第7話 急展開

 そのあと、書道室に足を運んだが全く集中できなかった。


 畳の上に正座しても毛氈の前で宙を見つめ、墨をする腕が止まり、筆を選ぼうとする手が筆巻きの上で彷徨う。手本を見ても上の空で、筆先からぼとりと落ちた墨が紙を汚す。じわじわと紙に黒い染みが広がっていくのと同様に、朔也の心にももやもやとしたものが広がった。叩かれた頬が妙にひりつく。


 全ッ然、意味分かんない。なんであんなに怒るわけ? おれに何度も同じことしてきたくせに、今更なんだよ。これまで付き合ってたおれがバカみたいじゃん。いきなり人の顔を引っぱたくなんてどういうつもりだよ?


 次第に腹立たしくなってきて、朔也は筆に墨をつけた。「馬鹿」と書いてやろうとして、はたと手が止まる。


……でも、最後は目を真っ赤にさせて今にも泣き出しそうに見えた。そんなに嫌がるようなことだったのか? おれは、ただ、友だちにお守りを渡したかっただけなのに。


 冬休み中、山宮と電話をしながら書道をしたときのことを思い出す。


 電話がつながっていれば、自分の部屋は山宮の声で色を変えた。いつか下校放送で聞いた夕焼けを思わせる声もあれば、白い吐息を和らげるような暖かさを感じる声もあった。初詣の神社で見た爽やかな空のような声に励まされて何度も筆を走らせ、眠気を含むような穏やかな声にその日一番の文字を書くことができた。


 勉強や書道の話ができたり、素を出して誰かと話したりすることができるなんて考えたこともなかった。そんな関係を、自分で壊してしまった。


 結局一文字も書くことなく書道室をあとにし、朔也は道具を戻しに教室へ向かった。悶々とした気持ちを抱えたまま廊下を行く。中庭が見下ろせるところへさしかかると、自然に足が止まった。夕日が校舎の窓に反射して、暖かなオレンジ色に染まっている。先ほど山宮と喋っていた自販機の前に数人の男子生徒がいて、ストローを差したパック片手に笑い合っているのが見えた。


――おれは、ただ、あんなふうに笑う山宮を見たかっただけなのに。


 再びため息が漏れて、朔也は廊下をとぼとぼと歩き出した。


 自分の周りから人が去っていくと、心の中に濁った水が溜まっていった。一人、また一人と去っていくと、汚れた水が溢れ出して体中に広がり、体のどこかが動くたびに息苦しくなった。


 足が重くなり、扉から自分の机までが遠くなり、教室までの廊下がぐんと伸びて、階段をのぼるのに息が切れる。保健室に人が来るたびにびくびくして、昇降口で上履きに履き替えることもままならなくなって――。


 こういう気分を二度と味わいたくなかったから、人と距離をとるようにしていたのに。


 ふとどこからか知っている声が聞こえた気がして、朔也は顔をあげた。体育館やどこかの教室で行われている部活中の声とは違う。二つ先にある自教室の後ろの扉が少しだけ開いていて、明かりが漏れているのに気づいた。


 誰か残っているのだろうか。朔也は足音を殺して近づくと、扉の隙間から中を見た。すると見覚えのある鮮やかなオレンジのマフラーが目に飛び込んでくる。


「そっか。そのとき連絡先を交換できたんだ」


 今井の声が小さく笑っている。すると「まあな」と答える山宮の声がした。そっと教室内を覗くと、自席に座った学ランマスクと、前の席の背に凭れて立つポニーテールのセーラー服が見える。


