第6話 お守り

【三】


 パンパン。


 手を打ち鳴らす音が快晴に吸い込まれた。筆の奉納箱の前で両手を合わせて目を瞑る。心の中で「ありがとう」と礼を言うと、朔也は目を開けた。清々しい空気に気持ちがすっきりとする。正月の空にたなびく雲は真っ白で、見上げる朔也の口からも白い息が出た。


 始業式を翌日に控えた一月七日の初詣は多くの人で混雑していた。老若男女入り乱れ、拝殿に向かう幅十メートルほどの道がごった返している。破魔矢や熊手を持つ人、華やかな着物の後ろ姿も見えて、三が日を過ぎたとは言え、突き抜けるような青空の下には新年の空気が残っていた。


「御朱印の二人はどこまで行ったかな。折原君、見える?」


 背伸びした部長の言葉に朔也はそちらに目線を向けた。だが、社務所の前は満員電車並みに人が集まっており、背の高い朔也でもオレンジのマフラーの今井たちを見つけられない。


 筆供養の初詣に集まった書道部員は朔也を含めて五人だった。筆を納める三人と御朱印をもらう二人に分かれたのだが、なにせ人混みがすごすぎる。


「人が多すぎて見えないですね」

「それじゃあ集合場所のお守りのところに行こうか。先輩もそれでいいですか」


 部長の言葉を聞いた三年生の先輩が頷く。


「いいんじゃないか。俺も合格祈願のお守りを見たいし」


 あれ、先輩は推薦で付属大学に決まってたんじゃなかったっけ。その疑問が朔也の顔に出たらしい。こちらを見て彼はからっと笑った。


「弟が中三なんだ。もうすぐ入試だからさ」


 それを聞いて朔也も朝早く予備校に出かけた姉のことを思い出した。姉のゆうは高校三年生で、国立を第一志望校にしている。朔也たちがお守りの並ぶところへ行くと、運よく御朱印をもらいに行った今井たち二人と合流できた。


「すっごく混んでましたよ! あ、朔ちゃん、これ」


 笑顔の今井から朱印帳を「ありがと」と受け取る。紺色の表を捲ると、「お」と先輩が手元を覗き込んできた。


「袴の絵の印をもらえるのか。初めて来たから知らなかった」

「はい、おれ、ここに来るのが楽しみだったんです。袴なんて書道パフォーマンスに縁起がよさそうで」


 今年こそ本戦で選手になりたい。そのためにも、卒業式のパフォーマンスを成功させなければ。


 朱印帳を持つ手に自然と力がこもる。朔也は押されたばかりの印をじっと見つめた。



 クリスマス後の冬休みは毎日書道室に通い、学校閉鎖期間に入ってからも朔也は家で筆を握り続けていた。墨をする感覚が好きで普段は硯を使うが、今回ばかりはと墨池に墨汁を入れて字を書くことに時間を割いた。インターネット上にあるパフォーマンスの動画を見、パフォーマンス用の字の模索もした。


 だが、どうしても自分の字から抜け出す感覚は掴めなかった。


 顧問の「上手い字だけでなく味のある字を」という言葉が蘇る。だが、朔也の目にはパフォーマンス甲子園の字は「上手い字」に見えるし、書家が行うデモンストレーションは芸術的すぎて「高校生の味のある字」ではない。何度書いても納得がいかず、部屋の隅に反古紙が積み上がっていく。


 閉鎖期間前に山宮と連絡先を交換していた朔也は、気晴らしに楷書、篆書、隷書、草書、行書で「山宮基一」と書いたものを写真に撮って送った。「読める、読めない、読める、ギリ読めない、読める」という返事にけらけら笑っていると、怪訝そうな顔をした姉が部屋を覗きに来た。


