蓮花の王
鐘古こよみ
【三題噺 #50】「喧嘩」「紋章」「つぼみ」
<タティン・グ・ワッ>はタティン族の言葉で「蓮の中の楽園」という意味だ。
よそからは単にタティン王国と呼ばれる。
大陸から雫のように突き出した半島の中で、黒髪黒目のタティン族を中心に、静かな生活を営んできた。
数百年前、大陸を追われて半島に逃げ込んできたラム族も、今では自分たちをタティン・ラムと呼んで、すっかり馴染んでいる。
湿地や沼沢の多いこの土地では、古来より蓮の栽培が盛んだった。
タティンの初代王を産んだのは、人に化身した蓮の精霊だと伝えられている。
「王様じゃ。ナスイール様じゃ。ほれ、しっかりご挨拶せんかい」
背を押されてタシムは前に出た。
美しい青年が目の前に立っている。
ゆるりと纏めて肩から流れ落ちる長い黒髪は、夏の夜の河のようだ。
瑞々しさを湛えた
「は、は、は、初めま……して……」
体中が熱く、喉がカラカラになって、タシムはまともに声が出せない。
言い伝えは本当だと思った。
こんなに綺麗なお方が、人間であるはずがない。
「そう緊張せずとも。かわいい子だね。いくつかな」
声まで美しかった。艶やかな亜麻色の絹糸が耳を撫でるよう。
「へえ、十一になります。末子ですので、いずれこの蓮畑の管理を継ぎます」
「そなたたちのお陰で、王領の蓮畑から採れる蓮は、他のどの土地のものよりも端麗で芳しいと評判だ。礼を言う。少しだが、褒美を受け取りなさい」
お付きの者が数人、布を被せた盆を携えて王様の後ろに控えていた。
豪奢な織物や珍しい果物を家長である祖父が拝受している間に、ナスイールはタシムをそっと手招きする。
おっかなびっくり近寄ると、漆塗りの小さな器を差し出された。
「菓子だ。蓮の茎の砂糖漬けは、お前たちでも滅多に口にできまい」
蓋を開けると、短く切られて糖衣を纏い、緑柱石のようになった蓮の茎が、甘い香りと共にたくさん詰め込まれていた。
促されて一つ口にする。びっくりするほど美味しい。
薄茶の目を真ん丸に見開いて言葉も出ないタシムを、ナスイールは好ましく思ったらしい。舟を出して蓮畑を案内するよう、申し付けた。
丸太を刳り貫いて造った、喫水の浅い舟だ。細長く、数人しか乗れない。
広大な沼を覆い尽くす蓮の葉の合間を縫って進むには、都合の良い形だった。
護衛官を一人だけ連れて、タシムと共に、ナスイールは舟に乗り込んだ。
タシムは長大な竿を操り、ぐいぐいと舟を進ませる。
一番眺めがいい場所はもっと先にあるのだ。四方を蓮の葉と色付いた花々に囲まれ、陸地は見えず、まるで本当に楽園に来たかのように思える場所が。
張り切り、焦っていた。蓮の花の見頃は早朝だ。もう昼近いこんな時間じゃあ。
「そう焦らずともよい。もっとゆるりと風景を楽しませておくれ」
笑い含みの声でナスイールが言う。
タシムはむくれた。
「だって王様、蓮の花の見頃は」
「わかっている。だが、閉じた蓮の花も悪くはない。我が王家の紋章は、蓮の花のつぼみだ。見たことはあるか?」
王領の印はわかるが、王家の紋章というのは、そういえば見たことがない。
首を横に振ると、ナスイールは、軽く指を曲げて左手の甲を差し出した。
中指に指輪がある。色と木目からして、
確かに蓮の花のつぼみだ。すっと立ち上がった茎の先で、折り重なって閉じる花弁の様子が、まろやかな膨らみと共に表現されている。
「咲いた蓮ではないのですか?」
王様の気安さに慣れてきたタシムは、遠慮せず聞いた。
ナスイールは笑って答える。
「この蓮の花が咲いた時、精霊は元の世界に帰る、と言われている」
「精霊って、最初の王様を産んだという、あの」
「そう。最初の母が蓮の精霊であったがゆえに、代々の王にも、精霊の魂が受け継がれているらしいのだ。いかにも伝説らしい、曖昧な話だが」