「ようやく前進だね。もう年明けだよ? 山宮君ってば、じれったいなあ」

「じれったいって……お前らしい表現だけど」

「だって、朔ちゃん、いい意味でも悪い意味でも山宮君のこと意識してなかったでしょ? あたし、ずっと不思議だったんだから」

「同性からの『告白』なんてそんなもんだろ」


 自分の名前が出てきて眉間に力が入る。


 今井と山宮の口調はいやに親しげだった。教室での山宮の過ごし方を思うと少し不思議な気がしたが、そこは誰とでも気さくに話せる委員長の今井だ。点数対決をしているくらいなのだから、朔也の知らないところで二人はよく会話をしているのだろう。


「山宮君に問題があるんじゃない? 朔ちゃん、罰ゲームであたしに無理矢理やらされてるって思い込んでるよ」

「ガチで罰ゲームだろ。本命に告白してこいとか、腹立つわ」


――なんだって?


 朔也は思わず耳を疑った。が、二人はそんなことに気づくはずもなく、会話が続く。


「朔ちゃん、男女両方と仲良いし、早く捕まえないとあっという間にとられちゃうかもしれないじゃない」

「あいつが誰かと笑ってるのはその場しのぎで、どうでもいい相手だから笑ってるだけだろ。それ、仲良いって言わなくね」

「バッサリ言うねえ。それじゃ意味がないんだ?」

「そりゃそうだろ。そんなんでいいなら普通に話しかけるわ」


 山宮の声が弱々しくしぼむ。


「……そんなんでいいなら、こんな罰ゲーム、やんねえわ……」


 放課後の廊下で朔也はキンと冷えた空気をそっと呑み込んだ。心臓の立てる大きな音が口から漏れてしまうのではないかと、慌てて口元を手で押さえる。側に壁に凭れると、カーディガン越しに背中からじわじわと冷たさが伝わってきた。


「山宮君、罰ゲームじゃなくてちゃんと言うのは駄目なの?」

「ドン引きされて二度と口きけなくなるわ」

「そうかな? 朔ちゃん、そういう偏見ないと思う」

「なんで分かる」

「朔ちゃん、昔から高身長で茶髪にくせっ毛だからすごく目立ってたの。性格は大人しいのに派手に見られがちで、誤解されることも多くて。周りから普通じゃないって思われるのがすごく嫌いなの。だから山宮君にも普通じゃないなんて言わないよ」

「それとこれとは別じゃね。自分が男に好かれてたら気持ち悪りいって思うだろ」

「意外。山宮君って固定観念にとらわれるタイプなんだ」

「他人と違うところを受け入れるのは簡単じゃねえだろ。自分の人生は主観でしか生きられねえわ」


 山宮君ってテストできないのに賢いねえ。うっせえ嫌味かよ。あはは冗談だって。


 明るい笑い声をばくばくいう心音がかき消す。


 どういうこと? 山宮って、おれのことが本当に好きなの?


 朔也は告白のときの彼を思い返した。だが、機械的な「好きだ」とマスクを外した真顔しか思い出せない。


――マスク?


 朔也ははっとした。


 もしかして、マスクを外してから告白するのは、山宮なりの改まった形だったのか? いや、違う。放送室でも今日の中庭でもマスクは外していた。……ん? 山宮、おれ以外の人と話すとき、マスクつけたまま話してないか? マスクを外して他の人と話してるところ、見たことがないような……。


 慌てて頭をぶんぶんと横に振る。


 山宮はマスクをするのは喉を痛めないためだと言っていた。マスクの有無にそれ以上の意味を求めるのは思い上がりだ。


 だが、今井と話す今も山宮はマスクをつけている。彼が端整な顔立ちを見せて澄んだ声を響かせるのは自分と話しているとき以外に見たことがないわけで。


――まさか本当に……?


 朔也はずるずるとそこへしゃがみ込んだ。肩に提げた鞄を抱きかかえ、書道の道具入れをそっと床に置く。心臓の音が煩くて、手が汗で滑る。はあはあと息があがって、頬が熱い。だが、自分が何故そんな状態になっているのか、理由が分からない。


 え、どうしよう。おれ、どうしたらいい?