 その夜、数学の問題集の写真とともに「急募解説」というメッセージが届いたので、丁寧に文字を打ち込んだ。だが、途中で「ギブ」と返信を遮られて、思い切って電話した。解き終わった問題集を見返し、説明する。案の定と言おうか、山宮の疑問に逐一答えていたら、朔也が風呂に入る直前まで電話は続いた。


『マジですげえわ!』


 放送室で聞いたのと同じような嬉しそうな声が耳元で弾む。


『もう数学が五ページ終わったとか、信じらんね』

「う、うん、まだ半分だけど……。他の教科は大丈夫?」

『下校放送までの時間で、漢字とスペルを書くやつはやっつけたわ』

「繰り返し書くだけだからね……。あと分からないのは?」

『古文の活用表って鬼畜じゃね。なんだこのマス目。活用の種類って、四種類くらい?』

「血液型じゃないんだから。山宮……宿題が終わるまでの道は遠いね……」

『マジかよ、まさか干支レベル? できる予感が一ミリもしねえわ。明日も教えろよ。どうせ折原は終わって暇してんだろ』


 細かく言えば干支じゃ足りないし、書道があって暇じゃないんだけど。


 言いかけたその言葉は呑み込んだ。山宮との会話は気分転換になる。日中筆を握り続けても、集中できなければ意味がない。


「じゃあ、明日は何時に電話する?」

『午前中に古文漢文解いてみっから、午後二時は?』

「オーケー」


 翌日午後は国語を解説すると、夕食後からは通話アプリでスピーカーの状態にし、朔也は書道を、山宮は宿題をやるスタイルに切り替えた。カサコソという紙の音とシャーペンの走る音が遠鳴りに聞こえ、『折原、質問』と朔也を呼ぶ声も心地いい。互いに作業通話に慣れると、時折たわいもないお喋りをするようになった。


 山宮は、朔也が書道について熱弁してもおかしいだとか変だとは言わなかった。『蘭亭序』のよさを語れば『そのすげえランテイノジョって何歳くらいの人?』などととんちんかんなことを言ったり、味のある字が書けないと愚痴れば『折原の字って一周回って無味無臭だもんな』などとバッサリ言ったりする。飾らない言葉は朔也の耳に新鮮に聞こえた。


 そして山宮の弱点も発見した。下校放送のことを忘れられない朔也が「なにか喋って」と言うと、途端にしどろもどろになるのだ。放送室での様子から察するに照れているらしかった。


 解説をした見返りだと強めに要求すると、渋々というように国語の教科書にある文章を読んだ。


 山宮の音読は思わず筆を握る手が止まるほど上手かった。作品ごとに読み方や声が変わり、淀みなく文章を読み上げる。授業で当てられた生徒が読むのとはまるで違う。


 だが、山宮に言わせれば「こんなの初心者レベル」らしい。全国大会に憧れても地区の代表になれるようなものではないという。放送部にも強豪校というものがあり、設備が段違いにいいのだそうだ。


 山宮とおれは全然違う。


 朔也は音読を聞きながら思った。型にはまった、手本の字を真似るのが得意な自分と、声を効果的に使って豊かに文章を表現する山宮と。


 いつか、山宮に「人の目を気にして疲れないのか」と言われたことが思い出される。朔也からすれば、自分の意見を押し通すより周りに合わせるほうがストレスは少ない。手本に合わせた字を書くことが楽なのもそれと同じだ。


――おれは臆病者だけど山宮は違う。自分で勝負できる山宮は本当にかっこいいよ。


 新学期が迫っても、パフォーマンス用の字を掴むことはできなかった。それでも気持ちが落ち込まなかったのは、山宮と話す時間のおかげだということははっきりしていた。



「折原は真面目だな。で、合格祈願のお守りってどこだ?」


 先輩の言葉に物思いから引き戻される。神社の喧噪の中、朔也も人だかりの間からそれらを見た。


 受験シーズンだからだろうか、お守りは社務所の中でも一番混雑していた。だが、高身長の朔也は後方からでもお守りが見える。色とりどりに刺繍の施されたお守りたちは寒そうにぎゅぎゅっと詰め合うように並んでいた。「サクラサク」のイメージだろうか、ピンクの「合格祈願」を見つけて姉用にと手を伸ばす。