木彫りのつぼみが咲くとは、どういうことだろう。
曖昧と言えばそうだが、ナスイールの滑らかな声で聞かされると、そんなこともあるのかもしれないと、不思議に信じられるような気がした。
「木彫りのつぼみが咲くなんて、すごいですね! 本当ならぜひ、見てみたいです。でも、精霊が元の世界に帰っても、王様は平気なのですか?」
「いや。恐らくは王自身も、この世からいなくなるのではないか」
「えっ、それはつまり……」
「我が王家が滅びるということだ」
「だとしたらその花は、咲かない方が良いです! 絶対にそうです!」
タシムは慌てて言い募った。この美しい王様がいなくなってしまうなんて、想像するだけで眩暈がする。
「いなくならないでください、王様」
「嬉しいことを言ってくれる。やはりお前は、かわいいね」
腕を伸ばしたナスイールに指の背で頬に触れられ、タシムは赤くなった。
目的の場所に着くと、蓮の花はほとんどが閉じかけていた。
しかしナスイールは、泥から立ち上がる清浄な植物に囲まれ、楽しそうだ。
「私の中にある精霊の魂が喜んでいる」
「わかるのですか?」
「不思議なことに、そうとしか思えない」
「寝転んでみてください。もっと気持ちがいいですよ」
同乗している護衛官が何か言いたげなそぶりを見せたが、ナスイールは構わず舟底に寝そべった。蓮の茎と葉と花に縁どられた、雲一つない青空が見える。
「ああ、ここならよく寝られそうだ」
「実は仕事の帰りに、少し休んでいくことがあるんです」
「陸地からも見えぬ。これはいい休憩場所になろう」
微笑んでナスイールは目をつむり、しばらくそのままでいた。
数日経って、大陸からの不穏な噂が、のどかな蓮畑の村にも届いた。
大陸では、かつて小国だった北方のカリャン王国が権勢を増し、周辺諸国を次々と支配下に組み込んで、近頃では皇国を名乗っていると聞く。
そのカリャンが、ついに大陸最南端のモン王国をも制したというのだ。
蓮の国タティンの雫型の半島は、モン王国の南西部にぶら下がる形をしていた。
今後はカリャン皇国を隣人としなければならない。
「じき、ここにも攻め入るだろう」
大人たちが暗い顔をして話し込んでいた。
「西域の船が外洋によく現れるようになった。カリャン皇帝は奴らを警戒している。タティン王国を放っておけば、奴らに奪われると考えるだろうからな」
「そうなれば大陸への足掛かりを作らせることになると?」
「そうだ。そして事実、そうなるだろう。どちらが相手でもタティンに勝ち目はない。小さな国だ。圧倒的に兵力が足りない」
国同士の喧嘩の話をしているのだ。
子供のタシムにはまだよくわからない。なぜ、そんな必要があるのか。
翌年、蓮の花が咲く季節に、王様は再びやってきた。
「昨年、タシムと約束したのだ。次は花の見頃の時間帯に来ると」
そう言ってナスイールは、昇ったばかりの太陽を背に微笑んだ。
タシムは舟を出した。大張り切りだった。
早朝なので、今回は少しばかり仕事もある。
王様はそれも見たいと仰せだった。腕が鳴って仕方がない。
黒い水面に尾を引きながら、沼の上を滑るように進み、最も蓮の生育がいい場所にたどり着いた。
花弁の先を上品な紅紫に染めた蓮のつぼみが、次々に開こうとしている。
中には、上部を色糸で縛られたものもあった。
「あれがお前の仕事だね」
「はい、そうです。ご覧ください」
器用に舟を寄せると、タシムは手を伸ばして、花を縛る色糸の一つを解き放つ。
溜息をもらすように花が緩く開き、甘さの中に渋みのある、清らかで複雑な芳香が周囲に広がった。
タシムは花の中に手を入れ、暗い色味をした何かの塊を取り出す。
球状に固められた茶葉だ。