 底冷えする校舎内は寒いはずなのに、じわじわと変な汗がにじみ出した。これまで殆ど交流のなかったクラスメイトと仲良くなって、喧嘩をしたと思ったら相手が自分を本気で好きだと知る。展開が早すぎて、気持ちが追いつかない。


 と、そこでお喋りの声が中断し、ガタと音がした。


「もうこんな時間! あたし、そろそろ帰ろうかな。山宮君は?」

「このあと下校放送するから」

「そっか、部活頑張ってね! また明日!」


 明るい今井の声に、朔也は慌てて立ち上がった。が、教室が並んだまっすぐな廊下には身を隠すところがない。隣の教室に、と扉に手をかけたが、道具入れの中で文鎮のカタと動く音が意外にも大きく響いて手を引っ込める。


 教室からコートを羽織りながら今井が出てくる。留めるコートのボタンを見ていた目線があがり、廊下でおろおろしていた朔也を認めた。その目が見開き、瞬間足を止めそうになったのが分かる。


 が、教室にいる山宮に気を遣ったのだろう、何事もなかったようにそのままの足取りでこちらへ歩いてきた。朔也の側まで来ると、歩みを止めることなくちょんちょんと先を指す。朔也は頷き、そっと今井のあとを歩き出した。



「これとこれ、今井はどっちがいい」


 先ほど山宮と眺めていた自販機で買った紙パックを左右に掲げると、ベンチに座った彼女が目をぱちぱちとさせた。


「朔ちゃん、あたしには右も左もココアに見えるんだけど」

「今井がよく飲んでるイチゴ・オレを買おうとしたんだけど、動揺して同じのを二つ買っちゃった」


 困り顔の朔也に今井があははと明るく笑った。


「なにそれ! じゃあ右のをちょうだい」

「ん」


 それを差し出すと彼女は「ありがとう」と受け取った。朔也もベンチの隣に腰掛けた。差したパックのストローがきゅっと音を立てる。ずずっとすすると温かいココアが口内に広がった。混乱していた頭にじんわりと甘さが広がり、体から力が抜ける。中庭に見えるのは相変わらず寒々しい木々と等間隔に並んだベンチだけだ。


「……朔ちゃんが廊下にいるとは思わなかった。いつから聞いてたの」


 暫くして今井がそう言った。今井の口調は静かだったが、責めるような言い方ではなかった。ばつの悪い思いがして、ココアを一口飲む。教室に戻せなかった道具入れの朱色のお守りが鮮やかに映り、そっと人差し指で触れた。


「連絡先の交換ってあたりから。盗み聞きする気はなかったんだけど、びっくりして、離れるタイミングを失っちゃって……ごめん」

「過去は変えられないし、山宮君には心の中で謝っておこう。……朔ちゃん、山宮君の気持ち、やっぱり知らなかったんだね」


 再びココアを吸って小さく頷く。なんとなしに校舎を見上げた。先ほど廊下からこのベンチを見下ろしていた。


「山宮にも言ったけど、てっきり男に告白してこいっていう罰ゲームだと思ってた」


 朔也は初めて山宮が告白してきたときのことを思い出そうとした。親しくないクラスメイトの「好きだ」という言葉に驚いたものの、すぐに笑顔を作ったことは覚えている。


――山宮、だっけ? 突然どうかした? 誰かに罰ゲームでもさせられてるの?