 こういうとき、背が高いと便利なんだよな。


 朔也が内心思ったことが伝わったのか、お守りが見えないらしい仲間から注文が入る。


「折原、俺にも青いの一つ」

「朔、私にも緑か黄色で」


 ちょっと笑いながらそれぞれを渡すと、次は自分用にと朱色の「心願成就」を一つとった。その隣に「学業成就」があり、ふと山宮のことが思い出される。今日も帰ってから宿題の解説をする約束だ。


 これ、山宮にどうだろう。休み明けに全校模試があるし、これを渡せば少しは点数あがったりして。


 一瞬そう思ったが、嫌味っぽいなと自分で打ち消した。だが、思いついてしまったのに買わないで帰るのもなんだか躊躇われる。


 せっかく来たのだから、なにか気持ち程度のものを。ぐずぐずと悩んでいる朔也の背中へ遠くから声が飛んできた。


「折原くーん?」


 部長の声に朔也は慌ててそちらを振り返った。混雑から離れたところで今井や先輩たちが神社の紙袋を手にしている。


「すみません! すぐ行きます!」


 山宮と言えば、マスク。


 とっさに紺色の「健康祈願」を手にしていて、朔也は全部で三つのお守りを買った。


「あっちで甘酒を配ってるみたいですよ」

「行ってみよう」


 先輩たちの後ろを歩き出すと、キャメル色のコートのポケットでスマホが振動した。山宮からメッセージが来ている。


『英語が意味フ。プリーズヘルプ俺』


 最後、なんで日本語にしたの。


 噴き出しそうになるのを堪え、毛筆体の「御意」のスタンプを送る。すぐさま『パねえ正月書き初め感』『何時代よ?』『秒速で令和の世に帰還しろ』と連続で返信が来た。下校放送のきれいな口調や音読とのギャップにまた笑い出しそうになる。


 朔也はスマホをしまうと、足取り軽く皆の後ろをついて行った。


 その日の夜「また明日」と電話を切ると、いそいそとお守りの入った袋を鞄にしまい、早めに布団に潜り込んだ。




「明日は全校模試、授業は明後日からよ。掃除は六班と一班お願いね」


 それじゃあ新年一日目はここまで。


 にっこりと微笑んだ担任の言葉とともに日直の号令がかかる。さようならの合図で頭を下げた朔也はそのまま椅子に座って項垂れた。前の席の今井のふふっと笑う声が降ってくる。朔也は返却された国語の答案用紙をぎゅうっと握りしめた。


「今井に負けた……悔しい……」


 こちらの呻く声に更に今井が楽しそうな声を出した。


「朔ちゃん、気持ちは分かるけど、机と椅子をどかさないと六班が掃除できないよ」


 渋々立ち上がり、教室を出る。狭い国語科準備室で掃除を始めると、自然と朔也の口から大きなため息が漏れた。雑巾の水を汲みに行ったクラスメイトが部屋を出て行き、今井が鼻歌を歌い出しそうな様子でT字型の箒を手にとる。


「あたし、十月考査で国語を甘く見ちゃいけないって学んだんだから」

「性善説と性悪説の記述問題、配点が五点って大きすぎない?」

「どちらの説に賛成するか、自分なりの理由を書けばマルのサービス問題でしょ。どちらの説にも賛成できるって書いたのが駄目なの。朔ちゃんって自分の考えをはっきり表すの苦手だよね」


 冷静に自分の弱点を突かれ、朔也は項垂れて箒を動かした。


 始業式の朝、年末インフルエンザで休んでいた担任が笑顔で現れて、クラスはにわかに活気づいた。だが、国語で初めて九十点を下回った朔也はがっくりと肩を落とすことになった。更に「今回はできた」と答案を見せてきた今井と十点近く差が開いていたため、ダブルパンチをお見舞いされた状態なのだ。