「花の中に茶葉を入れ、紐で縛って香りづけをし、翌朝取り出して乾燥させます。これを三回繰り返すことで、香りの良い蓮花茶が出来上がるんです」
「確か、おしべと混ぜる方法もあったはずだが」
「はい。飲み比べると少し香りが違います」
「こちらの方が手間がかかりそうだが、優美だね」
タシムが花の中からせっせと茶葉を取り出す姿を、ナスイールは目を細めて眺めた。いつの間にか周囲の花が全て満開になり、この世の楽園かと思われるような光景が広がっていた。水晶のごとき朝露の輝きと、蜜に宿るすっきりとした芳香。
「私もやってみたい」
護衛官が止める間もなく、ナスイールが手を伸ばした。
色糸を解き、中の湿った茶葉を取り出し、ザルに並べる。
「王様、お上手です」
「これしきで褒められてはな。思うに、入れる作業の方が難しいのではないか?」
「はい。茶葉を一定の大きさに丸めないといけないし、どの蓮の花が入れ頃なのか、見極めなくてはなりませんから……」
「なるほど。では、次はそれを手伝うとしよう」
ナスイールはにっこり微笑み、そう約束をした。
三年の月日が経った。
王様は忙しいようで、あれから一向に蓮畑を訪れない。
大陸では、カリャン皇国の動きが不穏さを増していた。
初夏のある日、ついに、カリャン進軍の一報が轟いた。
「半島へ至る道は隘路だ。伏兵を嫌って海から攻め寄せるらしい」
村の男たちが真剣な顔をして話し合っている。
「とんでもない軍勢だ。あちらはタティンの五倍は国土があるからな」
「多勢に無勢が過ぎる。王様はどうなさるおつもりか……」
タシムは耳を塞ぎ、蓮畑へと駆け出した。
心の中に浮かぶのは、優しげな黒い瞳ばかり。
あの美しい人が、戦争をしなければならない。
翌朝、まだ薄暗いうちから、意外な訪問者があった。
護衛官一人だけをつれた、王様のナスイールだ。
王軍が海岸に向けて行軍中で、近くに宿営を決め、抜けてきたらしい。
「花に茶葉を入れる仕事を手伝うと、以前に約束した」
憂いなど微塵も感じさせない微笑を浮かべて、王様はタシムの肩を叩く。
「すっかり大きくなったな、タシム」
胸がいっぱいで何も言えず、タシムはただ頷いた。
静かに舟を出す。
空が瞼を開けるように、沼の向こうに黄金の直線が走った。
一度始まってしまえば、夜明けというやつは、誰よりも足が速い。
その日の作業場に着くと、タシムは王様に、茶葉の丸め方を教えた。
「三つの指で
「なるほど、こうか。それで、どの花に入れよう」
「前日に使った花は休ませます。ええと、僕が選びますので」
開いた花に茶葉を詰め、色糸で花弁を縛る。
三つ作業しただけで、岸に戻ることになった。
「タシム、手間をかけたな」
王様は微笑んでそう言うと、もう振り返ることなく、行ってしまった。
タシムは何も言えずに頭を垂れた。
翌朝、一人で蓮畑に出たタシムは、色糸を解く作業を始めた。
王様が手掛けた花のうち、一つに手を差し入れた時だ。
指先に硬いものが当たった。
茶葉ではない。何か入っている。
取り出してタシムは息を呑んだ。
指輪だ。
折り重なった花弁の底をまろやかに膨らませた、蓮のつぼみ。
王様が身に着けていたはずの、紋章の指輪だった。
やがて、タティン軍が海岸に布陣した、という噂が聞こえてきた。
水平線は夥しい数のカリャンの軍船で埋め尽くされているという。
タシムは指輪のことを、他の誰にも告げていない。
昔、王様から頂いた漆塗りの菓子容器に入れ、衣装箱の奥にしまって、夜寝る前にこっそり眺めることにしていた。
ある日、指輪を取り出して、タシムは立ち尽くした。
蓮のつぼみが開いていたのだ。
*
「お前たちの王は投降した。今後は我がカリャン皇帝に仕えよ」
半年ほど過ぎた頃。
カリャン軍の甲冑を身に着けた兵士たちがやってきて、王領の蓮畑の村を取り囲み、祖父から家督を継いだ父に向かって、唐突にそう告げた。
