第10話 もう仲良しこよししなくていいから

【五】


「紙、整いました!」


 朔也の声に部長が手をあげた。


「それでは卒業式パフォーマンスの練習を始めます」

『はい!』


 かけ声を合図に全員が模造紙の上で横一列に並んだ。ジャージ姿で左手に墨池、右手にパフォーマンス用の太筆。体育館に敷き詰められた真っ白の紙を見下ろし、朔也は落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせた。


 日曜日、書道部は体育館で初のパフォーマンス練習に臨んだ。午前中はそれぞれが本番と同じ長さになるようひたすら紙をつなぎ合わせ、午後から体育館に場所を変えた。


 数分に渡って書き続けるには体力が必要とされるため、休憩を挟んでたったの四回。最初の三回は新聞紙に書いたが、ラストは贅沢に白の模造紙だ。紙によって墨のにじみ方が変わるため、本番同様の模造紙で練習できるのは貴重な時間になる。また、文化祭でも筆などを渡したりするだけの賑やかし要員だった朔也にとって、初めての作品パフォーマンスだ。


 朔也はばくばくと音を立てる心臓を抱え、深呼吸した。冬の体育館なのに、前髪をピンで留めた額に汗がじんわりと浮かんでくる。


 大丈夫、さっき練習した通りやればいい。きれいな紙に書いてみろ。気分がいいぞ。絶対やり遂げてみせる――!


 視界の隅で顧問の指がコンポのボタンを押す。張り詰めた空気の中、音楽が流れ出し、タイミングを合わせて皆が一斉に筆を振り上げた。


 最初は大胆に墨を吸わせて一画目。腰を曲げたまままっすぐ後ろに下がりながら文字を書き、屈伸をして息をつく。体育館内いっぱいに響く音楽に合わせて呼吸をし、軸足を意識して体全体を使いながら腕を動かす。


 ひらがなが得意な今井と楷書の上手い先輩の間に挟まれ、朔也は必死に筆を振るった。重心を移動させ、筆を抜き、墨池へ筆を入れ、また次の字へ。


 真っ白の紙に墨汁が走るだけで緊張に腕が震えそうになり、足がぐらぐらとしてバランスを崩しそうになる。だが、今書いた一画を振り返っている暇はない。すぐに筆を運んでいかなくては一人だけ遅れてしまうからだ。


 隣の今井が速い。動く手がちらちらと視界に入り、朔也は焦った。


 まずい、このままじゃ置いていかれる。


「あ」


 次の一画目に筆を落とした手がびくっとして止まった。


 しまった! 一字飛ばした!


 文章の一字を飛ばす。文の意味を考えて書いていればあり得ない失敗だ。しかも、ひらがなが入るところを漢字の一画目を書いてしまっている。到底誤魔化せるようなものではない。


 が、朔也はすぐに次の一画へ打ち込み、素早く筆を動かして後ろへと下がった。今井も隣の二年生も既に視界にいない。書くのが遅れているのだ。


 朔也は休みを入れるところも必死に腕を動かしてスピードをあげた。最後の一文字で隣の先輩に追いつき、筆を抜く。


「……っはあっはあっ……」


 曲げていた腰を伸ばし、ぜいぜいと息をつく。全員が書き終えたため、音楽の止まった体育館内に息のあがった部員たちの息遣いだけが広がる。が、次の瞬間にはパンパンと手の叩く音が鳴り響いた。


「全員、墨池と筆を置いて! 自分の字を確認しよう。乾いてないから字を踏まないよう気をつけて!」


 顧問の声に、わっと緊張の解けた明るい声が飛び交う。


「焦ったー! 皆速いよ」

「私、途中から字が小さくなっちゃった」


 部員たちは口々に話しながらそれぞれ自分の書いた紙の上を歩き出した。数人で互いの字を指さしたり、字の隣にしゃがみ込んで空中で手を動かしたりする。


 朔也は下の文字からゆっくり遡って紙の上を歩き出した。つるりとした床に置かれた紙の上で足が滑りそうになりながらも、一字一字ゆっくり見ていく。そして、そこで足を止めた。


「一を 」


 それを見下ろす朔也の鼻がつんとした。


 おれはどうしたんだ。ずっと得意だった書道なのに、ずっと大好きだった書道なのに、ひらがな一文字満足に書けない。与えられた文が長いとはいえ、全員が同じ条件。その中での脱字など言い訳できない。それも作品全体をぶち壊しにするミスだ。