 確か、そのような言葉をかけた。彼がどんな表情をしたかまでは覚えていない。委員長に試験の点数で負けたからだとか、たまたま見かけたからお前にしたといった、もっともらしい言い訳をしていたという曖昧な記憶しかない。


「というか、今もあんまり受け止められてないんだけど」


 すると彼女がポニーテールを揺らして朔也の顔を覗き込んだ。


「それって、山宮君の気持ちが嫌だってこと?」

「そうじゃなくて……山宮って本当におれのことが好きなの? そこが分かんないんだよ。おれ、山宮に好かれるようなことなんて、なにもしてない。話すようになったのもここ数週間くらいなのに」


 そうだよ、と朔也は内心頷いた。


 山宮にこちらから話しかけたのは、食堂で偶然会ったときだ。確かに、それまでも罰ゲームで会話はしていたし、教室内でもなにかの用事で話したことはあったかもしれない。だが、それだけだ。少なくとも朔也の記憶に強く残るようなやり取りをした覚えはない。


「だから、現実味がなくて信じられないっていうか。今井はどうして山宮の気持ちを知ってたの?」


 朔也の言葉に今井がふふっと笑った。少し眉を寄せて困ったような笑みでこちらを見てくる。


「山宮君を見てれば分かったよ! うーん、朔ちゃんのそういうところ、山宮君っぽく言えば周りが見えてないってことなのかな?」

「ぐうの音も出ないよ……最近自分の悪いところを認識した」

「あたしは悪いと思ってないよ。朔ちゃんが空気を乱さないように皆に合わせてるの知ってるし。ただ心の奥にある気持ちまで知るのは好きじゃないってだけだよね」


 朔也はそれには答えなかった。今井も特に同意を求めていたわけではないらしく、すぐにストローに口をつける。


「朔ちゃんと山宮君ってそういうところが似てるよね。自分の気持ちを隠して誰かに伝えることが不器用。悪いことじゃないよ。でも、二人の仲は前進しないなって思ってたんだ」


 今井はそこで一息つき、にこっと笑ってこちらを見た。


「電話するくらい仲良くなってたんだもんね! 朔ちゃんは山宮君の気持ちを知ったんだし、これで変わるなら結果オーライなのかな」


 朔也のジュースを持つ手が止まった。


 前進? 変わる? ……おれはなにを変えなくちゃいけないんだ?


「……おれ、これからどうしたらいいんだろ」

「どういう意味?」

「おれ、今まで一度も山宮の告白を真剣に聞いてなかった。なんでおれを罰ゲームに巻き込むんだろうくらいに思ってた。だから、今日山宮を怒らせたんだし」


 すると今井が驚いたようにココアを飲むのをやめた。


「怒らせた? なにかあったの?」

「山宮から聞いてない?」

「ううん、なにも」

「おれが気持ちを踏みにじるようなこと言っちゃったから、山宮がものすごく怒っちゃってさ。……いや」


 朔也はそこで言葉を切った。先ほど見た山宮の激情。


「怒らせたんじゃない。おれ、傷つけたんだ」


 何度告白しても本気にされず、挙げ句の果てには相手がふざけて罰ゲームを仕掛けてきた。自分の行動は彼の目にそう映ったはずだ。朔也には山宮の気持ちは分からない。だが、叩かれた朔也の頬より叩いた山宮の心のほうが痛かっただろう。


「……なにがあったのか分からないけど」


 今井の手が冷たい風に揺れたスカートの裾を整える。


「山宮君のことを傷つけて後悔してるなら、ごめんねって謝ればいいんじゃない?」

「今井の言うことって明確でいいよな」

「あはは、そう? そこがあたしのよさってことにしておく」


 謝ればいい。そうだ、ちゃんと謝ろう。


 朔也は最後まで飲みきると、パックを潰してゴミ箱に捨てた。


「今井、ありがとう。やるべきことが分かったよ」


 するとベンチに座ったままの彼女も笑顔になった。その頬がいつの間にか寒さで赤くなっている。


「それならよかった! もうすぐ下校の放送だけど、朔ちゃんは山宮君のところに行く?」

「時間もないだろうし、明日にする。今日は帰って謝る言葉を探すよ。今井、帰ろ」

「そうだね。そろそろあたしも寒くなってきたよ」


 ポニーテールの彼女が立ち上がり、寒そうに指をこする。ココアの紙パックがまた一つゴミ箱に落ちた。

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