そんな朔也の予想とは逆に、山宮がそのままかーっと顔を赤らめた。その反応に、はっと我に返る。


 うわ、おれ、なに顔触っちゃってんの!


 指をぱっと引っ込めると、山宮が朔也が触れたところを前髪で隠すように手をやった。真っ赤に顔を染めた山宮が眉間をぽりぽりと掻いて、部屋の空気がおかしくなる。


 そのとき、朔也の鞄の中でスマホがブブッと振動した。二人同時にびくりとし、朔也はスマホに、山宮は教科書とノートに飛びつく。


「……音、なに」

「書道部一年のグループ連絡だった。サボってるのどこかで見られてるのかな。はは……」


 おれの下手くそ! もっと普通に笑え‼


 無理矢理口角を引っ張り上げて必死に笑顔を作る。一方の山宮は問題を睨むように教科書を見ており、頬を赤くさせたまま小さな声で返事をした。


「……ま、ほっとけばいいんじゃね。自主練だし」


 だから、部活、行かなくてもよくね。より小さくなった声がぼそぼそと続けたので、今度は朔也の顔が赤くなりそうになった。ここにいてくれと言われたようで、内心あわあわとする。

「そ、そう、自主練だもんね。山宮といたっていいよな!」


 あ、おれのバカ! 山宮と、じゃなくて、放送室に、だろ‼


 とうとう山宮が腕で隠すように頭を抱えたので、朔也も目を逸らしてスマホをいじるふりをした。


 なんだ、この空気。すごく恥ずかしい。すごく恥ずかしいのに……何故かここを離れたくない。


 矛盾した気持ちに口がへにゃりと笑ってしまいそうで、カーディガンの袖で口を覆って空咳をした。紺色のセーターの腕に隠れた山宮が再び尋ねてくる。


「お前、呼び出しくらってんの?」

「ううん、女子たちがやり取りしてる。卒業式パフォーマンスの衣装についてみたい」


 画面の中でぽこん、ぽこんとメッセージが飛び交う。数人がすぐに反応することから、部室で自主練しているメンバーが複数いることが分かる。


 そこで、ふうと小さく息を吐いた山宮が腕を下ろした。だが、まだ彼の耳は赤い気もするし、自分の心臓もどきどきと音を立てている。それを振り切るように口を開く。


「おれさ」

「さっき」


 思い切り声が被って、再び室内の空気が動揺する。口元を隠し目を逸らした山宮が「ドーゾ」と機械的な声を出した。


「ううん、大丈夫! 山宮から言って」

「たいした話じゃねえわ。お前から言えよ」


 朔也はふにゃふにゃになりそうな口元を引き締めた。


 なんか、今日は変だ。山宮の様子も、この空気も、おれ自身も。いつもはきちっと納まっている機械たちも妙にそわそわしているように感じる。


「おれのサイズに合った衣装がないから、新しく買うはずって言おうとしただけ。山宮は?」

「卒業式パフォーマンスって、卒業生に贈る言葉を全員で書くんだろ。その原稿、さっき顧問からもらったって話」


 卒業式パフォーマンスの話題になったので、朔也は冷静になった。


「贈る言葉の原稿?」

「書道部がパフォーマンスしてる間に俺が代読するから。去年の映像見てねえ?」


 山宮の言葉に朔也はそれを思い出した。


 卒業式パフォーマンスでは、校庭に一人幅一メートル、縦二十メートルほどの細く長い紙を隙間なく敷き詰める。そして全員で横並びになり、卒業生に背を向けて後ろに下がりながら文を書いていく。全てを書き終えると全体が一つの文章になり、卒業生への贈る言葉が完成するという仕組みだ。


 パフォーマンス中は音楽と文章を代読する声が流れるのだが、その読み上げを担当しているのも放送部だということだろう。


「そうか、今回は音楽を流すだけじゃないんだ」

「そういうこと。お前ら部員の名前も紹介するぜ」


 部活の話になり、山宮が自然な笑顔を浮かべた。


「すげえ緊張するわ。書道部最後の一人が最後の一字を書き終えたときに代読を終えるのが理想。でも、書くスピードなんて日によって変わるだろうし、難しそうじゃね?」


 言葉とは裏腹に、山宮の声が楽しそうに弾んでいる。


「折原は原稿のどこ担当?」


 山宮が鞄から原稿用紙を取り出したので、朔也は一緒になってそれを覗き込んだ。贈る言葉全体を書道部一、二年生で書く場所を分けることになっている。


「まだ正式には決まってない。おれ、漢字が得意だから、漢字が多い部分になると思うんだけど」


 そこで朔也は自分の今の状態を思い出した。


 パフォーマンス甲子園では、一枚の紙にいろいろな場所から文字や絵を書き足していくので、全員が同じ文字数を書くわけではない。


 ところが、卒業式パフォーマンスでは全員がほぼ同じ長さの文を書くことになる。横並びでスタートするため、書いていく速さも合わせなければならないし、一つの文章に見えるように字の書体や大きさも揃えなければならない。読みやすいようにごく普通の楷書で書くのだが、今の自分の字を考えると暗澹たる思いがした。