 その後、書道部はすぐに解散した。


 書道室に戻って自主練に行く者もいたが、朔也は一人広い体育館に残って細長い紙を広げた。ひんやりとした床の冷たさを感じながら文字を眺め、先ほどと同じところで足を止めて片膝をつく。動揺したのか、そこから下の字は軸がぶれて大きさもバラバラだ。間違えたところを上からなぞると指先に墨がついた。


 その汚れをぼんやりと見ていると、突然後ろから声がかかった。


「折原、お前、どうしたんだよ?」


 聞き覚えのある声に振り仰ぐと、そこには山宮が困惑した表情で立っていた。


「山宮……? なんでここに?」


 驚く朔也に彼は持っていた紙の束を突き出した。いつか放送室で一緒に見た、贈る言葉の原稿だ。


「書道部がパフォーマンス練習をやるって聞いて、俺も読み上げ練習をしようと思って。二階のギャラリーで演技を見ながら読んでた」


 そう説明する山宮は、原稿ではなく模造紙を見ていた。


「お前……なんかおかしくね? 途中で字間違えるし、急に字が下手」

「煩い‼」


 気づけば大声で言葉を遮っていた。山宮が顔を歪めたのを見て、我に返る。


「あ、大きな声出して、ごめん。おれ、いらいらしちゃってて、その、悪い」


 だが、朔也の言い訳を聞く彼がますます顔をしかめて口をへの字にする。


「お前……変だわ。いつもならへらへら笑って済ませるのに、怒鳴るとか普通じゃねえわ。いつものイージーモードはどうしたんだよ」

「……なんだよそれ」


 聞き捨てならない言葉に思わず立ち上がる。小柄な山宮が朔也の影に沈んだ。


「普通じゃないってなに? いつものイージーモード? 冬休みにおれがどれだけ練習してたか知ってるだろ! だったら失敗して落ち込んでることくらい想像できるだろ! そんなことを言うためにわざわざ上から降りてきたのかよ⁉」


 朔也の剣幕に山宮が顔を苦しそうに歪める。


「そうやって怒るのがいつもの折原じゃねえんだって。らしくねえわ。だから、なんかあんじゃねって、そう言いたかっただけで」

「あっそ! 放送部は山宮一人だからいいよな! 書道パフォーマンスは皆で作るもんなんだよ! 周りと同じレベルの字を書かなきゃいけない、自分のミスが全体のミスになる、そんなプレッシャーなんて分かんないよな!」


 おれ、なんでこんな大声を出してるんだろう。なんで山宮をこんな表情にさせてるんだろう。なにもかもめちゃくちゃでどれも上手くいかない。


「なにも知らないくせに! おれが、どれだけ書道に打ち込んできたか! おれが、どれだけパフォーマンスのために練習してきたか! おれがどれだけパフォーマンスをやりたかったか、おれが、どれだけ……っ」


 次の瞬間には堪えていた涙がぼろっと零れた。言葉もなく落ちる涙を手で拭う。暫くそうしていると、「折原」と声がした。山宮が顔面蒼白でこちらを見ている。


「お前さ……やっぱり周りに興味ないんじゃね」


 きっと謝るような言葉を言うだろう、そう思った朔也の心に鋭い矢が突き刺さった。


「今、なに言ったか分かってんのかよ。自分だけが努力してると勘違いしてね? お前が見てないところで努力してるやつがいるって、考えたことないんじゃね」


 言葉は淡々としていたが、真っ白な顔が感情を如実に表している。


「お前……俺がたった一人で活動してるのをマジで平気だと思ってんのか? 誰とも楽しさを共有できねえ、誰にも悩みを相談できねえ、限られた人にしか評価されねえ、そんな毎日を平気だとでも?」