「おれが山宮だったら罰ゲームか。こんなふうに競争してるんだ?」


 これが毎回じゃ悔しいよな。


 山宮が納得のいくまで質問を重ねていたことや「学年末は俺が勝つ」と宣戦布告していたことを思い出した。


「山宮、宿題にもちゃんと取り組んでるのにな。もっと点数があがってもよさそうなのに」


 独り言のように呟くと、今井が驚いたように目を見開いて手を止めた。


「どうしてそんなに山宮君のことを知ってるの?」

「冬休みの宿題を教えてくれって言われたから、電話で説明したんだ。中学の範囲から躓いてる感じはあったけど……。今井、どうしたら山宮の点数伸びると思う?」


 教師それぞれの机は職員室にあり、普段この準備室は使われていない。冬休み中一度も掃除が入っていないのか、ふわふわとした灰色の綿埃が箒にまとわりついた。


 パフォーマンス甲子園ではT字型のデッキブラシを使うこともある。朔也はその動画を思い出しながら字を書くように箒を動かしていたが、今井の手が動いていないことに気づいた。不思議に思って顔をあげると、彼女がなんとも言えない顔でこちらを見ている。


「どうかした?」

「朔ちゃん、山宮君と電話するほど仲良かったんだ? 知らなかった」

「ああ、終業式の日に喋る機会があってさ。山宮って思ってたよりも話しやすいやつだった。おれ、ずっと誤解してたのかも」


 ただ罰ゲームをする側とされる側だったクラスメイト。もし、クリスマスのあの日に話しかけなければ、ただそれだけの関係で終わって進級していたかもしれない。


 こんなふうに友だちができることもあるんだ。そう思うとなんだかおかしくて、朔也は笑って続けた。


「今井は山宮が放送部だって知ってたんだよな? 今度パフォーマンス甲子園予選の映像撮るとき、放送室から山宮が音楽を流してくれるらしいよ。おれ、そういうの全然知らなくて」


 そこへ雑巾とバケツを持ったクラスメイトが中へ入ってきた。


「これで机を拭いたらおしまいだよ」

「お、サンキュー。おれ、ちりとりを持ってくる」


 掃除を済ませて教室に戻り、六班の掃除を見ていた担任に終わった旨を報告する。


 図書館で勉強するという今井と別れ、自主練に行こうと自分のロッカーを開けた。取り出した黒い書道道具入れに、映える朱色の「心願成就」が揺れている。正月の澄んだ空が思い出されて身が引き締まる。通学鞄の底には、紺地に金色の糸で縫われた「健康祈願」の文字がぼんやりと透けた紙袋があった。


 そっと教室を見回すと、六班の山宮は机を運んでいるところだった。冬休み前と変わらず、学ランにマスク姿で黙々と掃除に取り組んでいる。今日はまだ一言も口をきいていない。


 突然、いたずら心がむくむくと芽生えた。


 そうだ、中庭に山宮を呼び出そう。いつも呼び出されてばかりだからお返しだ。今井に負けたおれが罰ゲームのドッキリを仕掛けたら、「折原も負けたのかよ」なんて笑顔が見られるんじゃないか?


 鞄の中でスマホを操作してメッセージを送る。すると机を運ぼうとしていた山宮がぴたりと足を止め、ポケットからスマホを取り出した。それと同時に朔也の画面に既読の印がつく。が、彼はこちらを見ることなくスマホをしまって再び掃除へと戻った。電話のときとは違う、教室での淡々とした様子は冬休み前と変わらない。