 と、そこでまた朔也のスマホが振動した。見れば今井から個別に「メッセージ見て!」と連絡が来ている。


「……呼び出しだ。卒業式のパフォーマンスで着る衣装合わせ、今校舎にいるメンバーだけでも先にやらないか、だって」


 今学校にいるの誰? 部室に三人。 ごめん、私もう電車内! 朔は? 朔の分の衣装、サイズを測らないと! 朔ちゃーん、いたら書道室に来て!


 画面を見た朔也の口からため息とともに声が漏れた。


「おれの名前、すっごく連呼されてる。ああめんどくさい……」


 その台詞に山宮が原稿を捲っていた手を止めた。


「……お前、どうした? なんかあったのか?」


 訝しげにこちらを見る目は打って変わって真剣だった。


「いつもの折原なら、そんなこと言わなくね。俺が知らねえ書道やら衣装関係の単語を羅列して喋りまくるとこだわ」


 思わず言葉に詰まった。鞄にしまいっぱなしの朱色のお守りが思い出される。


「あー……どうしたのかな、今日は書道の気分じゃないんだよね。予選の撮影が終わって気が抜けてるのかな」

「? 予選の撮影って先週の話じゃね。なんで今?」


 至極当然の指摘に朔也は口ごもった。


 音響担当の山宮は、第二体育館でのその撮影を小窓から見ていたはずだ。本当なら、そこで朔也はパフォーマンスを披露できるはずだった。そんな機会を失っただなんて恥ずかしくてとても言えない。


 先ほどまで居心地のよかった空気が、何故か気まずい雰囲気に変わる。こちらが口を開かないことに山宮は困惑したようだったが、目線が朔也の持つスマホに落ちた。


「ま、連呼されてんなら返事すれば。気分じゃねえなら、もう帰るとか言えばよくね」

「いや、どうせまた明日同じことになるだろうし、行ってくるよ」


 メッセージに「今行く」と返すと、朔也は鞄を持って立ち上がった。扉の取っ手に手をかけながら「じゃあ」と山宮のほうを振り返る。瞬間「明日にすればいいのに」と引き留めるかもしれないと思う。だが、シャーペンを動かす彼は顔もあげずに「行ってら」と言うだけだった。


 放送室を出ると冬の空気が襟元から入り込んで、体がぶるりと震えた。そこを去りがたくて、意味もなく腕を回して肩をほぐす。目の前の校庭で陸上部が練習する様子を眺め、浅春のそこで披露する卒業式パフォーマンスのことを想像した。だが、自分が筆を持つところをイメージできない。


 今すぐ「やっぱり行くのはやめるよ」と放送室に戻りたい。そして山宮と一緒に時間を過ごしたい。


 こういう気持ち、なんて言うんだろ。


 放課後の空は灰色の雲がどんよりとしている。重い足取りで書道室へ行くと、カタログらしきものを見て話し合っている一年生がいた。こちらに気づいた一人が「朔!」と声をあげ、皆が笑顔で朔也を出迎える。


「朔が来てよかった!」

「うん、明日には注文できるね」


 笑顔の部員たちの側に、墨池や硯、筆や練習で使い終わった紙が重なっているのを見て、朔也の心に罪悪感が生まれた。――皆一生懸命練習しているのに、おれは逃げている。


「ごめん、自主練来なくて。片づけたい課題があって勉強してた」


 朔也の言い訳にも皆笑顔のままだった。


「平気だよ! 自主練なんだし」

「朔は真面目すぎ。息抜きくらいしたほうがいいって」

「朔ちゃん、腕を測るから手伸ばして」


 メジャーを当てる今井や代わる代わるかかる声に、自分の今の気持ちを皆が承知しているのだと分かった。いつか朔也がトイレで泣いていたときも、こうやってなにも言わずに見守ってくれていたのだろう。その気遣いがありがたくもあり、後ろめたくもある。


「男子用の袴ってXLまでだっけ」

「朔には足りないんじゃない?」

「でも、少し短いくらいのほうが汚れなくていいかもな」


 書道部の仲間と笑顔で話しながら、頭の片隅で今山宮はなにをしているだろう、と思った。

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