 山宮が、怒っている。それに気づいた朔也の涙が引っ込んだ。


「山宮、あの、ご、ごめん、おれ」

「ひっでえな……折原がそんなこと言うなんて思わなかったわ……きっつ……」


 山宮がふいと目を逸らした。ズボンのポケットから出た右手が朔也の胸をどんっと叩いた。


「これ、返すわ」


 その手から紺地に金糸のお守りがぽとりと落ちた。


「もう、俺と仲良しこよししなくていいから。浮かれてた俺がバカだったわ。だってお前」


 そこで俯いた山宮が、はっきりと通る声を出した。


「俺がお前のことを好きだなんて、全然分かってねえんだもんな」


 広い体育館が、しんと静まりかえった。これまでの罰ゲームとは違う、山宮の本気の告白。こぶしのぶつかる胸がどくんと大きな音を立てた。


「五月から何度も言ってんのに伝わってねえみてえだから、今、言うわ。俺、お前のことが好きなんだわ」


 心臓がとくとくと音を立て始める。見下ろす黒髪のつむじがはあと息をついた。


「あー……気持ち悪りいとか文句はあとから受けつけるから、とりあえず聞け。つまりな、クラスにいるかどうか分かんねえような俺だから、あんな罰ゲームも割と真剣だったわけよ。変なやつでもいい、印象に残りゃいいって半分やけっぱちだったわ。宿題教えろとか、結構勇気出して言ったんだぜ? でも、よく分かった。お前は俺だけじゃなく誰にも興味ねえんだな。俺がどんなにお前の気を引こうとしたって意味ねえんだな」


 はは、と俯いた黒髪が力なく震えた。


「最近、お前が俺のことを認識し始めたかと思ってたけど、勘違いだったみたいだわ。お前から見た俺って、ぼっちで部活やってる孤独なやつなんだな。お前が下校放送に気づいてからは、きっと書道室で聞いてんだろって孤独じゃなかったんだけどな……」


 山宮の声は悲しみの色に染まっていて、それを聞いていた朔也は激しい後悔に駆られた。お守りを渡そうとしたときと同じ、今、心が痛いのは自分ではなく山宮だ。


「気色わる……引かれるって分かってたのに、言っちまったわ。俺バッカじゃね……」


 そこで唯一触れていた山宮の手がすっと下りた。


「……というわけで、今から文句の受け付けを開始するわ。赤点スレスレ……なんとかハスキーの戯れ言に対する罵りがあったら遠慮なくドーゾ」


 俯いたまま決して顔をあげない山宮と、床に転がったお守りを見、朔也はお守りを拾った。だが彼はなんの反応も見せない。紺色のセーターの肩が強張って、襲い来る痛みに構えているように見えた。


「……山宮」


 朔也が名前を呼ぶと山宮がびくっと体を揺らした。ぎゅっと握ったこぶしに更に力が入る。


 怖がっている。おれの言葉に傷つくんじゃないかと怯えている。おれと同じだ。人の本音と向き合うのが怖いおれと同じなんだ。そんな山宮を、おれはまた傷つけた。


「……本当にごめん。言っちゃいけないこと言った。考えなしの発言だった。ちゃんと謝りたいんだけど」


 朔也は壁にある時計を見た。シンプルな白い文字盤に黒の針が三時半を指している。


「今日の下校放送は何時なの?」


 すると山宮が顔をあげ、朔也と同じように時計を確認した。顔色を失いぼんやりとした目で頷く。


「下校放送はしねえ。今日俺が学校にいるのは自主練だから。でも、行くわ。コートとか鞄とか、放送室に置きっぱなしだし」


 山宮が暗に帰ることをにおわせたので、朔也はすぐに足下の紙をたたみ始めた。


「これ、すぐに片づける。終わったら放送室に行くよ」


 すると山宮は「来なくていい」ときっぱりと言った。


「来なくていいわ。もう言うことねえし」

「おれはある」


 朔也の言葉に彼が口を開きかけたそのとき、きゅるるる……という小さな音がした。ぱっと山宮が腹を押さえたので、思わず噴き出す。


「山宮、お腹が空いてるの?」


 朔也の問いに彼は少し赤い顔でこちらを睨んだ。


「うっせえ。食堂やってねえの忘れてて、昼飯を食い損ねたんだわ」

「じゃあコンビニになにか買いに行こうよ。学校近くにある公園に行って食べよう」

「……でも俺は」

「先に帰っちゃ駄目。すぐ片づけるから」


 朔也は強引にそう言うと、紙を巻き取って立ち上がった。所在なさげにそわそわと原稿を握りしめる山宮に笑顔を向ける。


「細かい話はあと! まずはコンビニ!」


 朔也は明るい声を出し、山宮を追い立てて体育館をあとにした。



 夕方前の冬の公園は散歩する人がちらほらといるだけでガラガラだった。壁のある東屋にちらりと目線を送ると、山宮も小さく頷く。無言のままそこへ行ってベンチに腰掛けると、コンビニで買ってきた肉まんにどちらともなくかぶりついた。紺色のコートとキャメル色のコートの手の中で、ほかほかの肉まんが湯気を漂わせる。