「ご命令に従います。ですが、王様はご無事なのですか」
父が尋ねると、将帥らしき人物は、なぜか顔を引きつらせた。
「お前たちの王は……死んだ」
「えっ!!」
その場にいるタティン人が驚きの声を上げ、顔を見合わせる。
「戦いのさ中に命を落とされたのですか」
「捕らえられて処刑されたのですか」
「うるさい。俺も詳しくは知らん」
とにかく、命令に従うならばこれまで通りの生活をして良いこと、タティン王の話は今後一切口にしないことを約束させ、いくばくかの見張りの兵を土産に残して、将帥らしきその人物は引き上げていった。
これまで散々聞かされてきたカリャン軍兵士の横暴さは、態度から見え隠れはしたものの、実際の脅威になることはなかった。
残された兵士たちも、王様のことを尋ねると皆顔を引きつらせ、口を噤む。
――何かある。
村の人々は目で語り合い、タシムはぽろぽろと涙を零した。
王様が亡くなった。
それは本当のことなのだと、自分だけはとっくに知っていたからだ。
指輪の蓮のつぼみが、あの日確かに、花開いたのだから。
*
王様の死の真相とでも言うべきものが、末端に暮らす民の耳にまで届くようになったのは、不可思議な侵略から一年余りが経った頃のことだ。
遍歴の僧が竪琴を鳴らしながら、村の井戸端で小銭稼ぎに弾き語りをした。
曰く、
――水平線を埋め尽くす夥しい船影。
黄金の甲冑に身を包み、蓮の王ナスイールは、兜の隙間から彼我の距離を目で測っていた。彼の王には思惑があった。
カリャンの大型船が陣形を整え、兵が揚陸船に乗り込む前に、動かねばならぬ。
ナスイールは、豪奢な装飾の施された貴人用の揚陸船に、四人の漕ぎ手と共に乗り込んだ。目指すは敵将の船である。
タティン攻めを任されたカリャン軍の将帥は、攻撃の意図なしと見て、ナスイールただ一人を甲板に引き上げた。
腰の宝剣を取り上げようと駆け寄る兵士に、王は蓮の花のごとき微笑を向ける。
「我が王家の魂である。皇帝の代理たる将帥に、魂なき器と話をさせたいか」
将帥は帯剣を許した。
ナスイールに無数の
用件を問う将帥に、蓮の王は明瞭に答えた。
「そなたたちの欲するものを届けに来たまで」
「欲するとは、いかに」
「私の首だ」
流れるような動作で宝剣を抜き放ち、白銀に輝くその刃を、ナスイールは己の首筋に沿わせた。
甲板がざわめく。さすがの将帥も驚きを禁じ得ない。
「戦わずして負けると申すか」
「負けるとは、なんのことか」
涼しげな
「国が荒らされ、民が踏み潰され、夥しい血が流れることではないのか」
将帥は言葉に詰まり、精霊の末裔と噂される美貌の王を、ただ眺める。
「皇帝に伝えろ。我が首をくれてやる。
だが、我が民の血は決して渡さぬ。
我が民を傷つけ、苦しませ、生きるよすがを奪った時、蓮はお前を呪うだろう。
首まで泥に浸かり、全身に穴を開け、苦しみながら死ね。
タティンの民を傷つけた全ての者が、同じ運命を辿るだろう。
私は精霊の世界に戻り、全てを見ている。
書記官よ。全て過たず、書き加えたか?」
言い終わるが早いか、ナスイールは宝剣を自らの首に振り下ろした。
人間には不可能な所業だ。しかし、それが
黄金の甲冑に包まれた体が、宝剣を手にしたまま後ろに倒れる。
鮮やかな血が甲板に流れた。
兜の下から黒い瞳が、
「ひっ……」
将帥は辛うじて我を保ち、その目を抉れと喚いたが、誰も動こうとしない。
その目を閉じよとの命令に、ようやく側近の兵が動いた。
だが、蓮の王の黒い瞳は、どうやっても隠れることがなかった。
首桶が用意され、兜を外されたナスイールの首が、震える手で収められる。
全軍を待機させ、後方に控えていた足の速い船に乗り換えると、将帥は首桶を携えて大急ぎで皇都へ戻った。
