すたぁと

飯田太朗

すたぁと

 突然だが、皆さんは道祖神というものをご存知だろうか? 

 集落の境目や路傍などに立って外来の疫病や災いから守ってくれる神様のことなのだが、これは日本各地にその存在が確認されていて、民俗学界隈では割とメジャーな概念というか、存在というか、神様である。

 中でも特に、長野県の安曇野市には大量の道祖神がいることで有名なのだが、これは僕が、そんな道祖神についてフィールドワークをしていた時の話である。


 *


「『サンエンドウソジン』というのをご存知ですか」

 とある大学の研究室にて。

 民俗学教授、伊達崎だてざき晴喜はるよし氏がそう訊ねてきた。僕は研究室に到着したばかり。荷物をまだ下ろし切っていない僕にそう訊ねてきたのだから、相当熱のある質問だった。

「サンエンドウソジン。ドウソジン……道祖神ですか」

 僕が訊くと教授は頷いた。

「ええ。道祖神自体はどこでも聞くものですが、このサンエンドウソジンというのは何でも遠野の方にある民俗信仰だそうです……」

「遠野……岩手県」

 僕がつぶやくと伊達崎教授は神妙な面持ちで頷いた。

「民俗学のメッカとも言える土地です」

「遠野の道祖神というと馬越峠のものを連想しますが」

 やはり伊達崎教授は頷く。

「ええ、馬越峠の他にも、遠野の道端にはいくつものいくつもの道祖神があることで有名です。サンエンドウソジンというのもその無数にある道祖神の中のひとつだと思われますが……」

「数が多すぎて特定できていない、とかですか」

「おっしゃる通りで」

「フィールドワークですね」

「そうですね」

 かくして僕は民俗学の聖地、遠野へと赴くことになった。最低限の荷物、そして執筆用のパソコンを持って、僕は旅に出た。


 *


 そういうわけでフィールドワークに出たがしかし、サンエンドウソジンと呼ばれるものの情報は皆無だった。地元の有力者(地域に根付いた経済活動をしている人こそ地元の情報に詳しい)や、地方大学関係者などにも訊ねたが何も得られず、僕は伊達崎教授と彼が連れてきた女子学生二名とともに宿で酒を飲んだ。その話はその時に出た。

「この地域では猿を神聖視してるようですよ」

 利発そうな、そして温かい雰囲気の女の子だった。

「この宿からも見える山……なんだっけ、空岳からたけ山かな? そこでも猿神信仰があるのだとか」

「空岳山……」

「ええ、その空岳山、それから続く二つの山……名前は何だったか失念しましたけど、その山には三柱の猿の神様がいるそうです」

「ふうん」

「空岳の猿の神様は、外国のものが好きだとか」

「外国のもの」

「ダンプレンってご存知ですか?」

「餃子だろ」

 女学生はクスッと笑った。

「はい。英語圏は餃子のような料理のことを『ダンプリング』と呼びますね。で、英語圏からその言葉と概念を輸入した日本人が、餃子という近縁の料理があるにも関わらず『ダンプレン』という『ダンプリング』と似た名前の料理を作った……なんて話は有名ですかね」

「少なくとも僕は知ってる」

 小笠原諸島の郷土料理だ。それが何でこの岩手県に? 

「空岳の猿神様は、そのダンプレンが好きだそうです」

「小笠原諸島の郷土料理を?」

「ええ。外国のものや言葉が好きらしいです」

「なるほど」

 いや、なるほどと納得していいものかは分からなかったが、しかし気になることが一つ、あった。それはカビのように根を張って僕の思考を犯した。

「神様……山……」

 山は境界線となり得る。

 そして、道祖神。

 山の神様。

 繋がる気がするのは、僕だけだろうか。


 *


 問題の空岳という山はかなり勾配が急な山らしく、初心者向けの登山コースですらひいひい言いながら登らなくてはならなかった。

 だが一応登山コースというだけあって階段はあったし、そしてありがたいことに、その猿の神様が祀られている神社が山の中腹にあるそうだ。旅館の人に道のりも教えてもらったから特に迷うことなく進めた。急斜面を除けば概ね予想通りといった感じだ。

 僕は一人、伊達崎教授の調査班からは離れて活動していた。理由は特にないのだが、強いて言えば、学者の目と作家の目は違うから、学者がありがたがる話は僕からするとさして美味くないことが挙げられるかもしれない。

 さぁ、そういうわけでとぼとぼ歩いていると、問題の神社に辿り着けた。僕の目の前には何段続くんだというくらい長い石の階段が現れた。

 神社自体はかなり古ぼけていた。鳥居は崩れそうだし、山の中にあるからか参道にも苔が蒸していたり雑草が生えていたりする。これが本当に問題の神社か……? そう思って、石段を一歩、踏む。

 カラリ。途端に音がした。石段が少し崩れたのか、と思ったが、しかしそれは階段の脇からしていた。僕はそこに目をやった。

 ニヤッと笑う……猿か? 