「……うま」


 山宮が少し目を見張って湯気の立つ肉まんを見た。


「コンビニの肉まんってこんなうまかったっけ」

「食べたことないの?」


 朔也の言葉に山宮が一口かぶりついてごくりと飲み込んだ。


「折原と違ってオトモダチが少ねえから、帰り道に買い食いしたことねえんだわ」

「書道部の女子たちはまっすぐ帰るし、おれも買い食いは初めて」


 湯気が頬にかかって温かい。ふわふわの皮と肉汁がじゅわっと口内に広がって、気持ちのとげとげとしていたところが溶けていくのが分かった。


「さっきはホントにごめん。ミスしたのがショックで八つ当たりした。山宮のことを考えずにひどいこと言った」

「……俺もズケズケ言ったわ。お前が書道パフォーマンスにすげえこだわってたの知ってたのにな」

「はっきり言えるところが山宮のいいところだって分かってるよ」


 また一口とかぶりつくと、口の中で熱い肉がほろほろと崩れた。ベンチに並んで座っているから、視界に入ってくるのは肉まんの湯気と混じる息だけだ。


「最近お前がおかしいなって思ってたけど、部活が上手くいってなかったわけ」

「そう。おれってパフォーマンス向きの字が書けないんだ。パフォーマンス甲子園で選手になれなかった理由もそれ」

「折原の字でも駄目なのか? 委員長とお前のどっちが上手いかなんて、俺には分かんねえけど」

「放送部でもあるんじゃない? 下校放送と本の音読は違う、みたいなこと」


 すると山宮が「ああ、あるな」と納得したような声を出した。


「悪かったな、イージーモードとか言って。なんでもできると思ってたけど、そういう悩みもあんだな」

「山宮もなにかあるんだね」

「それなりにな」


 軽く頷いて山宮が肉まんを頬張る。


「俺の家、両親も姉貴二人も優秀で医者なんだわ。ところが末っ子だけマイナスとマイナスのかけ算が理解できねえわけよ。劣等感しかなくね」

「でも、うちの高校は受かったでしょ」

「推薦なしの一般受験で補欠合格だけどな。授業始まった日に来る学校を間違えたと思ったわ」


 山宮の口調は自虐的で、これまでそういった態度を言葉の端々に覗かせていた理由が分かった。


「気にしてたのに、赤点スレスレとか言ってごめん」

「赤点スレスレは事実じゃね。それよりなんとかハスキーのほうが気になるんだけど、あれ、なに」


「山宮ってなんとなくシベリアンハスキーっぽいなと思って」


 ミニチュアの部分は削って言ったのだが、彼のほうが「あれって大きくね?」と首を傾げた。放送室にいるときのようなやわらかい空気が戻ってくる。山宮が再び「うまいな」と呟き、朔也はゆるゆると肩のこわばりを解いた。


「折原は絶対ゴールデンレトリーバーだろ。超大型犬」

「髪はもう少し暗い茶色だと思うんだけどなあ」

「雰囲気がそうなんだわ。クラス満場一致に肉まんを賭ける」


 それを聞いて山宮のコンビニ袋に手を伸ばすと「おい」と睨まれる。「冗談」と朔也が手をあげると、彼がそのまま二個目を頬張った。


 肉まんについていた紙が湯気で手に張りつく。ウェットティッシュで手を拭おうとして、指先に墨の跡が残っていることに気づいた。そこへ山宮が切り出す。


「……で? 声を荒らげるなんて、お前、いっぱいいっぱいなんじゃね。さっきみたいに言いたいことぶちまけろよ」

「もういいよ。ひどいことも言ったし」

「謝ったんだからチャラでいいわ。誰にでも本音を隠してたら自滅するだろ。悩みを顔に出さねえでにこにこできんのがお前のいいとこかもしんねえよ。でも今は違くね。……俺でよければ、聞くぞ」