話を聞いた皇帝は、慄然とした。
「タティン王国の王が精霊の末裔だとの伝説は、聞いたことがあるが」
どこの王家にも一つや二つある与太話だと思っていたのだ。
「とにかく、その首を見せてみよ」
報告を終えた将帥は、既に倒れんばかりの青い顔をしている。
首桶は、人の頭が入っているにしては軽く、微かに良い芳香を放っていた。
震える手で蓋を外す。
途端、甘く清浄な蓮の花の香気が、謁見の間を覆い尽くした
大きな白い蓮の花が、桶の中で華やかに咲き誇っていた。
カリャン皇帝は直ちに命令を発した。
タティンの民を支配下に置くはいいが、決して傷つけぬこと。
蓮の王の死に関することを目撃した者は、口を閉ざすこと。
王様が消えた以外に、タティンの民の生活が変わることは、ほとんどなかった。
雫型の半島は、人に支配される土地になった。
*
「おじいちゃん、蓮の王様のお話、もっと聞かせて」
末の孫娘が、膝にすがって薄茶の目を煌めかせている。
寝台の上に身を起こしたタシムは、細く息を吐いて目を細めた。皺の寄った自分の左手には、つぼみの紋章の指輪が嵌められている。
「わしが蓮の王様について知っていることは、これが全てだよ」
「その指輪のつぼみは、もう二度と咲かないの?」
そうさなあと呟いて、タシムは窓の外を見た。
鶏や山羊がうろつく庭の向こうに、広大な蓮畑が広がっている。
「蓮の精霊は帰ってしまった。だが、一度は来たのだ。いつかまた、人間の世界を訪れてくださることが、あるかもしれないな」
「じゃあ、次にそのつぼみが咲くときは、きっといいお知らせね」
かわいいことを言う。思わず孫娘の頬を撫でて、タシムは、いつか自分も王様にそうされたことを思い出した。
「わしが死んだら、お前がこの指輪を受け継いでおくれ」
「変なこと言わないでよ、おじいちゃん」
唇を尖らせる孫娘の名を、遠くの部屋から母親が呼んでいた。
孫娘が去った後、タシムは再び蓮畑に目を向ける。
あれから随分と月日が経った。
王様の遺体は、頭も体も蓮に変化したと、まことしやかに伝えられている。
海岸に布陣していたタティンの将兵たちは、王様から事前によく言い含められていたらしく、品位を持って皇国軍を迎え入れた。
皇帝がタティンの民を傷つけることはないと知るや、粛々と武装を解除した。
改めて皇国軍に籍を得た者もいれば、郷里に帰った者もいたという。
皆、ナスイール王が真の勝者だと語って、憚らなかった。
「王様」
タシムはしわがれ声で呟いた。
「ありがとうございます、王様」
目の端から涙が零れ落ち、左手の甲にかかった。
その生温かさにふと視線をやって、タシムは目を瞠る。
左手の中指に嵌めた指輪のつぼみが、咲いていた。
――これで、王様に会える。
そう思った瞬間、タシムは花に吸い込まれていた。
たちまち体は、透明な風になった。
どこまでも続く蓮畑の上を、舟を漕ぐより速く、ぐんぐん飛んでいく。
空を逆さに映す黒い水面。深緑の大きな葉と、先端を紅紫に染めた蓮の花たち。
天も地もない風景の合間に、細長い舟が一艘、ぽつりと浮かんでいた。
長い黒髪を背に敷いた青年が、仰向けで心地よさそうに寝ている。
タシムは夢中で、大きな声で呼んだ。
――王様!
青年が目を開け、艶やかな黒い瞳を露わにした。
――指輪のつぼみは、本当に咲きましたよ!
青年は風の中をじっと見て、耳を澄ませている。
――蓮の国の民は王さまのお陰で、幸せに暮らしています!
――ありがとうございます、王様!
――ありがとう……
青年が微笑むのを見届けて、タシムは風に溶けた。
<了>
蓮花の王 鐘古こよみ @kanekoyomi
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