 地蔵くらいのサイズの、石で作られた猿の像があった。ものをねだるように添えられた両手。その手には……立方体の石。四角いそれは何だかサイコロみたいだった。僕は少し近づくとそれを見た。猿の石像はやはり微笑んでいた。

 と、思い出す。

 山にいるのは猿の神様。

 ここは神社。そしてそのそばにいる猿の像。道祖神は多くの場合石で作られている。

 実際、猿の像の背後にはいくつもの石が並んでいた。その数……少し数えられないくらいだ。これも道祖神なのか? 

 となると、もしや、この猿の石像が……。

 道祖神にしてこの神社の御神体である可能性は、高い。

 写真を撮っておくか。

 そう思いスマホを像に掲げた、その時だった。目の前を何かが勢いよく通り過ぎたと思ったら、僕は手を弾かれていた。当然、手にしていたスマホも地に落ち……ていない? 

 僕が目を向けた先。

 そこには一匹の猿がいた。眉の辺りに青い線の入った、不思議な猿。木を彫って作ったんじゃないかというくらい硬質な毛が印象的だった。猿は「キキ」と鳴いた。それから、石段の上を三歩、進んだ。

「返せ!」

 僕はスマホを取り戻すべく猿に近づこうとする。だが、動けない。足が地面に根を張ったように、動けない、一歩も、一歩たりとも進めない、地面に縫い付けられたから体だけが前に出て、僕は危うく転ぶところだった。僕は何とか上半身を立て直すと、起こったことを理解しようとした。

 足。

 やはり、動かない。

 何だこれは。何なんだ。

 咄嗟に高山病を疑った。だがこんな症状聞いたことがない。酸素が薄くて幻覚でも見たか。頭を振って正気を取り戻そうとするが視界はクリアで頭の中もさっぱりしている。何だ。何が起きた。僕はいったい、どうしてしまったんだ? 

 ふと、目の前の猿を、見る。

 キキ、と笑う猿。

 だが猿は次の瞬間、すっと指を伸ばすと道端の石像を示した。そこにはサイコロ状の石を手のひらに乗せた猿の石像があった。漠然と、僕は理解した。

 立方体の石……もしかして。もしかして。

 猿の石像には手を伸ばせば届いた。だからその手のひらにある石をそっと手に取った。立方体の石の側面には傷が一つ……いや別の側面には二つ、また別のところには三つ……四つ、五つ……六つ! やはりこれはサイコロだ。傷の数が数字を示しているんだ。

 からり、と手のひらの上でそれを転がしてみる。

 二の面が出た。すると、途端に。

「すたぁと」

 僕からスマホを奪った猿が叫んだ。男の怒号のようなそれは僕の心臓を跳ね上がらせ、一歩後ろに下がってしまった。そしてそう、気づいた。足が動く。足が動くぞ。

 慌ててもう一歩、踏み出してみる。続けてもう一歩……だがそれは踏めなかった。やはり足が地面に縫い付けられたように動けない。何だこれは。いったい何が……。

 そう思って、気づく。

 さっき振ったサイコロ。出たのは二の目。だから、二歩なのか? 後ろに下がった一歩と前に踏み出した一歩。合わせて二歩。サイコロの目が二だったから二歩しか歩けなかったのか? 

 すると目の前にいた猿がまた「キキ」と笑った。それからいつの間に手にしていたのだろう。僕が持っているのと同じような石ころをカラリと足元に転がした。猿はまた男の怒号のような叫び声で告げる。

「ごッ」

 ご。五か。あいつ五歩進めるんだ。すると僕の予想通り、猿は今いた場所から五段上に進んだ。それから僕の方を振り返り、また石段の頂上を仰ぎ見て、それからニタっと笑った。何となく、察する。

 先に石段の頂上に着いた方が勝ち、ということか。サイコロを振って出た目の数だけ前に進めて、最終的に先に石段の頂上に着いた方が勝ち、と。スマホを奪ったのは僕を勝負に引き摺り込むため。なるほど、そうか、僕は、猿に、喧嘩を売られているのか。

 面白いじゃあ、ないか。

 しかしふと、先ほどの猿の石像の後ろに目をやる。

 あの数の石。いったい何なんだと思ったが……もしかしたら……。

 勝負に負けた、人の数だとしたら。

 もしかしたら、僕は負けたら石にされるのかもしれない。

 いや、されるのだろう。本能的にそう思っていた。

 ならば、負けるわけには、いかない。負けたら人じゃなくなってしまう。

 僕は覚悟を決めるとサイコロをカラリと振った。手のひらの中でそれは、六の目を示した。

 六歩。六歩前に進める。

 一、二、三、四、五、六。

 猿は三歩先にいたところからさらに五歩登った。つまり八歩。僕は六歩だ。八歩対六歩。差は二歩。まだ埋まる。

 キキ。猿が笑う。

 猿はサイコロを振った。何の目だ。いくつ出た。しかし猿はまた「キキ」と笑うとそのまま三歩前に進んだ。三の目か。僕もサイコロを振る。

 ……一! 