 不意に山宮の口調が変わったので、朔也は隣に座る彼を見た。「俺に言えよ」と言う耳が赤い。


「言えばいいだろ、訳分かんねえ単語並べてどこどこが上手くいかねえって。俺に話したって書道が上手くいくわけじゃねえよな。でもトイレに引きこもるよりよくね」

「ちょっと! それ今言う⁉」


 最後の台詞に朔也がむっとすると耳を赤くさせたまま彼がくくっと声を漏らした。


「難しい問題を当てられて黒板に達筆な字で答えを書いてるやつがトイレで号泣してたんだぜ。笑えるわ」

「笑うとか最低! おれ、ショック受けてたんだからな!」

「だからよ、ショック受けたなら言えばよくね。……あんとき、人に頼ればいいのにって、俺なら話を聞いてやるのにって、そう思ったわ」

「……どうして?」


 朔也が尋ねると山宮がふうと息をついてお茶を飲む。オレンジ色のキャップのペットボトルで指先を温めるように持ち、まっすぐ前を見た。


「お前ってクラスでは当たり障りのないやつだろ。だから意外な一面を見て驚いたんだわ。それでお前のことを目で追うようになったんだけど」


 もしかして、それで好きになったとか?


 朔也はごくりと唾を呑んで続きを待ったが、一方の山宮ははあっとため息をついた。


「気づいたわけよ。お前が誰にも心を許してねえんだってな。誰にでもテキトーに笑ってるだけだろ。こいつ実は性格悪りいんじゃねって思った」

「誰が性格悪いって⁉」


 むっとした朔也に山宮が小さな笑い声を立てる。


「そういうとこな。いい子ちゃんじゃねえ、悔し泣きするくらい書道に真剣な折原をいいなって思った。よく見てりゃ、終礼のあとすぐロッカーから書道道具を出すし、ほぼ毎日部活に行くだろ。発声練習に行くために書道室前を通りかかったら、一心不乱に筋トレしてたもんな。書道室の窓から書いた半紙持ったお前がなにか考え込んでるのが見えたこともあったわ。俺には書道なんて退屈でしかねえのに、そこまで努力すんのかって、すげえ真剣にやってんだなって、俺と同じで見えねえところで頑張ってんだなって……そんなん、もう、好きになるしかなくね……」


 最後のほう、小さくなった山宮の呟きに朔也は驚いた。


 たった、それだけ。それだけで、人を好きになる? 親切にされたとか、嬉しい言葉をかけてもらったとか、メリットのある行動をされたわけじゃないのに。


――でも、分かる。初めて山宮の下校放送を目の前で聞いたときに肌で感じた感動。それと同じような気持ちを山宮はおれに感じてくれていた。


 理解した途端、すとんとなにかが落ちた。空気が澄んで感じられる。土のにおいを感じられる。視界にあるものが鮮やかに色づいた。


 真剣にやれば感動を伝えられる。それはパフォーマンスも同じじゃないのか? 上手い字を書くことだけが全てじゃない。気持ちを込めて字を書けば、おれの字でも伝わるんじゃないのか?


 朔也の右手に筆を握る感覚が戻ってくる。中指と親指にどれだけ力を入れるか、どう人差し指を添えるか。墨池に入れる墨のにおいに墨汁の粘り気、半紙とは違う模造紙の手触り。そこに立って振るう右腕の構えと足の位置。――ああ、今なら自分の字が書ける気がする。


「そうか……そうだよ、山宮の言う通りだ。真剣な姿勢って伝わるんだ。今ならできる気がする!」


 朔也は思わず立ち上がった。地面の落ち葉が冬の風に連れ去られていったが、寒さはちっとも気にならない。


「今から学校戻ってもう一回書きたい! 今ならできそう! あっ、でも今日はひらがなを飛ばしたんだっけ。でもさ、ひらがなって難しいと思うんだよね。小学校の頃ってなんで『そら』とか書くんだろ。『そ』も『ら』も難しくない? おれ、かなが昔から苦手で、高野切とか拷問なんだよね。運筆の感覚がイマイチ掴めないし、連綿が、あ」


 朔也は自分が一方的に喋っていることに気づいた。


「ごめん、また自分勝手に訳分かんないこと喋っちゃった」


 おれ、あんな初歩的なミスしたくせに、ペラペラ喋って恥ずかしい。


 急いでベンチに座り直すと、山宮が鞄を膝に載せ、そこに頬杖をついてにやっとした。


「書道にゾッコン折原君、生還したか? そういう気持ちが戻ってくりゃ、なんとかなるんじゃね。ま、明日から頑張れよ」


 それじゃあな。ゴミをビニール袋に入れた山宮がベンチから立ち上がったので、朔也は慌ててその鞄を掴んだ。

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