 朔也はうきうきとした気持ちで先に教室を出た。


 暇つぶしに自販機を眺めていたところへ山宮がやって来たのは、ほんの数分後のことだった。


「なんか用?」


 入れ違いに飲み物を買っていった生徒はいたが、中庭にはちょうど誰もいない。


 ベンチに書道道具入れと鞄を置き、お守りの紙袋だけポケットにそっと忍ばせる。カーディガン一枚では寒いはずなのに、ポケットに渡すお守りがあるだけでなんだか体の芯が熱い。


「もう昼近いけどおはよ。お互い初日から掃除当番なんてついてないね」


 だよな、と山宮がマスクを外して頷く。人気のない辺りを見回し、顔をしかめた。


「中庭、寒くね。この時間でも日差しはねえのか」


 マスクを持った手で寒そうに学ランの腕をさすって周りを見回す。山宮の言う通り、相変わらず冬の中庭は寒かった。だが、試験後のあの日と違って今日は晴天だ。はっとするほど澄み切った空へ木々が優雅に枝を伸ばしている。


「なに。なんか飲むの」


 朔也の目線を追うように山宮が自販機を眺めた。三段ある飲み物の一番下の段には「あたたかい」とオレンジ色の字がついている。


 冬は無難にあったかいココアかな。コーヒーが好きって言ってみたいけど、苦くておれには無理っぽい。


 前置きの雑談は山宮を見て消えた。


 やわらかそうな黒髪のつむじときれいに揃った睫毛。つんとしたくちびるは白い肌と同様に色が薄い。これまで以上に小さく見えるのは、連日のように電話をして耳元で山宮の声を聞いていたからだろうか。


 ズボンのポケットに手を突っ込むと、お守りの入った紙袋の角がつんつんと指先と朔也のいたずら心をつつく。


「飲み物は見てただけ。ちょっと山宮に用があってさ」


 すると山宮が不思議そうに「なに」とこちらを見上げた。


 改めて向かい合うと、泣きぼくろの目元がはっきりとする。前髪を少し切ったのだろうか、くっきりとした二重に睫毛が上に向いているのが分かる。マスクを外すと黒目がちな瞳が際立って、急にオーラが出て存在感が増す。


 やっぱり、山宮ってかっこいいな。マスクを外せばきっと皆だって話しかけやすいのに。ストレートの黒髪とかホントにいい。学ランが似合ってすっごく羨ましい。


「? 折原?」


 呼ばれてはっとする。つい見とれていた朔也は、指先が触れる袋に背中を押されて口を開いた。


「ああ、ごめん。実は半分愚痴なんだけどさ。その、おれ、国語の点数いつもより落ちちゃって、結構へこんじゃって」


 喋り出すと途端に脇や背に変な汗が出てくる。


 やばい、袋触りすぎて汗が染みたかも。あれ、なんでドッキリさせようとしてるおれがドキドキしてるんだ。友だちになにかをプレゼントするのなんて初めてで、全然タイミングが分からない。これ、いつポケットから出せばいいんだ?


「いや、ホント、油断したって感じ。ええと、それで、おれ、山宮に」


 上手く言葉が続かず、罰ゲームを仕掛けようとしたことが恥ずかしくなってきた。


 なんの思いもこもっていない「好き」と口にするだけの行為。相手は散々罰ゲームをしてきた山宮だ。こちらが「好きだ」と言えばすぐに察して「委員長に負けたのか」と返すに決まっている。それなのに、「す」と言おうとして息を吸うとへにゃりと口が歪んでしまう。