 くそッ、最悪だ。大した数になりやしない。猿と僕の歩数の差は四歩。広がっちまったじゃないか。

 石段の造りは不規則だ。一つの段が広かったり狭かったり。僕がいる段は狭かった。だからだろう、立っていると少し足が痛くなった。だが例によって足は縫い付けられたように動かない。早くこの段から脱したい。

 猿がサイコロを振った。今度は何の目だ。しかし猿は僕の方を見てまたニタっと笑うと、今度は五歩進みやがった。また五の目を出したな。

 猿は石段の上を進んだ。一段だけ、妙に広い段があったから猿は二歩進んでその段を登ったが、猿は明らかに……まぁ当然だが……僕より先にいた。僕を見下ろしていた。

 しかし、まだだ。まだ大丈夫。四段差ならひっくり返せる。僕は手にしていたサイコロを振った。そして、そう。出る。

 ――六の目ッ! 

 六歩進めるぞ! 僕は喜び勇んで前に六歩進んだ。猿との差は三歩。よしよし。まだ逆転できる。できるぞ。

 続けて僕たちはサイコロを振る。

 三、一、四、三、六、六、一。

 六、二、三、二、一、一。

 七回振ってなお、猿が勝っていた。差は十一歩。そして、残りの段数は。

 十二段……。

 猿は頂上まで後一回振ればどんな数字でも勝てる。だが僕は例え六を出してももう勝てない。

 震える。足が、震える。

 負けか? 僕の負けなのか? 

 サイコロの順番は僕だ。だがもう何をやっても勝てない。何が出ても勝てない。ダメだ。もう終わりか。僕は石になるのか? 石になって、あの猿の石像の後ろに陳列されて、誰が来るとも分からない神社の片隅で、苔に蒸されて永遠に閉じ込められるのか……? 

 ふと、猿を見る。

 猿もじっとこちらを見ている。

 試すように。笑うように。

 僕は考える。猿の出した目に何かイカサマはなかったか。猿が何か反則を、こちらの目をたばかるようなことをしなかったか。僕は考える。数字を数える。

 三、五、三、五、三、一、四、三、六、六、一。

 全部で四十。

 だが猿がいる場所は……そこでふと、気づく。

 いや、もしかしたら、これは。

 負けが確定してもなお、最後に頂上に立つまではゲームが続行されるのかもしれない。

「ふふふ……ふふふふ」

 笑いが漏れた。笑いが、漏れた。

 それから僕は目線を上げると、じっと猿の方を睨んだ。睨んでから、つぶやいた。

「この飯田太朗を舐めるなよ」

 これだ。この一回で決まる。この一回を振れば、そこで勝敗が決する。

 サイコロを振る。石のサイコロを振る。カラリ。カラリ。カラリと転がって出た目。僕は凝視した。そして、運命は。

 出た目。

 それは六だった。

 僕は刮目した。猿を見上げる。猿も試すようにこちらを見ている。それから僕は……そう、僕は。

 大股で一歩踏み出した。大きな一歩でまず、石段を一段飛ばしで前に進んだ。これで一! 続いてまた大股で一歩。またも一段飛ばしで二! さらに僕は進む。また一段飛ばしで三! そしてそう、この調子で行けば……! 

 六の目が出た今、一度に二段進めば逆転できる! 十二段進めば猿に勝てるのだ! 

 これが可能なことにはさっき気づいた。猿の進んだ段数を見てほしい。猿は三十九段進んでいた。だが出た目の合計は四十だ。一歩少ない! そして僕は思い出した。

 そう、この勝負序盤。

 猿が妙に広い一段を登った時。

 あの時猿はその一段の中で二歩進んでいた。そしてその後に階段をまた登った。サイコロの目の数は単純に進める歩数のことを示していて、例えば階段の一段の中で二歩歩けば登れる段数が減るのだ。そう、だから猿は一段少なく登った。三十九段しか登れなかったんだ! 

 思えばもっと早くに気づくべきだった。この勝負最初の一コマ。僕が出した「二」の目に対して僕は二段進めなかった。。ここにもヒントはあった! 僕はもっと早く気づくべきだった……!

 大股で進む僕。やがて猿を追い越した。そうして登り切った僕は無事、最上段にまで辿り着けた。振り返る。猿がいた方を、振り返る。

 だがそこには猿はいなかった。あるのは僕のスマホだけ、石の段の上に置きっぱなしにされていた。僕は数歩下がるとそのまま落ちていたスマホをポケットにしまって、一息ついた。それからまた前に進み、崩れかけた鳥居をくぐった。

 なるほど、そういうことか。

 海外のものや言葉が好きな猿の神様。

「すたぁと」とはそういう意味だったんだ。

 神聖な空気が僕の肺を犯した。しっとり湿った空気は肌にも良さそうだった。参道の上を歩く。僕に勝負を仕掛けてきた猿に、敬意を払いながら。


『すたぁと』了

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すたぁと 飯田太朗 @taroIda

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