 うわ、これ、すっごい照れるじゃん。


 朔也は不思議そうにこちらを見上げる彼の顔を見た。


 山宮、どうして涼しい顔で「好き」だなんて言えたんだ? 「好き」って言葉、勇気を出さないと口にできないだろ。


「そりゃ、残念だったな。で? 部活で先生に呼ばれてんだわ。早く用件を言えよ」


 校舎に戻りたそうな口ぶりに朔也の焦りが増す。


 おい、おれ、頑張れ。なんのためにお守りを買ったんだ。たいそうなものじゃないんだ、気軽に「これやるよ」と渡せばいいだろ。


「……あー、なんていうか、仕返しっていうか」


 朔也の言葉に「仕返し?」と彼が訝しげに眉を寄せた。


「そう。山宮が罰ゲームで散々おれの放課後の時間を奪ったから、それの仕返し」


 そう、そうだ。これはただの仕返し。「好き」の言葉に意味はない。ただ「す」と「き」を言うだけの罰ゲーム。それで二人で笑い合ってお守りを渡せたら終了だ。


 朔也は笑って頭を掻いてみせた。


「つまりさ、おれ、委員長に国語で負けちゃったんだよね。で、山宮と同じ罰ゲームになったってわけ。だからさ、その、『おれ、山宮が」


 ぱしっ。突然、マスクを握ったままの山宮の手が朔也の口を塞いだ。ポケットから紙袋を取り出そうとしていた手が中途半端に止まる。


「……やめろ」


 険しく眉間にしわを寄せ、怖い形相の山宮が今までになく低い声を出した。


「そういうのは、聞きたくねえ……」


 山宮のてのひらが痛いくらいぐぐっと力を込めて朔也の口を押さえつけてくる。口を塞ぐように当たるマスクのせいで息苦しい。学ランの袖を引っ張ると、はっとした表情に変わった山宮の手からふっと力が消えた。反動で吸い込んだ冷たい空気が肺の奥まで入り込む。


「びっくりした! いきなりどうしたの?」

「……そういうのは、聞きたくない」


 黒髪の頭が垂れて力なく同じ言葉を繰り返す。すぐに察してにやっとする山宮を想像していた朔也は、予想外の反応に戸惑った。


「え? どうしたの? 山宮、散々同じ罰ゲームしてきたのに」

「……それは、否定できねえけど」

「おれを利用しておいて、自分はされたくないってこと? それってちょっとずるくない?」

「……そう、だな。悪りい」


 謝罪の声が暗い。朔也は気まずくなった空気の中、山宮の頭を見つめた。が、暫し待っても彼は顔をあげない。朔也はその居心地の悪さを振り切るように膝を曲げて彼の顔を覗き込んだ。


「山宮ってばバカだな! 好きって言われると思った? 違うって。本当は」


 バシッ。先ほどよりも大きな音がして視界が揺れた。凍てついた空気が朔也の頬を撫で、そこがじんじんと痛み出す。


 山宮に、叩かれた。


 一拍遅れて理解した朔也の目が見開いた。頬をはたいた山宮の右手が宙に浮いている。


「てめえ、ふざけんなよ!」


 語気の荒い口調がこちらの心をも引っぱたいた。ひりひりとする頬に手を当てながら、山宮の突然の変わり様に唖然とする。ぎりっと噛みしめた歯の隙間から荒い呼吸が漏れ、怒りに顔を赤くさせた山宮がこちらを睨み上げていた。


「聞きたくねえっつったろ! 人の話を聞かねえやつだな!」


 そして一転、怒気を孕んだ目が見る見るうちに赤くなっていく。ぐっと握った手の甲に浮いた筋が見えた。薄いくちびるの間から漏れる白い息が二人の間を抜ける風に揺れて消える。なにかを言おうとして開いた口が躊躇うようにゆっくりと閉じ、伏せられた目は前髪に隠れた。


「……俺、部活、行かなきゃなんねえから」

「え? 山宮、ちょっと待って」

「もう、行くわ」


 小さな捨て台詞とともに学ランの背が踵を返した。濃紺の後ろ姿がこちらの視線を振り切るように遠ざかる。早足で校舎へと消えた背中に朔也はぽかんとした。


――そういうのは聞きたくねえ。


 なに言ってんの。山宮、何度もおれに同じことを言ってきたのに。なんで、そんな、怒るんだよ……。


 渡せなかったお守りの袋が朔也の手の中でくしゃりと曲がった。

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